與島瑗得★遥かなるブラジル――昭和移民日記抄   …………☆蝉啼いて耳からも来る暑さかな 

20170818

2017.08.18遥かなるブラジル


〔1980年〕11月11日

 ブラブラしながら広場に行くと、日本で言う井戸端会議だ。人が集まると、

もう長いこと話題はスリ、カッパライ、ひったくり、泥棒、強盗、ギャング、そして殺人の話だ。殺伐としているが、話題といえばそんなものしかないo

次がインフレ、不景気。


 もうちょっとマシな話題はないもんかと思うが、いい話なんかまったく出てこない。それでもこの国は息苦しい日本と違ってなんとなく俺には住みやすいから不思議なものである。


★遥かなるブラジル――昭和移民日記抄 |與島瑗得 (著) 畑中雅子 (編) |国書刊行会|2017年5月|ISBN: 9784336061591|○

輿島瑗得 (よじま・みつのり)
1936年、千葉県生まれ。1957年、ブラジルに渡航。農業を手始めに宝石販売・輸出・採掘業などを手がける。当地に定住し、以降一度も帰国せず。1991年、住居のあるミナス・ゼライス州テオフロ・オトニ市にて死去。享年54歳。

 ブラジル、サンパウロから北に1000キロ、テオフロ・オト二まで、兄瑗得に会うため妹雅子は1991年に旅立つ。34年ぶりの再会は、腹部を3回も手術した兄に、母の手紙を持参し、日本への帰国を促すためだった。兄は、使い古したようなノートを何冊か見せ、「俺は日本には帰らない。そのかわり、この日記を持って帰ってくれ」と。その日記の1990年には、「日本からまた手紙が来た。おふくろさんの写真が一枚入っていた」とある。

 ――あのとき持ち帰った兄の日記を、私は読むこともなく段ボール箱に詰めて封をした。身一つで海
外に飛び出し、苦労したであろう兄の現実に、正面から向き合う勇気がなかったのだ。
 だが、それから20年という年月が過ぎた今、これらをすべて読むことが、これを託した兄の意志に応えることだとようやく思えるようになった。
(本書)

 日記は1978年から1990年まで(85・86年欠)。ブラジルでは軍政が民政に移管され、またインフレの拡大によりブラジル経済が悪化していた時代である。陽気で人懐こく周囲に溶け込んでいる男の姿が、そこにはあった。そしてときに感傷的な歌や句が書かれていた。

 ――故郷(くに)を想う心あせれどこの不遇 話すあてなし雨空の下
*
「1978年3月7日 今日は久しぶりに太陽が出た。暑くも寒くもなく、ここは住みよいところだ。人間を除けば!」
 と書き始める。過去の思い出ばなしの記述もある。一緒に移住して来た男と共同でミナスで土地を借りて仕事をしていたが、1968年にその男はサンパウルへ転出してしまう。

  ――俺はと言えば無一文、行くあてもなく、汗水たらして働いた結果農薬中毒となった身一つで放出される形になったわけだ。仕方なくブラジルでは最下層の生活者と見なされている川漁師と一緒になって魚を捕り、無為な3年間を過ごすことになった。

◇強烈なハイパー・インフレの日々……。
 このところのインフレは110パーセントだ。生活費は60~80パーセントの上昇率だという、1981年1月の記述。「つまり値上がり率の低い物を商っている人間は食えなくなるではないか」とある。何年にもわたってずっとインフレが続いている。
 1990年5月には、日本からの送金が届いていた。2,200ドル。「一緒に届いた姉さんの手紙にはもう日本に帰って来いとあるが、今の俺には決心がつかん」とある。

1989年12月21日
 やはり年の瀬にインフレは凄まじいことになってきた。今月のインフレ率は52、3パーセントで、今年のインフレ率は1,700パーセントになるという。この16日から1月の15日までのインフレは政府予想で約67パーセントぐらいになるとのことだ。しかし、これでもまだハイ・パーインフレーションではないと言い張っている。


◇治安悪化の日々……。
 リオデジャネイロでは今日6か所の銀行が襲われた、と1990年10月10日にあり、同月30日には、今日はまたリオだけで7か所の銀行が襲われた。殺人事件は毎日で、もう話題にもならない、とある。銀行強盗より誘拐身代金のほうが高額なので、金持ちの子供が誘拐される事件が多発しているとも。

1989年2月9日
 今日もおかしな事件が山盛りだ。ぺルナンブーコ州では三人組の強盗に襲われた人が警察に被害届を出しに行くと、その強盗3人組がいた。警察官3人が強盗だったのである。


◇夢のような光景を見る日々……。
 ブラジル移民の話といえば、その過酷な日々を振り返ることが多く、本書もそうだが、しかし著者の陽気な性格からそれでもなんだか楽しい日々だったように思えてくる。

1980年12月25日
 近頃は町でもすっかり有名人になってしまったようだ。町なかでドイツ系のかわい子ちゃんに、家の遊びに来いと誘われた。〔…〕おまけに街の有名人に会うと、みんなどうも四角四面の挨拶をしてくる。なんだかおかしいと思ったら、どうも友人たちが俺のことをもの凄いインテリだと宣伝しているらしい。プレイボーイに見えたり、インテリに見えたりする良い顔に産んでくれた親に感謝しなければならんな。


