吉田篤弘◆神様のいる街  …………☆1.17震災以前の神戸の街。懐かしいけれど、すこぶるモダンで、華やかだけれどシックだった。

20180713

2018.07.13神様のいる街


  街の人々が一日を始めていく様子が快かった。駅を中心にして、若い人たちも老人たちも、皆、思い思いに街を歩いて行く。

 神戸の中心地区は、海側のオフィス街と山側の住宅地の距離が歩いて行ける距離にあった。東京には、なかなかそういう街はない。

 鞄の中の『悪魔のいる文学史』はフランスの異端文学者について書かれた本だったが、僕はフランスになど行ったことはなく、異国への旅は本の中でしか味わえなかった。

 でも、住居とオフィスと商店が歩いて行ける距離に収まっているのはパリのようじゃないかと思う。

 生活と仕事が渾然一体となっていて、歩いてすぐだから、生活をそのまま纏った人たちが、仕事を始めるために朝の街に繰り出してくる。

 フランスの昔の小説に出てくるパリに似ていた。


◆神様のいる街 |吉田篤弘 |2018年4月 |夏葉社|ISBN:9784904816271|○

 「神様のいる街」とは、神戸と東京・神保町。吉田篤弘(1962~)のデビュー以前の自伝的エッセイ。

 本書に描かれた神戸は、おそらく1980年代の、つまり1995.1.17以前の今はない懐かしい神戸である。上掲の鞄の中の『悪魔のいる文学史』とは、出たばかりの澁澤龍彦の中公文庫版ではないかと思われる。
 かつての神戸が「フランスの昔の小説に出てくるパリに似ていた」とは、海も山もあるが川のない神戸っ子にとっては気恥ずかしいが、1.17以前ならいいだろう。

 ここに描かれた三宮センター街入り口の神戸最大の古書店「後藤書店」も、独特の書棚の並べ方をした元町3丁目の「海文堂書店」も、ハーバーランドに移っていたビーフシチューの「明治屋神戸中央亭」も、今はない。そして著者が結婚式をした六甲山上の教会がもし六甲オリエンタルホテルの庭にある安藤忠雄設計の「風の教会」なら、ホテルは解体されたが教会のみ原形をとどめている。

 ――西欧風でありながらアジア的で、海の街でありながら山の街でもある。懐かしいけれど、すこぶるモダンで、華やかだけれどシックだった。 (本書)

 もっとも海と山との境界線にあたる元町駅高架下の台湾料理「丸玉食堂」は健在である。中古レコード店「ハックルベリー」、「神戸エビアンコーヒー」、「にしむら珈琲」、「元町ケーキ」、「堂記豚肉店」、「オリエンタルホテル」など、南京町、旧居留地辺りをふくむ元町界隈が著者の好みだったように思える。

 ――この街には無数の物語があった。小さな箱におさまった物語が街の至るところに並び――それはつまり小さな街に小さな店がひしめている様そのものでもあったが――本棚に並ぶ書物のように、ぺージをめくれば、そこに尽きせぬ物語が隠されていた。 (本書)

 では、当方も元町辺りの思い出の地のことを一つ。

 大丸神戸店山側のちょっと見つけにくい場所にあるスナック「絆」。時代遅れのジュークボックスがあり、半円形のカウンターの前に7人座れば、すなわち満席。
 陽子ママは、子どものころ福井大地震に遭い、母と神戸へ移り住んだ。その高齢の母の健康状態を気にしながら、ここで再び地震に遭うなんてと愚痴り、しかし自らの避難場所の学校でボランティアをしていた。

 この店は山側の飲み屋街ではなく浜手の裏通りにあったので、客は大丸の女店員や近所の商店主が仕事帰りに立ち寄るところ。当方の句に、「大丸を出て汽笛きくクリスマス」。
 当方が神戸を離れたこともあり、連絡の手違いがあり店を閉めたあとにそれを知った。数年ぶりに訪れたら、「絆」の古い建物は壊され、小さな洋品店になっていた。

 ――街の人たちは、そのいくつもの物語をそれとなく知っていて、物語を引き継いたり、ときには、物語に突き動かされたりしながら毎日を生きている。 (本書)

 人工島を一周する無人電車が走っている、とあるのは、ポートアイランドのポートライナーのことだが、当方が気に入ったこのフレーズ。

 ――無人電車は、縦にではなく横にまわる観覧車なのだった。 (本書)

 こんな一節もあった。

 ――神戸にいると、僕は神様の声が聞こえるのだ。
 (いいか、いまのうちに見ておけ)
 神様は何度もそう云っていた。けしかけるような云い方だった。
(本書)
 


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原 雄一◆宿命――警察庁長官狙撃事件捜査第一課元刑事の23年 …………☆“国難テロ捜査”であるゆえに、真犯人を起訴せず“未解決”となった

20180531

2018.05.31宿命


いまこのとき、警察庁長官を暗殺すれば、だれもがオウム真理教団の犯行と考え、自分は捜査線上に浮上せずに逃げ切れると目論んだ。

ところが、名古屋市内で現金輸送車を襲撃して逮捕された失敗から、警察に三重県名張市内の住居を割り付けられて捜索差押えを受け、警察庁長官狙撃事件の容疑者として急浮上することになった。

  思案をめぐらせた中村は、世間から強盗事件を起こして捕まった哀れな老人と見られて朽ち果てるよりは、この際、警察庁長官狙撃という偉業を成し遂げたことを明らかにして、注目を集めようと考えた。

   そこで、個人的な恨みを晴らす目的などはいっさい封印して、狙撃により警察捜査を加速させ、オウム真理教団を壊滅に追い込んだことを自らの功績や義挙として供述した。
〔…〕

