小玉 武★美酒と黄昏   …………☆小学5年村上春樹の俳句、そして作家たちの“酒”の歳時記

20171218

20171218美酒と黄昏


 風鈴のたんざく落ちて秋ふかし 春樹

 しみじみとした風情を感じさせる掲句は、村上春樹の少年時代の作である。父との思い出にまつわるエピソードとともに、この小説家の創作の“根っこ”に深くつながる意味が含まれている。〔…〕

 その時、春樹は、句会の連座には入らなかったとあるけれど、暗い庵の縁側に一人座って、蝉の声を聞き、草深い庭を眺めていた時、ふと衝動におそわれている。

《死はそれまでの僕の生活にほとんど入り込んでこなかった。(中略) しかしその庵にあっては、死は確実に存在していた。……》

 最晩年の芭蕉が隠棲した山の中腹の荒れ果てた「幻住庵」、そこで小学生の春樹少年が、生まれて初めて体験した決定的な「死」の予感だった。


 人は、その生涯のどこかで、確実に死を予感し意識する瞬間があるのだ。

――「風鈴ー村上春樹と幻住庵」


★美酒と黄昏 |小玉 武 |幻戯書房 |2017年03月|ISBN:9784864881173|〇

 「長い間、酒場はわたしの“職場”だった」という著者小玉武は、サントリーに38年務め、宣伝部、広報部で仕事をした。サントリーが文壇の一翼であったことは本書で分かる。
 同時に森澄雄門下の俳人であった著者による、作家たちの酒と酒場にまつわるエピソードを、俳句を織り込み歳時記ふうに綴った28篇。そこから2篇を紹介。

*
 まず、「初鏡――鈴木真砂女と稲垣きくの」
“競吟”をとりあげてライバルである二人を素描する。
  紅指して過去甦る初鏡     鈴木真砂女
  女には紅さし指のありて冬   稲垣きくの

  鈴木真砂女は、瀬戸内寂聴の小説「いよよ華やぐ」のモデルとしても著名な銀座の小料理屋「卯波」の女将である。著者は「卯波」へなんども出かけ女将とも話したとあるが、それ以上のことは記されていない。

 稲垣きくのは歳時記でその名をときどき見かけた。師である久保田万太郎が梅原龍三郎邸で食べた赤貝の誤嚥によって命を落としたことは知られている。そのころ万太郎は一人で赤坂福吉町の稲垣きくのの持ち家に住んでいたという。そして死の3時間前、万太郎は入院中の稲垣きくのを見舞っていた。本書で初めて知った。

蛍火や女の道をふみはづし  真砂女
背信の罪軽からず冬の虹  きくの

花冷や箪笥の底の男帯  真砂女
花冷や掃いて女の塵すこし  きくの

白桃に人刺すごとく刃を入れて  真砂女
目刺やく恋のねた刃を胸に研ぎ  きくの

水鳥や別れ話は女より  真砂女
古日傘われからひとを捨てしかな  きくの

 当方も二人の句集から“競吟”を並べてみた。まさにライバル対決である。

**
 さて、つぎは上掲の「風鈴――村上春樹と幻住庵」

 幻住庵は、近江石山寺に近い。芭蕉が「奥の細道」を終えた翌年に4か月ほど住んだところ。ここでの「幻住庵記」(芭蕉生前に刊行された唯一の俳文書)には……、
  先づ頼む椎の木も有り夏木立
という句で、練りに練り、なんども書き直した名文は閉じられている。

 一般には、「夏木立に囲まれた幻住庵のかたわら、椎の木が何よりも頼もしく感じられる」の意。また、「旅に旅を重ねた末、私はここようやく幻住庵に安息の地を得た。庭を見ると椎の木が立っている。まずはこの椎の木陰を頼んで、くつろぐとしよう」とも解され、本書では、「まことに『幻の栖』同様の人の世にあって、まずともかくも頼む栖がこの椎の巨木のしたにある草庵なのだ、という安堵と諦観を詠んだ」としている。

 上掲の≪その庵にあっては、死は確実に存在していた。≫云々は、「八月の庵――僕の『方丈記』体験」(1981年雑誌『太陽』に掲載)のもの。単行本未収録なので全文は分からないが、こう続く。
 
 ―― しかしその庵にあっては、死は確実に存在していた。それはひとつの匂いとなり影となり、夏の太陽となり蟬の声となって、僕にその存在を訴えかけていた。死は存在する、しかし恐れることない、死とは変形された生に過ぎないのだ、と。(「八月の庵」)