1982年10月16日
 テオフロからゴベルナドールパラダレースへ行く間に広い湿地帯がある。縦横数十キロにわたるような広大な湿地帯だ。そこをバスで通過したのだが、まさに蛍の海だった。俺はあんなにすばらしい蛍の乱舞を見たことがない。バスの周りは、地面と言わず、空中と言わず、ピカピカ、ピカピカ、スイスイ、スイスイと光が交錯する。たしかにこれは海だ。蛍の海だった。いや、海から飛び出し、宇宙を飛ぶバスのようだった。


 本書の編者畑中雅子は、「兄は、雄飛したブラジルの大地で、貧しくも楽しく、そして正しく生き抜いたと思います」と記す。

 葬儀の折の牧師の言葉――我々は、ブラジル人である。なぜなら、ここに生まれたから。そしてヨシマは我々の兄弟である。なぜならば、ブラジルを選び、この国で生き、死んでいったのだから。

 さて、この春、某句会の吟行で神戸移住センターへ行った。1928年に開設された神戸移住センター(国立移民収容所)は、1971年に閉鎖されるまで、南米を中心に多くの移住者を海外に送り出した基地。 現在は「神戸市立海外移住と文化の交流センター」としてミュージアム機能を持つ。館内の展示を見ていたら、たちまち「春暑し」という季語が浮かんだ。

 本書を読んで当方の感想は、瑗得の日記にあるこの句……。
  蝉啼いて耳からも来る暑さかな 
 当方は、瑗得に以下の句を贈りたい。
   春暑し蒼茫の地にイぺの花



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斎藤文彦★昭和プロレス正史 …………☆プロレス専門誌に記録されたものこそ“正史”

20170724

2017.07.24昭和プロレス正史


ハルク・ホーガンがIWGP(インタナショナル・レスリング・グランプリ)に初優勝!

 6月2日東京・蔵前国技館で行われたアントニオ猪木対ハルク・ホーガンの優勝戦は、ホーガンが猪木にアックスボンバーで21分27秒KO勝ち。猪木はそのまま東京・新宿の東京医大外科に救急車で運ばれ入院。九州から東北までの4週間28連戦は爆発的な人気と共に、最後はハプニングで幕を閉じた。

「猪木が試合中に倒れ病院に運ばれる」のテロップそう入のニュースが、2日午後11時のテレビ朝日で流れた。

映像にはリング下に落ちてもがく猪木と、リング上で両手を上げるホーガンの歓喜の場面がくっきりと対照的だった。


 驚いた視聴者も多かったろう。その頃、猪木は救急車で東京医大外科に運ばれ、精密検査を受けていた。

(鈴木庄一「IWGP決勝リーグ戦総括」『プロレス』1982年6月号緊急増刊)


★昭和プロレス正史(上・下)|斎藤文彦|イースト・プレス|2016年09月|ISBN:9784781614724/2017年3月ISBN:9784781615233 |〇

 本書は、力道山、馬場、猪木という3人のスーパースターによってつくられた昭和プロレスの歴史である。

 田鶴浜弘、鈴木庄一、櫻井康雄といったプロレス・ライター、評論家が、主として『プロレス』などベースボール・マガジン社発行のプロレス専門誌に書いた「活字によって語られた物語」をナラティブと称して原文のまま再録し、著者が比較検証し“事実”を浮かび上がらせたもの。

 著者斎藤文彦(1962~)はアメリカ留学中の1981年から『プロレス』の海外通信員となり、『週刊プロレス』には1983年の創刊時からスタッフとしてかかわってきた。

 上掲の鈴木庄一による「IWGP決勝リーグ戦総括」の続き……。

 ――14分過ぎ最初の1発を食って猪木はダウンしたが、きず〔原文ママ〕は浅かっだ。そして16分過ぎの2発目は体を低くしてかわす。20分近く、猪木がホーガンをあお向けに持ち上げ、そのまま両者はリング下に落ちる。猪木がリングに上がったところホーガンは2発目をロープ越しに――。猪木はコンクリートの床に後頭部をまともに打つ。その前にコーナーポストに頭をもろにぶつけられていた。猪木は動けない。

 高橋レフェリーはカウントをとらない。坂口らが猪木をリングに押し上げた。猪木の舌はもつれていた(坂口の話)。レフェリーがKOのカウント10をした。児玉満磨コミッション・ドクターが応急の処置をとる。
ホーガンは、しばしリングの上に立ち尽くす。こんな事態での勝利が信じられないのか。リング上は猪木の容態を憂りょする人で混乱する。〔…〕


 すばらしい進境のホーガンはとうとう猪木を下してIWGPの優勝を遂げた。一方、自らの夢とロマンを3年かけて実現したIWGPの優勝を、猪木は逸した。猪木の“世界制覇”は消えた。3日午前1時現在の医師の診断は「絶対安静。経過をみなくては全治何日とは断定出来ない」の発表。(本書)