 だからこそ、取り調べでは、オウム真理教団の化学兵器を使ったテロから市民を守るという大義を掲げて暗殺行動を実行したと供述した。

 これが長期間にわたり中村の取り調べをしてきた私の見解である。
 いずれ公判において、中村が創造したストーリーを、私の証言によって論破する予定でいたが、それはついに叶わなかった。


◆宿命――警察庁長官狙撃事件捜査第一課元刑事の23年 |原 雄一 |2018年3月|講談社|ISBN: 9784062210249|◎おすすめ

1995年(平成7年)3月30日午前8時31分頃、國松孝次警察庁長官が東京都荒川区南千住の自宅マンションを出たところ、付近で待ち伏せていた男が拳銃により襲撃、長官は瀕死の重傷を負った。

1995年の社会情勢

1月 4日オウム真理教による被害者の会会長VX襲撃事件発生。
1月17日〈阪神・淡路大震災発生〉
2月28日オウム真理教による公証人役場事務長逮捕監禁致死事件発生。
3月20日オウム真理教による地下鉄サリン事件が発生。13人が死亡、5,510人が重軽傷。
3月22日オウム真理教の全施設、警視庁強制捜査を開始。
3月30日警察庁長官狙撃事件発生。
5月16日オウム真理教の教祖、麻原彰晃こと松本智津夫を逮捕。

 この状況から、警視庁は長官襲撃は真っ先にオウム真理教の犯行と考え、公安部が主導する南千住署特別捜査本部を置いた。その後2004年7月オウム真理教の信者3名を逮捕、うち1名は現職のK巡査長だったが、2か月後処分保留のまま釈放。
 “国難テロ捜査”であるがゆえに、公安部は、事件発生以来、オウム真理教の犯行と見て捜査を進め、最後までオウムのレールから外れてはならず、捜査を尽くさなければならない『宿命』があった。

 他方、本書の著者原雄一を班長に、刑事部捜査第一課は立川市に拠点を置く“中村捜査班”として、現金輸送車襲撃犯である“老テロリスト”中村泰が長官襲撃犯であるとみて捜査を続けていた。
 著者が中村泰を取り調べた日数は、足かけ7年の間に通算215日間に及び、作成した被疑者供述調書と中村が作成した供述書はあわせて50通近くとなり、その供述に対する裏付書類は1000通を超えた。捜査一課刑事の著者にとっての『宿命』である。

 中村泰(ひろし)という男

 1930年4月、東京生れ。東大中退。三鷹市内の銀行で金庫破りを失敗、職務質問を受けた警察官を銃殺、無期懲役。19年後の1976年に仮出所。2002年、名古屋市内で現金輸送車を襲撃して警備員に現行犯逮捕。逮捕されるまでの26年8カ月間の動向がまったく不明。「北朝鮮による日本人拉致問題」で、武装組織を結成して朝鮮総連幹部を拉致し、人質交換を企てたこともある。襲撃事件の詩60篇、貸金庫に拳銃9丁、国内外の金融機関に60口座、偽名30種類。2度の無期懲役。この“怪人”の自伝があれば読みたくなる。

 長官狙撃に関する中村の供述。

 ――オウム真理教団の犯行に見せかけて警察庁長官を暗殺して警察首脳を精神的に追い詰め、死に物狂いでオウム真理教団に対する捜査指揮に当たらせ、併せて全国警察の奮起を促し、オウム真理教団を制圧させることにありました。よって、この暗殺計画は、私利私欲を離れた使命感に基づく行為であり、職務を全うせずに責任回避をして、市民を危険に陥れた警察への強い憤怒が、この暗殺計画を推し進める原動力となりました。 (本書)

 しかし崇高な理念が動機ではないことは、上掲の著者の見解どおり。

 本書には、証拠が示す事実として、下見時、犯行時、犯行後の供述は裏付けが取れ、押収品による主な立証、その他の立証を多くの項目を箇条書きで列記している。その執念の捜査結果は、磁石の針がすべて北を示すように、すべてが中村の犯行であることを示している。本書の詳細な記述を知れば、誰もが中村泰の犯行と納得するだろう。

 だが、公安部と刑事部の溝は深く、「中村捜査班の捜査は捏造・偽造であるから、それを解明しろ」という特命を受けて南千住署特捜本部の捜査員10名が中村捜査班と隣り合わせに張り付く。
 濱嘉之『カルマ真仙教事件』(2017)の著者は、警視庁公安畑の出身でオウム捜査に従事したこともある作家だが、この小説の中で中村泰のことを、テロリストに憧れるただの爺さん、拳銃マニア、左翼崩れのほら吹き男などと、当時の公安部の空気を伝えている。

 ついでに書けば、この事件を扱ったのノンフィクションのうち、……。
 谷川葉『警察が狙撃された日――国松長官狙撃事件の闇』(1998)は、オウム信者の現職警察官の犯罪とし、鹿島圭介『警察庁長官を撃った男』(2010)は現、金輸送車襲撃事件を起こした中村泰を犯人とし、竹内明『時効捜査――警察庁長官狙撃事件の深層』(2010)は、犯人は北朝鮮ルートだと暗示している。また当方は未読だが、小野義雄『公安を敗北させた男――国松長官狙撃事件』(2011)は、 現職警察官犯人説らしい。
 当然ながら原雄一『宿命――警察庁長官狙撃事件捜査第一課元刑事の23年』(2018)が決定版であり、ベスト1である。

 さて著者は東京地方検察庁特別捜査部の主任検察官から、特捜部の見解では中村は狙撃を実行した犯人だと、「しかし起訴するには時間がない。嫌疑不十分として不起訴にするしかない。記者発表の席では、中村は犯人ではない、まったく違うというように、あえて厳しい発表をするが、そのことは分かってほしい」と告げられる。