  小学5年の春樹は、国語教師だった父とその教え子の中学生たちの幻住庵への吟行に参加していた。彼が見た幻住庵は、

  ――四畳半ばかりの部屋がひとつと縁側、そして小さな便所、その他には何もない。部屋の中には長いあいだの暗闇の名残りのように、饐えた匂いが微かに漂っていた。〔…〕夏の太陽が部屋の四分の一ばかりのところに光の境界線をしっかりと刻み、蝉の声だけがあたりに響いていた。 句会が行われているあいだ僕は一人で縁側に座り、薮蚊を叩きながらぼんやりと外の景色を眺めていた。(同上)

 幻住庵にいて、5年生の春樹が“死の予感”というのは、「方丈記」を読み返さないと、当方にはちょっと理解しがたい。が、こういう会話は分かる。

 ――「芭蕉って貧乏だったの?」帰りの電車の中で僕は父親にそう訊ねてみた。〔…〕 「でも、あんな山の中に住まなきやいけないくらい貧乏だったんだ」 「貧乏だったから山の中に住んだというわけじゃないんだ」と父親は言った。「自分で希望して寂しいところに住んだんだよ」 父親はそれ以上の説明はしてくれなかったけれど、僕はそれなりに納得した。(同上)

 ところで本書では“酒・酒場”がテーマでもあるので、以下を引用。著者が、「国分寺駅南口のビルの地下に近ごろ開店したジャズ喫茶があるんですよ」と仕事仲間に誘われ、「ピーターキャット」へ出向いたのは、1974年のこと。

 ――夕方からはバーになった。店主(マスター)は、むろん、まだ無名の若者だったけれど、店の奥で目立たぬようにレコードをかけていた。(本書)




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谷川俊太郎・尾崎真理子★詩人なんて呼ばれて …………☆あすはちかくてとおい いきるだけさ しぬまでは

20171211

20171211詩人なんて呼ばれて


 年を取るとモノも要らないし、人づきあいも増やしたくないし、大げさに言えば、悟りをひらきたいみたいな。そういう心のありようが大事になってくる。

 自分が世界を見たり人間を見たりするときの意識の方が、現実の社会、世界よりずっとリアルになってきて、その意識がたしかに持てれば、自分は安心して死んでゆける……そんな方向に行くんです。でも、そんなことを詩に書いたりはしません。

 詩の方はね、ただ読んで、楽しくなってほしい。自分でも書いていて楽しいものを書いていたい。

 ある種の軽み? そうかもしれないけど、もはや詩じゃなくても構わないんじゃないの、くらいの気持ち。


 でも、僕の場合は、若い時より今のほうが詩がよく読めるし、よく書くことができるようになったと思う。


谷川俊太郎・尾崎真理子★詩人なんて呼ばれて |新潮社|2017年10月|ISBN: 9784104018062|◎

谷川俊太郎(1931~)は、ただ一人“詩人という職業”で食っている詩人である。

 いま手元に『谷川俊太郎詩集』(1965・思潮社)がある。800ページ近い大冊で、第1詩集『20億光年の孤独』(1952)以降の7冊の詩集が収められている。33歳での最初の“全集”である。
本書で谷川は、60~70年代は「けっこう詩がふつうの人の近くまで行った時代」だと語っている。当方が、この詩集を持っているのはそれ故である。

 当時、谷川俊太郎は『櫂』の同人。茨木のり子、川崎洋、吉野弘、大岡信、岸田衿子らがいた。当方は、その一世代上の『荒地』の鮎川信夫、田村隆一、黒田三郎、北村太郎、中桐雅夫、加島祥造らの方に魅かれていた。『荒地』には戦争の影があり、『櫂』にはそれがなかった。
 そのほか寺山修司や清岡卓行、岩田宏に興味があった。

 谷川俊太郎。1931年生まれ。第1詩集『二十億光年の孤独』は、1952年、20歳のとき。
 寺山修司。1935年生まれ。第1作品集(詩・短歌・俳句)『われに五月を』は、1957年、21歳のとき。
 ともに早熟である。当方、どちらかといえば寺山に魅かれていた。

 谷川は、同時代の詩人からの評価は軽すぎ、詩壇では「大衆的」と片づけられることも多かった、と著者は書く。しかし当方は、かるがると言葉を編む“天才”と思い、ただただ畏敬の念をもっていた。