 これまでのプロレス・ノンフィクションは、当時のスター選手たちにインタビューし、その周辺関係者に取材し、“事実”を作り上げたきた。だが、本書はリアルタイムで活字で記録されてきたものこそ“正史”である、と主張する。当時書かれたナラティブを羅列し、そこから時代の真実が浮かび上がってくる。

著者はこう綴る。

 ――猪木の失神KO―緊急入院事件・事故の詳細は、昭和の活字プロレスの永遠のテーマとして、その後、さまざまな角度から検証が加えられ、ありとあらゆる解釈と真相(らしきもの)が加工-再加工-再生産されてきた。ここで引用した庄一ナラティブは、“昭和58年6月2日の蔵前国技館大会”を現場で取材し、そのファーストハンド・インフォメーションをすぐに原稿にまとめ、活字になった情報を試合から数日のうちに全国に“流通”させた点でひじょうに価値が高いものと思われる。(本書)

 ちなみに35年後に書かれた柳澤健『1984年のUWF』には、同じ「第1回IWGP、猪木舌出し失神KO事件」については次のように書かれている。

 ――結局のところ、IWGPは力の衰えた猪木を世界最強のレスラーとして再び売り出すための装置であり、優勝決定戦では猪木がホーガンに勝利することが決まっていた。
 ところが、猪木は周囲すべての期待を裏切って、ホーガンのアックスボンバーに失神KO負けを喫する。
 舌を出したままピクリとも動かない猪木は、そのまま救急車で東京医科大学病院に搬送されたのだが、舌を出したまま失神するなど医学的にありえない。すべては猪木の演技だったのである。
「猪木IWGP優勝」では一般紙の記事にならない。猪木が失神KOされるからこそ記事になる。 猪木はそう考えて自作自演したのだ。
(柳澤健『1984年のUWF』2017年1月)

 どちらに“歴史の真実”を求めるかは、読者の好みだ。本書は、かつてテレビの力道山・馬場・猪木のプロレス中継に魅せられていたころの熱き思いを蘇らせてくれる活字による『昭和プロレス正史』である。



決定版男たちの大和|辺見じゅん★発掘本・再会本100選

20161231

20161231男たちの大和上



 22号電探の泉本留夫も、「雪風」に救助された。
 泉本は鉄片で腰と頭をやられ、島の隔離病舎に入れられた。

「病院の窓ごしに見たサクラは、なんともいえんかった。ただ、涙を流すばっかりだった。

 おれは生きて帰ってきた、だけど、また死ににいかんならん。
 なぜこの片方の手か足をちぎって、帰ってこんだったか。そうしたら、もう二度と兵隊に行くこともないのに」
〔…〕

 救助された泉本は、腰と頭が割れるように痛く、はい上がって軍医のところに行った。重傷者がひしめき、軍医の服は血まみれだった。
「おまえ、まだ生きておるやないか」
と軍医に一喝された。

 次から次へと人が死んでいった。死体は浴室に入らず、通路に重なっていた。

――6章 桜


■決定版男たちの大和 (上・下)|辺見じゅん|角川春樹事務所|2004年8月|ISBN: 9784758431248、ISBN: 9784758431255|◎おすすめ

 ―― 昭和20年3月28日、戦艦「大和」、沖縄海域に向け呉を出撃。乗組員3333名。
4月7日14時23分、米航空機部隊の攻撃により、沈没。北緯30度43分07秒、東経128度04分25秒。
死者3000余名、東シナ海の海底に眠る。生存者、昭和60年現在、140余名。
(本書)

 著者が1979年から3年余の取材時に消息を確認しえたのは117名。これらの生存者の証言を元に鎮魂の思いを込めたノンフィクションが本書である。上掲の泉本の挿話は続く。

 ――戦後になって「大和」の話をしたとき、
「あんた、あんなに大勢死んどるのに、なんで死んでこんかった」
 と村の者に言われた。
 その人は泉本よりずっと若く、むろん戦争には征っていない。それ以来、「大和」のことは口にすまいと思うようになった。
(本書)

 たとえば、最後の艦長有賀幸作については、吉田満の名著「戦艦大和ノ最期」の記述、
「艦長有賀幸作大佐御最期
艦長最上部ノ防空指揮所ニアリテ、鉄兜、防弾『チョッキ』ソノママ、身三箇所ヲ羅針儀ニ固縛ス」
 として艦とともに沈んだのが“定説”となっているが、本書では、これと異なる高橋弘、長坂来、塚本高夫の3人の見た艦長の最期を証言している。しかし、著者は、「艦長の退艦時期は最後」と定められているが、「艦長が艦と運命を共にしなければならない規定はなく」としたうえで、こう書く。

 ――「大和」の最後の艦長である有賀幸作も、艦と運命を共にすることを、みずからに課した。しかし、みずからの意志を裏切るように海中で生きていたとしたら、高橋弘が目撃したように、「自殺」以外にはなかったのかもしれない。羅針儀に身を三か所縛って鑑と最後を共にしたよりも、不本意に艦から離れて自殺を選択するほうが、もっと酷薄というべきだろう。(本書)

 当方は、歌人であり、幻戯書房社主であり、角川源義の娘であり、春樹・歴彦の姉であり、なによりもノンフィクション作家であった辺見じゅんのファンである。「収容所(ラゲーリ)からきた遺書」(1989)、「呪われたシルク・ロード」(1975)などの傑作がある。