 2010(平成22)年3月30日、公訴時効を迎えることになる。

 ――立川市の中村捜査班の拠点に戻った。午後4時近くになり、公安部長が私たちの捜査拠点に突然現れた。〔…〕「みなさんの捜査には感謝している。今日の会見で捜査概要をオープンにした。すでに私の手を離れてしまった。会見内容は警視庁としての判断である」。

 ――その後、私たちは公安部長の記者会見内容を知ることになる。
「警察庁長官狙撃事件は、教祖たる松本智津夫の意思の下、オウム真理教団信者のグループにより敢行された計画的、組織的なテロであったと認めた」
 私は、会見内容を見て驚愕した。〔…〕
 公開された「警察庁長官狙撃事件の捜査結果概要」の内容が、にわかに信じがたかった。
 しかも、中村泰の捜査に関してはいっさい触れていない。
(本書)

「調査結果概要」は推定無罪の原則に反する。東京高裁は、オウム真理教団を犯人と断定したことは警察権限の乱用と認めた。未解決のまま時効を迎えた南千住署特別捜査本部の捜査員にまさかの警視総監賞が授与された。まさに“国難テロ捜査”“国策捜査”であった。

谷川葉●警察が狙撃された日
鹿島圭介●警察庁長官を撃った男
竹内明●時効捜査――警察庁長官狙撃事件の深層


上原善広◆路地の子 ……☆“コッテ牛”龍造の痛快娯楽巨編が、最後に悲惨だった現実に引き戻される

20180226

2018.02.26路地の子


龍造は常日頃、恵子にこう言っていた。

「人間はな、金さえ持ってれば馬鹿にはされん。ここの人間で金ない奴はアカン奴ばっかりや。解放運動たらいうのに参加してる奴は、たいがいそんな奴や。

己の才覚と腕一本さえあれば、差別されてもどうってことあらへん。

差別されんのは己が怠けてるからじゃ。貧乏やから差別されるんや。


金さえ持てば、誰にも後ろ指さされるようなことはない」

 龍造はそう喝破していた。だからこそ、仲卸として独立を目指したのである。ただ一つの計算違いは、いま流行りの市民運動の団体だと思っていた解放同盟が、大きな権力を握っていたということだった。


◆路地の子|上原善広 |2017年6月|新潮社|ISBN: 9784103362524|○

 著者は、『日本の路地を旅する』(2009)で、「中上健次に倣い、私もいつの頃からか被差別部落のことを路地と呼ぶようになった」と書き、それは「被差別部落は路地へと昇華され、路地の哀しみと苦悩は、より多くの人のものとなった」からだと。

 さて本書は、昭和39(1964)年、大阪河内・更池のとば(屠場)から始まる。60軒あまりの仲卸業者が買ってきた牛220頭、豚240頭を1日で“割る”、食肉処理場。
 見習いで働いている小柄な中学3年生が、著者の父親である主人公の上原龍造だ。腹にまいたサラシから牛刀を抜いて、18歳の極道見習いに立ち向かう。

 読後思ったのだが、これは何度も映画になった青成瓢太郎、瓢吉親子、飛車角、宮川健、吉良常らが登場する「人生劇場」のようでもあり、一連の東映やくざ極道路線のようでもあると。“コッテ牛”龍造の周りに、愛人、間男、成金、職人、極道、解同、共産党、食肉界のドン(この著名な人物がなぜか仮名)等々、利権への欲望むき出しの人々が登場する“痛快娯楽巨編”。そしてどんでん返しのように「おわりに」でシリアスな暗いトーンになり、現実に引き戻される。

 「自伝的ノンフィクション」であるとしている。父親から聞き取り、裏付けを取ったものだが、細部の会話や描写は想像力を駆使したものだろう。「おわりに」で執筆の経過や著者自身のことが語られるが、この「おわりに」によってノンフィクションとして成り立っているものの、この部分を切り離せば、事実に基づく“物語”といっていいだろう。

 そして40歳を越えた著者は、家族にとって“恐ろしい男”、独特の“筋”を通して路地の中で生き抜いた60代の父親に、愛憎なかばで向き合ったのが本書である。絶賛された本書の著者にエールを贈るとすれば、「おわりに」を抜いた『路地の子』でエンターテイメントの筆力を発揮しているので、そういう方向で差別の真実を潜ませるフィクションの物語を期待したい。

 本書の最後に、著者はこう記している。

 ――書き終えてはっきり思ったのは、私たちは、どこに住もうが更池の子であるということだ。更池という地名はもう残っていない。かつて路地がなくなれば、人に蔑まれることもなくなると考えられた時代もあった。今もそう考える人は少なくない。しかし逆説的なようだが、更他の子らが故郷を誇りに思えば思うほど、路地は路地でなくなっていくのではないだろうか。


伊丹十三◆ぼくの伯父さん――単行本未収録エッセイ集 …………☆『ヨーロッパ退屈日記』こそは、田舎の若者にとって“ぼくのおじさん”だった。

20180215

2018.02.15ぼくの伯父さん


 父は僕がこれから思春期という時に退場してしまった。

 そこで僕は男のモデルなしに成人しなければならなかった。ぶつかってのりこえるべき壁というものがなかった。

 こうしてできあがった人格はおそろしく幼児的で社会的訓練を欠いたものだった。


 これは悲惨だった。僕はおよそ十年は確実にまわり道をしたと思う。

 ――「父」


◆ぼくの伯父さん――単行本未収録エッセイ集 |伊丹十三|2017年12月|つるとはな|ISBN-: 9784908155062|○

 これはなつかしい。伊丹十三(1933~1997)の登場である。没後20年にして、独特の文体によるエッセイが甦った。

 読書好きは本の始末に悩んでいるが、結局は、贈る、売る、捨てるの三つしかない。この年末年始に捨てたものに“雑誌の創刊号”がある。その中に『mon oncle (モノンクル)』があった。伊丹十三が精神分析学者岸田秀とともに1981年に創刊した月刊誌で、半年ほどで廃刊になったと思う。