 他方、寺山は、『書を捨てよ、町へ出よう』から少女向けの『ひとりぼっちのあなたに』、競馬本まで、エッセイ中心に読んだ。だが、寺山の“盗作”問題がつねに引っかかっていた。
 たとえば、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」は、寺山の代表作とされるが、この短歌には、その前に富沢赤黄男(かきお)の俳句、「一本のマッチをすれば湖は霧」「めつむれば祖国は蒼き海の上」があった。寺山に短歌、俳句は、模倣、剽窃、盗作であると非難された。ところが今回、谷川の以下の発言を知り驚いた。

 ――最初、寺山が短歌を発表した時、盗作だと言われたりしましたね。でも、彼からすれば自然なことで、僕はあの時、彼自身が主張すれば良かったと思うね。
 自分の言葉というのは、何も自分から出てこなくてもいい、もっと言語の大きな時代状況の中で、自分が選び取った言葉でいいんだ、って。
(本書)

 さて、谷川は、2,500篇を超える詩を発表し、現在86歳である。離婚した岸田衿子(詩人)、大久保知子(新劇女優)、佐野洋子(絵本作家)という3人の妻は相次いで死去し、詩人はいまどのような生活をしているのか。

  ――気持ちが動けば夏はTシャツ一枚、冬はセーターにダウンをはおって、遠方の小さな朗読会にも、老人福祉施設へも幼稚園へも一人で出かけていく。時には自分で車を運転して。もちろん、日々の基盤にあるのは詩の創作で、「最近、詩を書くのかたのしくなった」と、薄いM a cを日に何度も開いて推敲を重ねている。(本書)

 上掲にあるように、詩は青春のものではなく、むしろ老年のものだ、と語っている。しかし当方は、寺山修司の代表句は
   便所より青空見えて啄木忌
という1953年「蛍雪時代」掲載の投稿作品だと思っているし、谷川俊太郎の代表詩は、やはり10代の作である「二十億光年の孤独」をあげる。

人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがつたりする

火星人は小さな球の上で
何をしてるか僕は知らない
(或はネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがつたりする
  (以下略)

 それにしても著者尾崎真理子の凄腕には驚く。本書は谷川俊太郎のインタビューと評伝をあわせたもつオーラルヒストリーの傑作である。『ひみつの王国――評伝石井桃子』(2015)でもその調査力に驚いた。はやく記者生活を退き、執筆活動に専念し、読者を楽しませていただきたいものだ。

発掘本・再会本100選★犬は詩人を裏切らない |清水正一…………☆オーサカ淀川左岸の町や右岸JUSOの暮らしをうたった。

20171201

20171201犬は詩人を裏切らない


 さて貴方の、なぜ淀川をうたわないか? 先週木曜に着いたお便りの手きびしい質問。啄木が北上川を、白秋が筑後の柳川を、犀星が金沢の犀川を詩にしたように、

 如何にして淀川をうたわないのかという提起、何故?と言われると、簡単に言って、わたし自体が川の番人みたいでしょ。

 川岸に五十年近くも生活すれば、噤(つぐ)んでしまいますね。人工の川だから余計にかわいそうに見えるということもありますよ。


 フランス映画『河は呼んでいる』、あれを見て、ジャン・ジオノオ羨しいと頻りに思いました。自信のもの一つや二つはあるけれど、もっと拡大律した視野で、組曲みたいに詩をかいて行きたいですネ。川に、水に、橋に。川そのものは批評家ですよ。紙に、貧しい声をのせられない。(友への手紙)

――「左岸への手紙――わが新淀川と右岸の町」


★犬は詩人を裏切らない |清水正一 |手鞠文庫 |1982年9月 |ISBN: 9784924721005 |○

 編集工房ノア社主涸沢純平による『遅れ時計の詩人』(2017)によって清水正一(1913~1985)という詩人を初めて知り、その著作、
  清水正一詩集・1979年10月・編集工房ノア
  続清水正一詩集・1985年8月・編集工房ノア
  犬は詩人を裏切らない・1982年9月・手鞠文庫
 全3冊を、兵庫県立図書館で借りた。いずれも「小島蔵書」という2.5センチ角の朱印があり、当方の推察では、小島輝正氏の没後に寄贈されたものではないか。