 その辺見じゅんのライフワークが本書である。
「男たちの大和」(角川書店、1983)
 「完本 男たちの大和」 (ちくま文庫、1995)
 「決定版 男たちの大和」(ハルキ文庫、2004)
 上記のように増補を重ねてきた。また、関連して、戦艦大和の探索、菊花紋章の発見(海の墓標委員会、1985年)の活動、映画「男たちの大和/YAMATO」(佐藤純彌監督、2005年)がある。

 ところで2016年父の実家を取り壊したとき、呉海軍工廠海軍水平帽姿の若き父の写真があったはずと探したが見つからなかった。 

吉田満★戦艦大和ノ最期
 
角川春樹・清水節■いつかギラギラする日――角川春樹の映画革命





雨鱒の川 | 川上健一★発掘本・再会本100選

20161114

20161113雨鱒の川


「心平。雨鱒ァ、なして雨鱒ってへるのが分がるが?」

「うん。雨降ったおんた、水玉あるすけだじゃ」

「まんず、みんなしてそうへるけどな、本当はほんでねど」秀二郎爺っちゃはいった。「雨鱒ァ、もっとずっと上流の方さいる魚っこだ。ほれで、オスの雨鱒ァ、ずっと上流さ居るけんども、メスの雨鱒ァ、海さ下って大っきぐなるのよ」

「ふうん」心平はいった。

「へでな、ちょんどいま頃、大雨が降った時に、海がらのぼってくるのよ。

オスのいるずっと上流さいって、卵産みにな。雨降った時に川さのぼってくるすけ、雨の時の鱒だすけ、雨鱒ってへるのよ」


――「雨鱒の川」


■雨鱒の川 |川上健一|集英社|1990年8月/文庫版:1994年9月│ISBN:  9784087482119 |評価=○

 このところタイトルに「川・河」の字がつく本に集中している。本書もその一つ。

 ――土手の上からは、うねりながら横たわる大きな川や湿った平原が、はるか遠くに連なる山の方までみわたせた。川をはさんで、向こう側は深い森になっていた。堰堤をすべり落ちる水音だけが絶え間なく聞こえた。陽光が鋭く照っていたが、川面を吹き渡る風はひんやりとした微風で心地よかった。この川のどこにでも魚がいるのだと、誰もが知っていた。(「雨鱒の川」)

 この川はどこにあるのだろう。川上健一は青森県十和田市出身だから、そこを流れる相坂(おおさか)川だろうか。上流に奥入瀬渓流がある。十和田市現代美術館から焼山までバスに乗り、そこから電動自転車を借り、十和田湖まで走ったことがある。

 作品は2部構成で、第1部では主人公の心平は小学2年、仲良しに耳の聞こえない小百合という女の子がおり、ライバルの英蔵は6年。母と暮らす心平は、絵を描くか、水中眼鏡をかけヤスで魚を捕るのが日課。第2部では18歳になった心平が描かれる。

 小百合は造り酒屋高倉酒造の娘で、心平は同酒造の洗い専門の下働き、英蔵は東京の大学を出て同酒造のエリート社員となっている。雨鱒との交流を通じ幼なじみの成長と恋の物語である。

 玉木宏、 綾瀬はるか主演で映画化(2004年、磯村一路監督)された。撮影は北海道だそうだが、ロケ地の川はどこだろう。それにしても心平の母親役のまだ20代だった中谷美紀の美しいこと。小説でのその死の場面……。

 ――道からそれ、月の方向に雪の平原を進んだ。新雪の下の雪は固く、ビデが歩いても沈まなかった。ビデは立ち止まった。
「あんた……」
 とヒデはまた月にむかっていった。月は真上にあった。満月の月光に照らされて、新雪がキラキラと光っていた。
 ずっと遠くで、かすかに、枝の雪が落ちる音がした。
(「雨鱒の川」)

蛍川|宮本輝★発掘本・再会本100選

20161112

20161112蛍川2



「降るのよ蛍が。

見たことなかろう? 蛍の群れよ。群れっちゅうより塊りっちゅうほうがええがや。

いたち川のずっと上の、広い広い田んぼばっかりの所から、まだずっと向こうの誰も人のおらん所で蛍が生まれよるがや。いたち川もその辺に行くと、深いきれいな川なんじゃ。

とにかく、ものすごい数の蛍よ。

大雪みたいに、右に左に蛍が降るがや


――「蛍川」


■宮本輝|蛍川|1978年1月|筑摩書房|ISBN:9784480801746/文庫版:川三部作 泥の河・螢川・道頓堀川 |1986年1月| ISBN: 9784480020338|評価=◎おすすめ

 富山へは何度か行ったことがあり、市電の走るコンパクトな街というイメージがある。残念ながら、この蛍川の舞台であるいたち川の川べりは歩いたことがない。

 ――「常願寺川っちゅう川が流れとるちゃ。神通川よりちょっと細い川じゃが、おんなじように富山湾に流れ込んどるがや。その常願寺川の上流が立山に繋っとるのよ。いたち川は常願寺川の支流でのお、それでこの川にも、春から夏にかけて立山の雪解け水がたっぷり混じっとるがや」(「蛍川」)