 で、売ったものに『ヨーロッパ退屈日記』(1965)がある。伊丹が「十三」ではなく「一三」で、ポケット文春という新書判。伊丹のデビュー作である。欧米の匂いを発散させ、ややペダンチックで、しかもユニークな文体。あとがきに「婦人雑誌の広告に、ほら、『実用記事満載!』というのがあるでしょう。わたくしの意図もまたこの一語に尽きるのであります」とある。

2018.02.15ヨーロッパ退屈日記1

 そういえば姫路文学館の「水屋珈琲」というカフェに「昔ながらのナポリタン(サラダ・コーヒー付セット¥950」というメニューがあって、つい最近もそれを食しながら、『ヨーロッパ退屈日記』の「スパゲッティの正しい調理法」「スパゲッティの正しい食べ方」を思いだした。半世紀前のエッセイを憶えているほど、伊丹のカルチャーは当時の田舎の若者にとって衝撃だった。

 本書は、単行本未収録エッセイ集。「父の思い出」というエッセイは、1947年「映画芸術」に掲載された池内岳彦(伊丹の通称)「父ノ思ヒ出」のカタカナ文(現物写真あり)をひらがな文に替えたもの。13歳の見事な文章に驚嘆する。

 父は映画監督伊丹万作(1900~1946)である。「父、万作のかるた」の中に「私の父は、私が3歳のとき結核に罷り、以来ずっと寝たっきりで、戦争が終ったつぎの年に死ぬ」と書かれている。十三13歳のとき「病臥九年更に一夏を耐へんとす」の句を残し、46歳で没している。

 脚本家八尋不二『時代映画と五十年』(1974)の中で、伊丹万作について「登場人物は諧謔的言辞を弄し、諧謔的行動をしてみせる」とし、「日記やエッセイ風なものは実に見事で、映画人であれだけのものを書けるのは、万さんの前にも後にも無かったし出て来ないだろう」と書いている。まるで息子の伊丹十三のことを書いているみたい、と驚いたことがある。

 さて、雑誌の誌名にもしたmon oncle (モノンクル)とは、フランス語で「ぼくのおじさん」の謂いである。

 ――ある日ふらっとやってきて、親の価値観に風穴をあげてくれる存在、それがおじさんなんですね。「男なら泣くな」なんて親ならいうところを「人間誰だって悲しい時には泣くんだ。悲しけりゃ泣いてもいいんだよ」みたいな、親のディスクールと違ったディスクールでくる人、それがおじさんなのね。(「ぼくのおじさん」)

 ――おじさんと話したあとは、なんだか世界が違ったふうに見えるようになっちゃったト、そういう存在が、まあ、僕におけるおじさんというイメージなんですね。〔…〕
 でね、そういうおじさんの役割りを果たすような雑誌を作ろう、と僕は思いたったのであった。
(同上)

 小さい頃に父を失った伊丹は、全国の青年諸君の“おじさん”になりたかったのですね。

 雑誌『mon oncle (モノンクル)』を最後に、当方は伊丹十三本から離れたが、『ヨーロッパ退屈日記』(1965)から『女たちよ!』『問いつめられたパパとママの本』『再び女たちよ!』『小説より奇なり』『日本世間噺大系』『女たちよ!男たちよ!子供たちよ!』『自分たちよ!』(1983)まで、当方にとってこれらの著作は“ぼくのおじさん”であったとの思い至った。



與島瑗得★遥かなるブラジル――昭和移民日記抄   …………☆蝉啼いて耳からも来る暑さかな 

20170818

2017.08.18遥かなるブラジル


〔1980年〕11月11日

 ブラブラしながら広場に行くと、日本で言う井戸端会議だ。人が集まると、

もう長いこと話題はスリ、カッパライ、ひったくり、泥棒、強盗、ギャング、そして殺人の話だ。殺伐としているが、話題といえばそんなものしかないo

次がインフレ、不景気。


 もうちょっとマシな話題はないもんかと思うが、いい話なんかまったく出てこない。それでもこの国は息苦しい日本と違ってなんとなく俺には住みやすいから不思議なものである。


★遥かなるブラジル――昭和移民日記抄 |與島瑗得 (著) 畑中雅子 (編) |国書刊行会|2017年5月|ISBN: 9784336061591|○

輿島瑗得 (よじま・みつのり)
1936年、千葉県生まれ。1957年、ブラジルに渡航。農業を手始めに宝石販売・輸出・採掘業などを手がける。当地に定住し、以降一度も帰国せず。1991年、住居のあるミナス・ゼライス州テオフロ・オトニ市にて死去。享年54歳。

 ブラジル、サンパウロから北に1000キロ、テオフロ・オト二まで、兄瑗得に会うため妹雅子は1991年に旅立つ。34年ぶりの再会は、腹部を3回も手術した兄に、母の手紙を持参し、日本への帰国を促すためだった。兄は、使い古したようなノートを何冊か見せ、「俺は日本には帰らない。そのかわり、この日記を持って帰ってくれ」と。その日記の1990年には、「日本からまた手紙が来た。おふくろさんの写真が一枚入っていた」とある。

 ――あのとき持ち帰った兄の日記を、私は読むこともなく段ボール箱に詰めて封をした。身一つで海
外に飛び出し、苦労したであろう兄の現実に、正面から向き合う勇気がなかったのだ。
 だが、それから20年という年月が過ぎた今、これらをすべて読むことが、これを託した兄の意志に応えることだとようやく思えるようになった。
(本書)

 日記は1978年から1990年まで(85・86年欠)。ブラジルでは軍政が民政に移管され、またインフレの拡大によりブラジル経済が悪化していた時代である。陽気で人懐こく周囲に溶け込んでいる男の姿が、そこにはあった。そしてときに感傷的な歌や句が書かれていた。