 エッセイ集のタイトル『犬は詩人を裏切らない』は、萩原朔太郎の「見しらぬ犬」、ツルゲーネフの「犬」など犬の詩歌を紹介しながら、亡くなった愛犬を偲んだエッセイを元にしているが、「あとがき」で「いかにもオーサカ風に、ちょっとあざとい書名と気がさす」と言い訳をしている。

 大阪をオーサカと書き、十三をJUSOと書き、「神戸・京都・宝塚・千里とクロスする路線のホーム・サイドで、ブルックリン最終出口を連想したりする」と書くが、神戸、京都へ、そして海外へ足を延ばすことはなかった。大阪・清水正一は、神戸・足立巻一、京都・天野忠、阪神・杉山平一、播磨・坂本遼などと同じく、それぞれの都市の一般的なイメージとは異なるが、その都市の風土、気質を濃厚に背負った同じ匂いを放つ関西の詩人の一人だ。

 清水が多用する“右岸・左岸”の淀川は、洪水の脅威から逃れるために改造された人工河川である。

 ――人工の河川というものは、治水学の見地から観て、如何に人間の暮しに貢献していても、<風景><自然>論の対象とされる場合、人工の川は、すくなくとも軽視されがちだという現実。(「左岸への手紙」)

 と書くように、川そのものに愛着と同時に若干の“引け目”を感じていたようだ。上掲で「組曲みたいに詩」を書きたいとしているが、川そのものを詩にしていない。

 当方は、神戸から淀川を越えるとき電車の音が変わり、まもなく大阪だと気づくくらいで、広すぎる川幅、無味乾燥な右岸・左岸が広がるだけの風景で魅力に感じない。川の上には空しかない、それだけがすばらしい。

  ――オーサカへ現われたのが筒ッぽの紺飛絣(かすり)を着たまだ少年の日だったが、詩らしきものを書いた年月だけ淀川の左岸(海老江)と右岸(十三)に生活したと云える。五十年と一寸。精神的には川の番人みたいな処がある。自然より人間が好きなのだろう。(『清水正一詩集』あとがき)

 清水は、大阪の淀川をはさんで右岸の十三で蒲鉾の製造販売という家業に従事し、同時にかつて住んだ海老江のある左岸で大阪の詩人たちと交流しながら詩作に励んだ。淀川やそこにかかる橋は、その二つの生活を鉄道線路を切り替える分岐器のような役割を果たしていたのではないか。

 当方が好きな一節を掲げる。

  ――雨のふる日であった。季節はもう秋。あるいて十三大橋を、中津の方へ渡って行つた。電車にも乗らず、独り。そして渡りきらず、おおかた行ったところから、又曲レ右して帰ってきた。灰暗く、水上は重く黒ずんで、音もさだかでない。右岸の町へ移ってきたため、奇しくも繋がりをもった人々のこと、その繋がりが束の間に切れて、消えてしまったことなど、不思議に思いかえされてならなかった。(「左岸への手紙」)

  さて、当方がいつも散歩でいく公園の隣り合わせの墓地に、この詩人の墓があるとの記述が涸沢純平『遅れ時計の詩人』にあった。詩人が亡くなったのは、1985年1月だが、その年の12月に涸沢は詩人の墓を訪ねたが、まだ石碑は建っておらず、木の墓標と卒塔婆だけだった、と。
 高橋輝次『ぼくの古本探検記』(2011)の「十三の詩人、清水正一の生涯と仕事を追って」を読むと、「雪」という詩の前半6行が墓碑裏に刻まれているそうだ、という記述を見つけた。

  そこでいつもの散歩のついでに、当方の畏敬する先輩の墓があるその墓地を訪れ、詩人の墓を探してみた。
 清水家の墓碑の横に、この詩人らしいいかにも謙虚な小さな詩碑があって、こう刻まれている。