 宮本輝の初期の川三部作、「泥の河」(1977)は小学生信雄、「蛍川」(1978)は中学生竜夫、「道頓堀川」(1981)は大学生邦彦の視点で書かれた名作である。のちに著者が、以下のように邂逅している。

「幼い私が歩いた大阪の場末の川のほとり、よるべなかった富山での短い生活、父を喪った直後の、食べるために必死でありながら怠惰にさまよった歓楽の街……。さまざまな場所を巡り、忘れ難い人々と交わった三つの風景は、いまも幻影のように、近くで遠くで、点滅しています」

 三作とものちに映画化されているが、「蛍川」(1987、須川栄三監督)では、小説のクライマックスのこんな描写をどう映像化するかに興味があった。

「何万何十万もの蛍火が、川のふちで静かにうねっていた。そしてそれは、四人がそれぞれの心に描いていた華麗なおとぎ絵ではなかったのである。蛍の大群は、滝壷の底に寂莫と舞う微生物の屍のように、はかりしれない沈黙と死臭を孕んで光の澱(おり)と化し、天空へ天空へと光彩をぼかしながら冷たい火の粉状になって舞いあがっていた」(「蛍川」)

 映画はSFXの進展によりつまらなくなってしまったが、当時、ゴジラの特撮も担当した川北紘一が見事に映像化し、当方は震えるように感動した。

 かつて、高岡駅前で自転車を借り、土蔵造りの町並みが残る山町筋と千本格子の家並みが美しい金屋町を訪ねたことがある。小説では、中学生の竜夫が父の医療費と高校の学資を借りるため、父の友人大森を高岡市に訪ねるが、映画ではその高岡市金屋町の千本格子の家並みが映され、銅器の店大森商会として登場する。



 

発掘本・再会本100選★蛍の河|伊藤桂一

20161111

20161111蛍の河2



 その夜ぼくらは対岸へ渡り、半キロ歩いたクリークの起点から、小舟に便乗して出発した。

  舟は底の浅い、一列に六、七人乗れるもので、船頭が竿で漕ぐ。ぼくらはしばらく夜の討伐をしていなかったが、舟が水の上をすべり出すと間もなく、水面に無数の蛍が飛び交うているのをみて驚いた。〔略〕

  舟の進むにつれて、蛍はぼくらの額や唇にぶつかって流れすぎる。
  行けども行けども蛍火の国で、それらは水の底にも映り乱れ、眠たく甘い幻覚の中をさ迷っている気がした。


 廻り燈寵のなかを、一緒に廻っているような情感だ。未明に敵と遭遇するかもしれぬという実感など遥かに遠のき、嫋々として沸き立ち、幻々として立ち迷う蛍火の中で、ぼくらはしたたかに酔あきれる気がした。

 ――「蛍の河」



■伊藤桂一|蛍の河|文藝春秋新社|1962年12月/文庫版:2000年7月│ISBN:9784061982185|評価=◎おすすめ

 作家で詩人の伊藤桂一(1917年生まれ)が2016年10月29日亡くなった。99歳。

 戦記物の作家というイメージがあり、読んだことはなかった。が、最近タイトルに「川・河」のつく作品を集中的に読んでいるせいで、手にした。芥川賞、直木賞に何度もノミネートされ、上掲の「蛍の河」で1962年、45歳で直木賞に。400字詰39枚の短編。5000部出版されたが、重版はなかったという。

 「蛍の河」の舞台は、中国江南地方の揚子江の支流である清水河にある村に駐留する小隊。新しい小隊長の安野は、中学時代の同級生。その要領の悪い善良な見習士官と野戦経験のある「ぼく」との日々を綴ったもの。

 上掲は、清水河につながるクリークの一つ。この幻想的なシーンのなかで、「ぼく」は失策を犯すのだが……。伊藤桂一の戦場ものは、つねに暖かい視線、やさしい眼差しで貫かれる。

 釣り好きの友人が伊藤桂一の釣魚エッセイを好んでいたのを思いだした。「源流へ」という小説の作中作として「岩魚記」という短い”詩とも文章ともつかぬ述懐”があり、全文引用したいほどすばらしい。その一部……。

 ――ひとはときどき渓流の奥で死ねことがある。あやまってか、ある必然によってか、とにかく消失してしまう。そういう死を得た者だけが、その場でその真下の淵の、岩魚に生れかわることができるらしい。遠い以前には人間だった、といった顔つきをした岩魚の、いささか物憂げな挙措をそのあたりでみかけることがある。(「源流へ」)

 手元の講談社文芸文庫版の年譜は83歳までの記述で、50歳で結婚、その夫人を82歳で亡くしたとある。その後2002年に千代美氏と再婚され、90歳過ぎから神戸に在住、晩年は恵まれていたようだ。その夫人の詩の一節……。