 ――故郷(くに)を想う心あせれどこの不遇 話すあてなし雨空の下
*
「1978年3月7日 今日は久しぶりに太陽が出た。暑くも寒くもなく、ここは住みよいところだ。人間を除けば!」
 と書き始める。過去の思い出ばなしの記述もある。一緒に移住して来た男と共同でミナスで土地を借りて仕事をしていたが、1968年にその男はサンパウルへ転出してしまう。

  ――俺はと言えば無一文、行くあてもなく、汗水たらして働いた結果農薬中毒となった身一つで放出される形になったわけだ。仕方なくブラジルでは最下層の生活者と見なされている川漁師と一緒になって魚を捕り、無為な3年間を過ごすことになった。

◇強烈なハイパー・インフレの日々……。
 このところのインフレは110パーセントだ。生活費は60~80パーセントの上昇率だという、1981年1月の記述。「つまり値上がり率の低い物を商っている人間は食えなくなるではないか」とある。何年にもわたってずっとインフレが続いている。
 1990年5月には、日本からの送金が届いていた。2,200ドル。「一緒に届いた姉さんの手紙にはもう日本に帰って来いとあるが、今の俺には決心がつかん」とある。

1989年12月21日
 やはり年の瀬にインフレは凄まじいことになってきた。今月のインフレ率は52、3パーセントで、今年のインフレ率は1,700パーセントになるという。この16日から1月の15日までのインフレは政府予想で約67パーセントぐらいになるとのことだ。しかし、これでもまだハイ・パーインフレーションではないと言い張っている。


◇治安悪化の日々……。
 リオデジャネイロでは今日6か所の銀行が襲われた、と1990年10月10日にあり、同月30日には、今日はまたリオだけで7か所の銀行が襲われた。殺人事件は毎日で、もう話題にもならない、とある。銀行強盗より誘拐身代金のほうが高額なので、金持ちの子供が誘拐される事件が多発しているとも。

1989年2月9日
 今日もおかしな事件が山盛りだ。ぺルナンブーコ州では三人組の強盗に襲われた人が警察に被害届を出しに行くと、その強盗3人組がいた。警察官3人が強盗だったのである。


◇夢のような光景を見る日々……。
 ブラジル移民の話といえば、その過酷な日々を振り返ることが多く、本書もそうだが、しかし著者の陽気な性格からそれでもなんだか楽しい日々だったように思えてくる。

1980年12月25日
 近頃は町でもすっかり有名人になってしまったようだ。町なかでドイツ系のかわい子ちゃんに、家の遊びに来いと誘われた。〔…〕おまけに街の有名人に会うと、みんなどうも四角四面の挨拶をしてくる。なんだかおかしいと思ったら、どうも友人たちが俺のことをもの凄いインテリだと宣伝しているらしい。プレイボーイに見えたり、インテリに見えたりする良い顔に産んでくれた親に感謝しなければならんな。


1982年10月16日
 テオフロからゴベルナドールパラダレースへ行く間に広い湿地帯がある。縦横数十キロにわたるような広大な湿地帯だ。そこをバスで通過したのだが、まさに蛍の海だった。俺はあんなにすばらしい蛍の乱舞を見たことがない。バスの周りは、地面と言わず、空中と言わず、ピカピカ、ピカピカ、スイスイ、スイスイと光が交錯する。たしかにこれは海だ。蛍の海だった。いや、海から飛び出し、宇宙を飛ぶバスのようだった。


 本書の編者畑中雅子は、「兄は、雄飛したブラジルの大地で、貧しくも楽しく、そして正しく生き抜いたと思います」と記す。

 葬儀の折の牧師の言葉――我々は、ブラジル人である。なぜなら、ここに生まれたから。そしてヨシマは我々の兄弟である。なぜならば、ブラジルを選び、この国で生き、死んでいったのだから。

 さて、この春、某句会の吟行で神戸移住センターへ行った。1928年に開設された神戸移住センター(国立移民収容所)は、1971年に閉鎖されるまで、南米を中心に多くの移住者を海外に送り出した基地。 現在は「神戸市立海外移住と文化の交流センター」としてミュージアム機能を持つ。館内の展示を見ていたら、たちまち「春暑し」という季語が浮かんだ。

 本書を読んで当方の感想は、瑗得の日記にあるこの句……。
  蝉啼いて耳からも来る暑さかな 
 当方は、瑗得に以下の句を贈りたい。
   春暑し蒼茫の地にイぺの花



斎藤文彦★昭和プロレス正史 …………☆プロレス専門誌に記録されたものこそ“正史”

20170724

2017.07.24昭和プロレス正史


ハルク・ホーガンがIWGP(インタナショナル・レスリング・グランプリ)に初優勝!

 6月2日東京・蔵前国技館で行われたアントニオ猪木対ハルク・ホーガンの優勝戦は、ホーガンが猪木にアックスボンバーで21分27秒KO勝ち。猪木はそのまま東京・新宿の東京医大外科に救急車で運ばれ入院。九州から東北までの4週間28連戦は爆発的な人気と共に、最後はハプニングで幕を閉じた。

「猪木が試合中に倒れ病院に運ばれる」のテロップそう入のニュースが、2日午後11時のテレビ朝日で流れた。

映像にはリング下に落ちてもがく猪木と、リング上で両手を上げるホーガンの歓喜の場面がくっきりと対照的だった。


 驚いた視聴者も多かったろう。その頃、猪木は救急車で東京医大外科に運ばれ、精密検査を受けていた。

(鈴木庄一「IWGP決勝リーグ戦総括」『プロレス』1982年6月号緊急増刊)


★昭和プロレス正史(上・下)|斎藤文彦|イースト・プレス|2016年09月|ISBN:9784781614724/2017年3月ISBN:9784781615233 |〇