「雪
    清水正一

雪ガフッテイル




ソンナオトシテ降ッテイル

   清水正一詩集より」

裏面には「浄岳正道禅定門 俗名正一
昭和六十年一月一五日亡 行年七二才」とある。

 ついでに書けば、この「雪」という詩は、1955年、42歳のとき夕刊新大阪「働く人の詩」欄に発表されもの。その続きを紹介すると……。

町ニデテ「心」トイウ本ヲカッタ
オオキナ白イフウトウニイレ
スミデ
八重子ドノトカイタ
ポストニイレシナチョットフッテミタ





ソンナ音ガシタ

 八重子とあるが、3歳下の妹のことだろうか。昭和の匂いにする詩であり、詩人である。

涸沢純平★遅れ時計の詩人――編集工房ノア著者追悼記 


嵐山光三郎★芭蕉という修羅 …………☆芭蕉が、ふてぶてしく肩をゆすって修羅の荒野をめざしていく。

20170824

20170824芭蕉という修羅


 杉風(さんぷう)は姓名は杉山元雅、鯉屋の三代目で深川の伊奈代官家の敷地内に二つの庵を持ち、ひとつは採荼庵(さいたあん)、もうひとつが芭蕉庵である。生涯にわたって芭蕉を援助し、温厚篤実で情が深い。〔…〕

 芭蕉が伊奈代官家の諜報組織にいたとする説は光田和伸著『芭蕉めざめる』にある。光田氏とは2006年に姫路で芭蕉について講演をしたときにはじめて会った。

 そのとき、素堂の庵は深川芭蕉庵近くにあり、大規模な土木工事によって治水を完成させた伊奈代官家は幕府領の関東一帯の水利を仕切っていた、という話をした。

 伊奈代官家は藤堂家と親しく、御用屋敷のなかに幕府隠密養成所を作り、儒者である素堂は代官養成課程の教官で

芭蕉も同じく代官養成所で俳譜を教えていたのではないかと光田氏は推理した。その論は説得力があった。
〔…〕

 光田氏の『芭蕉めざめる』は2008年に刊行されて注目をあびた。

 山口信章こと素堂は55歳のときに甲州の笛吹川支流濁川の氾濫を治めるため、堤防工事総監督として出向いたことが知られている。〔…〕光田氏は、工事にかかわったのは、かつて伊奈代官家にいた素堂の教え子であったろう、と推察している。教え子が工事に協力したから素堂は難工事をなしとげられた。


★芭蕉という修羅 |嵐山光三郎 |新潮社|2017年4月|ISBN: 9784103601067|○

 嵐山光三郎の芭蕉を扱った本は、本書『芭蕉という修羅』をはじめ『悪党芭蕉』(2006)『芭蕉の誘惑』(2000、のち『芭蕉紀行』に改題) 『奥の細道温泉紀行』(1999) がある。
 また光田和伸には上掲の『芭蕉めざめる』(2008)のほか『芭蕉と旅する「奥の細道」』(2013)がある。
 あえていえば、小説家嵐山は“男色説”を、学者光田は“隠密説”を強調する。

 じつは当方、光田和伸先生の芭蕉講座を受講中である。姫路文学館において2015年から年10回×2時間の連続講座が行われている。当方、2016年に知り、奥の細道越後路から現在「軽み」まで受講中。駄句と思っていた句が先生の説明によってたちまち輝きだす。この講座は来年3月まで続く。

 「初時雨猿も小蓑を欲しげなり」の句を例にとる。

 ――山中で時雨にぬれた猿に出会った芭蕉は、「猿よ、おまえも蓑がほしいのだろう」と思いやった。時雨に濡れそぼった猿の姿に、芭蕉は自分を見ている。(嵐山『悪党芭蕉』)

 と嵐山は通説の「小猿が濡れながらしょんぼり寒げなので、きみも蓑がほしいのかと、憐れみでよびかけた」がそれは自身の姿でもある、とした。

 井本農一『芭蕉入門』によれば、「猿も、猿なりの小さい蓑を着てこのおもしろい初時雨の中を歩いてみたそうな様子であることよ」と“初時雨”を古来からの優雅で興あることとする。
 小西甚一『俳句の世界』でも、「お前もこの初時雨をめで、蓑でもきて濡れてみたいといった顔だね」と能勢朝次の“初時雨優雅”説を紹介する。

 そして光田は“初時雨”にあうと芭蕉はうきうきするという。「大好きな初時雨のなかの颯爽とした旅姿。私たちもあなたに倣ってちょっと蓑を借りたいなあ」と解する。「小蓑」は「小さな蓑」ではなく、「小耳にはさむ」と同様に「ちょっと」とか「少しの間、蓑を」いう意味だとする。