いま なぜか私の傍には
人生のお手本のような人がいて
「ようし! 百歳までは頑張るぞ!」 と
九十歳を超えた今も
自身に気合いを掛けているのだ

――住吉千代美詩集 『分水嶺』



発掘本・再会本100選★北の河|高井有一

20161110

20161110北の河2.jpg


 この頃、漸く雨は上った。篝の火は再び尽きかかって、余燼をあげた。風が吹き募っていた。

 冷たく、それは十一月の半ばを知らせた。その風に呼び起されたように、それまで紛れて聞えなかった流れの音が、高く響いて耳に入って来た。

 私は水際へ寄って流れに眼をやり、母も長い間この同じ河を見たのだと考えた。

 心持ち濁った水は早く、洲に鳴り、波立って流れた。見るうちに、初めて私は涙ぐんでいた。


 老人の私を呼ぶ声がした。振向くと、棺は舟に積まれて、洲を離れようとしていた。

――「北の河」


■北の河|高井有一|文藝春秋|1966年11月/文庫版:1976年7月│ISBN:9784167174019|評価=○

 作家高井有一が2016年10月26日、84歳で亡くなった。

 上掲「北の河」は同人誌「犀」に掲載され、芥川賞を受賞。高井の最初の著書でもある。長部日出雄の文春文庫版解説の以下の数行で「北の河」は言い尽くされているだろう。

 ――『北の河』は、それまで(おそらくはあまり意識せずに)愛していたものから、ひとつひとつ切り離されていく人間の話である。語り手の少年である「私」は、まず父を失い、空襲で家を焼かれ、疎開したの東北の小さな町で母の自殺に遭遇して、拠りどころのすべてを失ってしまう。が、作品の主眼は、その少年の孤独感にあるのではない。「私」の眼映った母の絶望の深さである。(長部日出雄)

「北の河」の舞台は、父方の遠縁を頼ってきた東北の町としか書かれていない。しかしそれは秋田県仙北市の角館である。祖父田口掬汀の地である。

 高井有一には同人誌の先輩である立原正秋を描いた渾身の評伝がある。その立原の紀行文「角館」にはこんな一節がある。

 ――私は「北の河」の母の遺骸がひきあげられたのはどの辺だろうか、と町につくとすぐ宿に荷物をおいて外にでた。
 そこは、檜木内川と玉川の合するところであった。そして、私の眼前に「北の河」に描写されている通りの風景が現れた。私は河を前にし、十四歳の少年が、たった六カ月間の角館での生活からどれほどの重さを背負って東京に戻ったかを、改めて知った。(『心のふるさとをゆく』1969所収)

20161110北の河3

 当方、2014年に角館へ行った。駅前で自転車を借り、昭和の雰囲気が残る商店街を経由し、武家屋敷をいくつか訪ね、そのうちの一軒青柳家で高井有一の色紙を見た。「葉桜や直武もゐて歴史村」という句。歴史村とは博物館としての青柳家のことであり、直武は『解体新書』の人体解剖図描いた秋田蘭画の小田野直武のこと。

 近くを流れるのが桧木内川。古城橋から内川橋を越えた先まで、自転車を押しながら葉桜の下の土手を歩いた。ここは左岸の桜並木と鮎釣りが有名らしい。当方がなによりも気に入ったのは、武家屋敷通りが端正に残され観光に汚されていないことだった。

  葉桜や母入水せし物語




高井有一■ 夢か現か

★高井有一『時のながめ』04政治の品格│T版








10オンリー・イエスタディ│T版 2015年11月~12月

20151231

10オンリーイエスタディ
出久根達郎『万骨伝――饅頭本で読むあの人この人』

おそるべきは少数者の暴力である。しかし一層おそるべきは多数者の無気力である。われわれは前者が常に後者の温床において育つと云うことを忘れてはならない。(下村湖人『一教育家の面影』)

★出久根達郎『万骨伝――饅頭本で読むあの人この人』〇2015


 非売品の追悼集を古書業界の隠語で「饅頭本」という。葬式饅頭の代わりに配る本だから。意外な筆者が意外な追悼文を綴っている稀覯本もしばしば。およそ追悼文くらい文章の中で美しいものはない、と著者。
 本書は饅頭本の紹介本とは言えない、当時著名で今忘れ去られた人物50名のミニ伝記。下村湖人『次郎物語』は児童文学と思っていたが、2500枚の未完小説。




★寺尾紗穂『南洋と私』

しかし、そこがもともとは誰の土地で、日本人のほかに誰が傷つき、誰が亡くなっていき、その後のサイパンを誰がどうやって生き抜いていったのか、といったことには、現在に至るまで日本ではほとんど関心を持たれなかった。

★寺尾紗穂『南洋と私』〇2015


 「サイパンの悲劇」と言われるように、日本はサイパン戦で甚大な被害を出した。在留邦人の四人に一人が自決し、戦後バンザイクリフの名が知られた。戦死者も米軍の七倍近くにのぼった。サイパン戦に負けた、そこでの平和な暮らしを失った、そういった被害の感覚が日本人には強いと言えるかもしれない。(本書)
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 北マリアナ諸島サイパン島はリゾート地として有名。かつて日米の戦争で1万人が自決したバンザイクリフの名とともに知られる「サイパンの悲劇」。
 その「南洋群島は親日的」というのは本当か?違和感を持つ著者は、サイパンを何度も訪れ、沖縄、八丈島、長野に関係者を訪ねる。「家壊しわれわれを人形みたいに弄んだ」と現地のブランコ氏は、翻弄され続けた過去を証言する。内地人・沖縄人・朝鮮人・島民という人種差別のなかで様々な証言が飛び交う。