 本書は、力道山、馬場、猪木という3人のスーパースターによってつくられた昭和プロレスの歴史である。

 田鶴浜弘、鈴木庄一、櫻井康雄といったプロレス・ライター、評論家が、主として『プロレス』などベースボール・マガジン社発行のプロレス専門誌に書いた「活字によって語られた物語」をナラティブと称して原文のまま再録し、著者が比較検証し“事実”を浮かび上がらせたもの。

 著者斎藤文彦(1962~)はアメリカ留学中の1981年から『プロレス』の海外通信員となり、『週刊プロレス』には1983年の創刊時からスタッフとしてかかわってきた。

 上掲の鈴木庄一による「IWGP決勝リーグ戦総括」の続き……。

 ――14分過ぎ最初の1発を食って猪木はダウンしたが、きず〔原文ママ〕は浅かっだ。そして16分過ぎの2発目は体を低くしてかわす。20分近く、猪木がホーガンをあお向けに持ち上げ、そのまま両者はリング下に落ちる。猪木がリングに上がったところホーガンは2発目をロープ越しに――。猪木はコンクリートの床に後頭部をまともに打つ。その前にコーナーポストに頭をもろにぶつけられていた。猪木は動けない。

 高橋レフェリーはカウントをとらない。坂口らが猪木をリングに押し上げた。猪木の舌はもつれていた(坂口の話)。レフェリーがKOのカウント10をした。児玉満磨コミッション・ドクターが応急の処置をとる。
ホーガンは、しばしリングの上に立ち尽くす。こんな事態での勝利が信じられないのか。リング上は猪木の容態を憂りょする人で混乱する。〔…〕


 すばらしい進境のホーガンはとうとう猪木を下してIWGPの優勝を遂げた。一方、自らの夢とロマンを3年かけて実現したIWGPの優勝を、猪木は逸した。猪木の“世界制覇”は消えた。3日午前1時現在の医師の診断は「絶対安静。経過をみなくては全治何日とは断定出来ない」の発表。(本書)

 これまでのプロレス・ノンフィクションは、当時のスター選手たちにインタビューし、その周辺関係者に取材し、“事実”を作り上げたきた。だが、本書はリアルタイムで活字で記録されてきたものこそ“正史”である、と主張する。当時書かれたナラティブを羅列し、そこから時代の真実が浮かび上がってくる。

著者はこう綴る。

 ――猪木の失神KO―緊急入院事件・事故の詳細は、昭和の活字プロレスの永遠のテーマとして、その後、さまざまな角度から検証が加えられ、ありとあらゆる解釈と真相(らしきもの)が加工-再加工-再生産されてきた。ここで引用した庄一ナラティブは、“昭和58年6月2日の蔵前国技館大会”を現場で取材し、そのファーストハンド・インフォメーションをすぐに原稿にまとめ、活字になった情報を試合から数日のうちに全国に“流通”させた点でひじょうに価値が高いものと思われる。(本書)

 ちなみに35年後に書かれた柳澤健『1984年のUWF』には、同じ「第1回IWGP、猪木舌出し失神KO事件」については次のように書かれている。

 ――結局のところ、IWGPは力の衰えた猪木を世界最強のレスラーとして再び売り出すための装置であり、優勝決定戦では猪木がホーガンに勝利することが決まっていた。
 ところが、猪木は周囲すべての期待を裏切って、ホーガンのアックスボンバーに失神KO負けを喫する。
 舌を出したままピクリとも動かない猪木は、そのまま救急車で東京医科大学病院に搬送されたのだが、舌を出したまま失神するなど医学的にありえない。すべては猪木の演技だったのである。
「猪木IWGP優勝」では一般紙の記事にならない。猪木が失神KOされるからこそ記事になる。 猪木はそう考えて自作自演したのだ。
(柳澤健『1984年のUWF』2017年1月)

 どちらに“歴史の真実”を求めるかは、読者の好みだ。本書は、かつてテレビの力道山・馬場・猪木のプロレス中継に魅せられていたころの熱き思いを蘇らせてくれる活字による『昭和プロレス正史』である。



決定版男たちの大和|辺見じゅん★発掘本・再会本100選

20161231

20161231男たちの大和上



 22号電探の泉本留夫も、「雪風」に救助された。
 泉本は鉄片で腰と頭をやられ、島の隔離病舎に入れられた。

「病院の窓ごしに見たサクラは、なんともいえんかった。ただ、涙を流すばっかりだった。

 おれは生きて帰ってきた、だけど、また死ににいかんならん。
 なぜこの片方の手か足をちぎって、帰ってこんだったか。そうしたら、もう二度と兵隊に行くこともないのに」
〔…〕

 救助された泉本は、腰と頭が割れるように痛く、はい上がって軍医のところに行った。重傷者がひしめき、軍医の服は血まみれだった。
「おまえ、まだ生きておるやないか」
と軍医に一喝された。

 次から次へと人が死んでいった。死体は浴室に入らず、通路に重なっていた。

――6章 桜


■決定版男たちの大和 (上・下)|辺見じゅん|角川春樹事務所|2004年8月|ISBN: 9784758431248、ISBN: 9784758431255|◎おすすめ

 ―― 昭和20年3月28日、戦艦「大和」、沖縄海域に向け呉を出撃。乗組員3333名。
4月7日14時23分、米航空機部隊の攻撃により、沈没。北緯30度43分07秒、東経128度04分25秒。
死者3000余名、東シナ海の海底に眠る。生存者、昭和60年現在、140余名。
(本書)

 著者が1979年から3年余の取材時に消息を確認しえたのは117名。これらの生存者の証言を元に鎮魂の思いを込めたノンフィクションが本書である。上掲の泉本の挿話は続く。

 ――戦後になって「大和」の話をしたとき、
「あんた、あんなに大勢死んどるのに、なんで死んでこんかった」
 と村の者に言われた。
 その人は泉本よりずっと若く、むろん戦争には征っていない。それ以来、「大和」のことは口にすまいと思うようになった。
(本書)

 たとえば、最後の艦長有賀幸作については、吉田満の名著「戦艦大和ノ最期」の記述、
「艦長有賀幸作大佐御最期
艦長最上部ノ防空指揮所ニアリテ、鉄兜、防弾『チョッキ』ソノママ、身三箇所ヲ羅針儀ニ固縛ス」
 として艦とともに沈んだのが“定説”となっているが、本書では、これと異なる高橋弘、長坂来、塚本高夫の3人の見た艦長の最期を証言している。しかし、著者は、「艦長の退艦時期は最後」と定められているが、「艦長が艦と運命を共にしなければならない規定はなく」としたうえで、こう書く。

 ――「大和」の最後の艦長である有賀幸作も、艦と運命を共にすることを、みずからに課した。しかし、みずからの意志を裏切るように海中で生きていたとしたら、高橋弘が目撃したように、「自殺」以外にはなかったのかもしれない。羅針儀に身を三か所縛って鑑と最後を共にしたよりも、不本意に艦から離れて自殺を選択するほうが、もっと酷薄というべきだろう。(本書)

 当方は、歌人であり、幻戯書房社主であり、角川源義の娘であり、春樹・歴彦の姉であり、なによりもノンフィクション作家であった辺見じゅんのファンである。「収容所(ラゲーリ)からきた遺書」(1989)、「呪われたシルク・ロード」(1975)などの傑作がある。

 その辺見じゅんのライフワークが本書である。
「男たちの大和」(角川書店、1983)
 「完本 男たちの大和」 (ちくま文庫、1995)
 「決定版 男たちの大和」(ハルキ文庫、2004)
 上記のように増補を重ねてきた。また、関連して、戦艦大和の探索、菊花紋章の発見(海の墓標委員会、1985年)の活動、映画「男たちの大和/YAMATO」(佐藤純彌監督、2005年)がある。

 ところで2016年父の実家を取り壊したとき、呉海軍工廠海軍水平帽姿の若き父の写真があったはずと探したが見つからなかった。 

吉田満★戦艦大和ノ最期
 
角川春樹・清水節■いつかギラギラする日――角川春樹の映画革命





雨鱒の川 | 川上健一★発掘本・再会本100選

20161114

20161113雨鱒の川


「心平。雨鱒ァ、なして雨鱒ってへるのが分がるが?」

「うん。雨降ったおんた、水玉あるすけだじゃ」

「まんず、みんなしてそうへるけどな、本当はほんでねど」秀二郎爺っちゃはいった。「雨鱒ァ、もっとずっと上流の方さいる魚っこだ。ほれで、オスの雨鱒ァ、ずっと上流さ居るけんども、メスの雨鱒ァ、海さ下って大っきぐなるのよ」

「ふうん」心平はいった。

「へでな、ちょんどいま頃、大雨が降った時に、海がらのぼってくるのよ。

オスのいるずっと上流さいって、卵産みにな。雨降った時に川さのぼってくるすけ、雨の時の鱒だすけ、雨鱒ってへるのよ」


――「雨鱒の川」


■雨鱒の川 |川上健一|集英社|1990年8月/文庫版:1994年9月│ISBN:  9784087482119 |評価=○

 このところタイトルに「川・河」の字がつく本に集中している。本書もその一つ。

 ――土手の上からは、うねりながら横たわる大きな川や湿った平原が、はるか遠くに連なる山の方までみわたせた。川をはさんで、向こう側は深い森になっていた。堰堤をすべり落ちる水音だけが絶え間なく聞こえた。陽光が鋭く照っていたが、川面を吹き渡る風はひんやりとした微風で心地よかった。この川のどこにでも魚がいるのだと、誰もが知っていた。(「雨鱒の川」)

 この川はどこにあるのだろう。川上健一は青森県十和田市出身だから、そこを流れる相坂(おおさか)川だろうか。上流に奥入瀬渓流がある。十和田市現代美術館から焼山までバスに乗り、そこから電動自転車を借り、十和田湖まで走ったことがある。

 作品は2部構成で、第1部では主人公の心平は小学2年、仲良しに耳の聞こえない小百合という女の子がおり、ライバルの英蔵は6年。母と暮らす心平は、絵を描くか、水中眼鏡をかけヤスで魚を捕るのが日課。第2部では18歳になった心平が描かれる。

 小百合は造り酒屋高倉酒造の娘で、心平は同酒造の洗い専門の下働き、英蔵は東京の大学を出て同酒造のエリート社員となっている。雨鱒との交流を通じ幼なじみの成長と恋の物語である。

 玉木宏、 綾瀬はるか主演で映画化(2004年、磯村一路監督)された。撮影は北海道だそうだが、ロケ地の川はどこだろう。それにしても心平の母親役のまだ20代だった中谷美紀の美しいこと。小説でのその死の場面……。

 ――道からそれ、月の方向に雪の平原を進んだ。新雪の下の雪は固く、ビデが歩いても沈まなかった。ビデは立ち止まった。
「あんた……」
 とヒデはまた月にむかっていった。月は真上にあった。満月の月光に照らされて、新雪がキラキラと光っていた。
 ずっと遠くで、かすかに、枝の雪が落ちる音がした。
(「雨鱒の川」)

蛍川|宮本輝★発掘本・再会本100選

20161112

20161112蛍川2



「降るのよ蛍が。

見たことなかろう? 蛍の群れよ。群れっちゅうより塊りっちゅうほうがええがや。

いたち川のずっと上の、広い広い田んぼばっかりの所から、まだずっと向こうの誰も人のおらん所で蛍が生まれよるがや。いたち川もその辺に行くと、深いきれいな川なんじゃ。

とにかく、ものすごい数の蛍よ。

大雪みたいに、右に左に蛍が降るがや


――「蛍川」


■宮本輝|蛍川|1978年1月|筑摩書房|ISBN:9784480801746/文庫版:川三部作 泥の河・螢川・道頓堀川 |1986年1月| ISBN: 9784480020338|評価=◎おすすめ