★山田太一編『寺山修司からの手紙』

僕は失礼を詫びよう。今日、僕もあの子の噂をきいた。恋人がいるというその時は僕をどんなに打ちのめしたことか。僕の方はともかく、君の方の噂は、やっはり「噂」であってほしい。それは噂だろう、あんな明るい人に翳りがあってたまるかい。

 噂だ。噂という字は嘘という字と似ているね。参った。参った。あゝばかやろう。


★山田太一編『寺山修司からの手紙』△2015


 上掲は1956年、寺山20歳の山田太一へのはがき。ネフローゼで入院中の寺山と早稲田の同級の山田は約4年頻繁に手紙のやり取りをした。
 やがて寺山は多彩な才能を発揮するが、まだ助監督で埋もれていた山田との交遊は絶え、25年後47歳肝硬変での死の直前に邂逅する。
 今81歳の山田は本書『寺山修司からの手紙』公開の要請に「どれほどの意味があるのか」と逡巡しつつ「めったにない時を過していたなあ」と感慨。




10/オンリー・イエスタディ│T版 2015年4月~8月

20150924

10/オンリー・イエスタディ│T版 2015年4月~8月

10オンリーイエスタディ

**2015.05.02
★色川武大『友は野末に――九つの短篇』

多分、私だけでなく他の人もそうやって次第に老いていくのであろう。死にたいというほどではないが、暖かいベッドに入りこむというに近い感じがあり、機会さえあれば、向こうに行ってもかまわないような気がする。★色川武大『友は野末に――九つの短篇』○2015
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古書店の店先で掘り出し物を見つけたような、亡くなった職場の先輩が夢に出てきたような『友は野末に――九つの短篇』。表題作は「オール読物」1983年発表のもの。立川談志との対談、色川孝子へのインタビューなど収録。亡くなってもう27年か。なつかしい昭和の匂いの本。



**2015.06.13
★石井桃子『幼ものがたり』

富山の薬屋さんは、一年に何度くらいまわってきたのだろう。まえに家で預かっておいた袋のなかの薬と交換してくれる。そのとき、家で使った分のお金は、計算して払うのである。小さい子どもには、いきを吹きこむと四角くふくらむ、色つきの紙風船をくれた。★石井桃子『幼ものがたり』〇2002
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石井桃子『幼ものがたり』は70歳の頃に書いた幼児の思い出。旧中仙道沿いの浦和で育った。よかよか飴屋、らお屋、しんこ細工屋、定斎屋、天秤棒に盤台の魚屋が往来を往き来した。恐るべき著者の記憶再現力。読みながら、当方も薬屋の紙風船のみならず、育った家の間取り、食生活など敗戦間もない頃の暮らしが甦ってきた。何世代も前の時代のように思われる。


**2015.07.06
★元少年A『絶歌』

――なぜ人を殺してはいけないのか?――〔…〕「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」★元少年A『絶歌』〇2015
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『絶歌』は1997年に神戸で起きた児童連続殺傷事件の加害者の手記。当時14歳、今33歳。第1部と第2部とは著しく文体が異なり、別人が書いたような印象をもつ。書かれた時期が恐らく1部と2部とで10年近く差があり、その間に“成長”したのだと思いたい。
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『絶歌』を地元の図書館は、遺族の心情、人権擁護の立場から所蔵しないと決定した。当方は閲覧制限をしても資料としては当然所蔵すべきだと考える。事件当時から多大の“被害”をうけた地元住民の知る権利を保障するのは、地元図書館の責務ではないのか。



**2015.08.03
★伊藤隆『歴史と私』

戦後日本は、あれだけ頑張って高度成長を成し遂げ、今もその遺産で世界で三番目のGDPを誇っています。それなのに、どうやってこの国を作ったかという記録が、少ししか残っていない。関わった人はすごく多いはずなのに、非常に残念です。★伊藤隆『歴史と私』〇2015
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伊藤隆『歴史と私――史料と歩んだ歴史家の回想』は、近現代史の史料収集、オーラル・ヒストリーの回想録。明治期は新しい国家を作るという自負から積極的に記録を残しているが、敗戦直後に官庁は戦前の史料を燃やすという前例を作り、以後は文書を捨てることの罪悪感が希薄になったという。司馬史観は西欧コンプレックスだと批判した司馬遼太郎との対談は雑誌掲載が見送られた話、有馬頼寧日記は頻繁な女性関係の記述ゆえ刊行された話、佐藤栄作日記宣伝をめぐる朝日新聞との喧嘩話、仲間内の御厨貴との訣別話など。



**2018.08.06
★堀川惠子『原爆供養塔』

ひとりひとりの心が強くなれば、戦争だって起きんのよ。
大切なのは力じゃなくて、心じゃからね。
★堀川惠子『原爆供養塔――忘れられた遺骨の70年』◎2015
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原爆供養塔には7万の遺骨がまつられているが、骨箱には、名前だけでなく、本籍地の町名、学校名、身につけていた遺品が添えられているケースがある。佐伯敏子さんは、それを手掛かりに手紙を書き、訪ね歩き、遺骨を遺族の元へ届ける。上掲はその佐伯さんの言葉。
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堀川惠子『原爆供養塔――忘れられた遺骨の70年』。佐伯敏子さんの志をついで著者もまた遺族を探す旅に出る。訪ね歩いた遺族たちへの著者の視線のなんと暖かいことだろう。著者のノンフィクションは、いつも胸を激しく打つ。




**2015.08.24
★又吉直樹『東京百景』

過去を引きずる男はみっともないらしい。僕は引きずるどころか全ての想い出を引っ提げて生きている。想い出が僕の二歩前を歩いていることさえある。★又吉直樹『東京百景』◎2013
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18歳で上京、お笑い芸人を目指す日々。後輩芸人とシュールな、ギャグのやりとり、太宰にはまり、ときに文学散歩。太宰の『東京八景』が頭の片隅にあったというが、八景のように心中も留年も仕送りもない。ただ顔色が悪く、眼が充血し、眼の下にクマができ、頬が痩けて、ゆえに何度も職務質問を受けるしょぼい日々。100のコラム。






堀川惠子★原爆供養塔――忘れられた遺骨の70年

20150806

2015.08.06原爆供養塔

 哀しみも喜びもみな自分が作るの、人が作るんじゃない。

 自分のものの思い方で、喜びも怒りも哀しみも生まれるし、争いも生まれる。じゃからこの年になってもね、自分との戦いなんよ。

強くならんといけないね、強ければ相手に優しくできるでしょ。

 ひとりひとりの心が強くなれば、戦争だって起きんのよ。

大切なのは力じゃなくて、心じゃからね。



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 2015年8月6日の今日は、広島に原子爆弾が落とされて70年目にあたる。広島平和記念公園には、「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませんから」の碑文のある原爆死没者慰霊碑はよく知られている。しかし当方恥ずかしながら原爆供養塔があるのを知らなかった。

 その供養塔には7万の遺骨がまつられている。佐伯敏子さんは、引き取り手なき遺骨をまもる孤独な活動を永年にわたり行ってきた。上掲はその佐伯さんの言葉。

 供養塔の骨箱には、名前だけでなく、本籍地の町名、あるいは学校名、亡くなるとき身につけていた遺品が添えられているケースがある。佐伯敏子さんは、一つ一つをノートに転記し、それを手掛かりに手紙を書き、訪ね歩き、遺骨を遺族の元へ届ける。

 佐伯敏子さんは、96歳。現在老人保健施設に入所している。著者は、1973年に出会い、その活動に影響を受けるとともに、佐伯さんの生涯を追う。

 広島原爆投下からその年の年末までの死者は14万人。広島市の公の14万人(±1万人)は、遺族申請による平和公園の原爆死没者名簿に約7万人。そして行方不明者として原爆供養塔に納められた遺骨の数7万人。死者の推定値は、本書によれば「軍隊の死者を入れるかどうかの違いはあるようだが、どの数字もバラバラでまったく整合性がない」。

・昭和20年8月25日・・・63,613(広島県衛生部調・行方不明者を含む。
・同年11月30日・・・92,133(県警本部調)
・昭和21年8月・・・122,338(広島市調査課調)
・昭和24年・・・210,000~240,000(浜井広島市長発言)
・昭和26年・・・64,000(来広したアメリカ合同調査団発表)
・昭和28年・・・200,000(広島市調査課調)

 著者は「死者の数字をめぐる動きを追えば追うほど、彼らの存在が戦後、いかにないがしろにされてきたかが分かる」と書く。そして原爆供養塔に安置され氏名が判明している遺骨が816人もあることは奇跡に近い。そのうちいくつかを佐伯敏子さんの志をついで著者が遺族を探す旅に出る。「私自身、かつて原爆供養塔の前で佐伯敏子さんと出会い、心のどこかに種を撒いてもらっていた。そこから佐伯敏子さんと再会し、広島の遺骨に向き合うまで、15年もの年月が必要だった」。

 おそらく本書を書いた著者の意図は、以下にあるのだろう。

――だからこそ戦後の日本は、たとえ戦いに踏み出しそうになっても身動きのとれぬよう、二度と戦争ができぬよう、自らに対して、どこの国よりも重い手かせ足かせを課してきた。それは、同じ過ちは繰り返さないという覚悟の上に築いた、平和を維持するための「装置」でもあった。その「装置」を、もっともらしい理由を並べて強引に取り外そうとする動きが、今の日本にはある。(本書)

 著者が訪ね歩いた遺族たちへの視線のなんと暖かいことだろう。著者のノンフィクションは、いつも当方の胸を激しく打つ。

★原爆供養塔――忘れられた遺骨の70年│堀川惠子│文藝春秋│ISBN:9784163902692│2015年05月│評価=◎おすすめ│これまで語られることのなかったヒロシマ、死者たちの物語。


堀川惠子◎裁かれた命──死刑囚から届いた手紙


堀川惠子◎死刑の基準──「永山裁判」が遺したもの




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1冊の本の中で「気になるフレーズ」を見つけることが“書評”である、と。



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