 富山へは何度か行ったことがあり、市電の走るコンパクトな街というイメージがある。残念ながら、この蛍川の舞台であるいたち川の川べりは歩いたことがない。

 ――「常願寺川っちゅう川が流れとるちゃ。神通川よりちょっと細い川じゃが、おんなじように富山湾に流れ込んどるがや。その常願寺川の上流が立山に繋っとるのよ。いたち川は常願寺川の支流でのお、それでこの川にも、春から夏にかけて立山の雪解け水がたっぷり混じっとるがや」(「蛍川」)

 宮本輝の初期の川三部作、「泥の河」(1977)は小学生信雄、「蛍川」(1978)は中学生竜夫、「道頓堀川」(1981)は大学生邦彦の視点で書かれた名作である。のちに著者が、以下のように邂逅している。

「幼い私が歩いた大阪の場末の川のほとり、よるべなかった富山での短い生活、父を喪った直後の、食べるために必死でありながら怠惰にさまよった歓楽の街……。さまざまな場所を巡り、忘れ難い人々と交わった三つの風景は、いまも幻影のように、近くで遠くで、点滅しています」

 三作とものちに映画化されているが、「蛍川」(1987、須川栄三監督)では、小説のクライマックスのこんな描写をどう映像化するかに興味があった。

「何万何十万もの蛍火が、川のふちで静かにうねっていた。そしてそれは、四人がそれぞれの心に描いていた華麗なおとぎ絵ではなかったのである。蛍の大群は、滝壷の底に寂莫と舞う微生物の屍のように、はかりしれない沈黙と死臭を孕んで光の澱(おり)と化し、天空へ天空へと光彩をぼかしながら冷たい火の粉状になって舞いあがっていた」(「蛍川」)

 映画はSFXの進展によりつまらなくなってしまったが、当時、ゴジラの特撮も担当した川北紘一が見事に映像化し、当方は震えるように感動した。

 かつて、高岡駅前で自転車を借り、土蔵造りの町並みが残る山町筋と千本格子の家並みが美しい金屋町を訪ねたことがある。小説では、中学生の竜夫が父の医療費と高校の学資を借りるため、父の友人大森を高岡市に訪ねるが、映画ではその高岡市金屋町の千本格子の家並みが映され、銅器の店大森商会として登場する。



 

発掘本・再会本100選★蛍の河|伊藤桂一

20161111

20161111蛍の河2



 その夜ぼくらは対岸へ渡り、半キロ歩いたクリークの起点から、小舟に便乗して出発した。

  舟は底の浅い、一列に六、七人乗れるもので、船頭が竿で漕ぐ。ぼくらはしばらく夜の討伐をしていなかったが、舟が水の上をすべり出すと間もなく、水面に無数の蛍が飛び交うているのをみて驚いた。〔略〕

  舟の進むにつれて、蛍はぼくらの額や唇にぶつかって流れすぎる。
  行けども行けども蛍火の国で、それらは水の底にも映り乱れ、眠たく甘い幻覚の中をさ迷っている気がした。


 廻り燈寵のなかを、一緒に廻っているような情感だ。未明に敵と遭遇するかもしれぬという実感など遥かに遠のき、嫋々として沸き立ち、幻々として立ち迷う蛍火の中で、ぼくらはしたたかに酔あきれる気がした。

 ――「蛍の河」



■伊藤桂一|蛍の河|文藝春秋新社|1962年12月/文庫版:2000年7月│ISBN:9784061982185|評価=◎おすすめ

 作家で詩人の伊藤桂一(1917年生まれ)が2016年10月29日亡くなった。99歳。

 戦記物の作家というイメージがあり、読んだことはなかった。が、最近タイトルに「川・河」のつく作品を集中的に読んでいるせいで、手にした。芥川賞、直木賞に何度もノミネートされ、上掲の「蛍の河」で1962年、45歳で直木賞に。400字詰39枚の短編。5000部出版されたが、重版はなかったという。

 「蛍の河」の舞台は、中国江南地方の揚子江の支流である清水河にある村に駐留する小隊。新しい小隊長の安野は、中学時代の同級生。その要領の悪い善良な見習士官と野戦経験のある「ぼく」との日々を綴ったもの。

 上掲は、清水河につながるクリークの一つ。この幻想的なシーンのなかで、「ぼく」は失策を犯すのだが……。伊藤桂一の戦場ものは、つねに暖かい視線、やさしい眼差しで貫かれる。

 釣り好きの友人が伊藤桂一の釣魚エッセイを好んでいたのを思いだした。「源流へ」という小説の作中作として「岩魚記」という短い”詩とも文章ともつかぬ述懐”があり、全文引用したいほどすばらしい。その一部……。

 ――ひとはときどき渓流の奥で死ねことがある。あやまってか、ある必然によってか、とにかく消失してしまう。そういう死を得た者だけが、その場でその真下の淵の、岩魚に生れかわることができるらしい。遠い以前には人間だった、といった顔つきをした岩魚の、いささか物憂げな挙措をそのあたりでみかけることがある。(「源流へ」)

 手元の講談社文芸文庫版の年譜は83歳までの記述で、50歳で結婚、その夫人を82歳で亡くしたとある。その後2002年に千代美氏と再婚され、90歳過ぎから神戸に在住、晩年は恵まれていたようだ。その夫人の詩の一節……。

いま なぜか私の傍には
人生のお手本のような人がいて
「ようし! 百歳までは頑張るぞ!」 と
九十歳を超えた今も
自身に気合いを掛けているのだ

――住吉千代美詩集 『分水嶺』



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