たしかに芭蕉には、「旅人と我名よばれん初しぐれ」「初時雨初の字を我時雨哉」がある。わびしいというイメージと正反対のものだ。

 芭蕉は、元禄7(1694)年に亡くなるが、「奥の細道」のあとは西日本を行脚する予定だった。
 光田は元禄3年の荷兮(かけい)への手紙に「四国の山ふみ つくしの船路、いまだこころさだめず候」とあり、まず四国へと言う。嵐山は、「去来の故郷である長崎をめざしていた」。そのため長崎の通事泥足(でいそく)と親しくしておく必要があったとして元禄7年大坂での歌仙興行で泥足に会ったと言う。
 
 100人が100人とも違う解釈をする、それが俳句の楽しさだ。そして100人の芭蕉がいる。本書の最終章、嵐山の筆は史実を追いながらも奔放に芭蕉を動かし自在である。

――芭蕉の発句は、
此道や行人なしに秋の暮
であった。晩秋の日暮れを、密命をうけた俳諧師が歩いていく。俳諧は危険な文芸で、芭蕉の本能は都市をめざす。欲に目がくらみ、身を破滅させてしまうほどの功が芭蕉をひきよせる。日々旅を栖(すみか)とする芭蕉が、ふてぶてしく肩をゆすって修羅の荒野をめざしていく。
(本書)

嵐山光三郎■ 悪党芭蕉
光田和伸□芭蕉めざめる




谷川俊太郎編★辻征夫詩集  ☆気になるフレーズ=平成引用句辞典☆

20170514

2017.05.14辻征夫句集


熱燗や子の耳朶(みみたぶ)をちょとつまむ

(なに?

うん?

いま耳にさわったでしょ?

うん

なに?)


おでん煮ゆはてはんぺんは何処かな

――「耳朶」『俳諧辻詩集』



★辻征夫詩集|谷川俊太郎編|岩波文庫|2015年2月|ISBN:9784003119815 |○

 小沢信男『俳句世がたり』で辻征夫(つじゆきお)の俳句を知って、急に辻征夫の句集を読みたくなった。『貨物船句集』(2001)といっても貨物船が描かれているわけではない。貨物船は辻の俳号である。

 同句集に小沢信男の跋文がある。その一部を引用する。

《蝶来タレリ!》韃靼ノ兵ドヨメキヌ

 この一行で一篇の詩のわけだ。と同時に、やっぱり俳句なのですな。字余りながら五七五だし、「蝶」という春の季語もあるし、というだけではなくて。
 いうまでもなく右の一行は、かの安西冬衛の「春」と題した一行詩を前提とする。

 てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った。

 颯爽たる昭和モダニズムの記念塔。現代詩の辺境をひらいた先達へ、ざっと70年をへだてて世紀末の平成から、はるかに送るエール。その挨拶のこころこそが、俳諧に通じるのではないか。
(「貨物船が往く――辻征矢よ」)
 
せりなずな地震はこべらほとけのざ
ははありき夢まぼろしの土筆摘み
土筆摘み神戸が起きる朝ぼらけ


 この3句は、1995.1.17の震災句らしい。第1句は春の七草、「地震」に「ごぎょう」が消えているが、「ごぎょう」は母子草、「地震」に「母と子」が隠れている。第2句の「土筆」の語源には「付く子」「突く子」「継く子」があり、いずれにしても「子」が隠れている。

 なお坪内稔典の次の句を思い起こす。

せりなずなごぎようはこべら母縮む
ほとけのざすずなすずしろ父ちびる
2017.05.14貨物船句集

 さて、辻征夫には『俳諧辻詩集』があり、詩の中に俳諧とは何?と『辻征夫詩集』を開いてみる。上掲の「耳朶」という詩は第1行と最終行が俳句である。

頭から齧らるる鮎夏は来ぬ

(友釣りってのは乱暴で
嫌いだから
おれなんかただ川を
見ているだけさ
竿はたしかに出しているけれど
(以下、略)

と始まる「夏の川」の最終行は、この句で終わる。

笹舟のなにのせてゆく夏の川

 辻征夫は、1939に生れ、晩年に脊髄小脳変性症という難病を患い2000年に60歳で死去する。『辻征夫詩集』には、自筆年譜が掲載されていて、たとえば、……。

1977年(昭和52年)38歳
2月、長女葉子誕生。4月、第3詩集『隅田川まで』(思潮社)を刊行。江戸川区春江町の団地の6階に転居。

1978年(昭和53年)39歳
冬の日の夕方、自宅6階の西側のベランダから、空に浮かぶ葉巻型の、白熱灯のように光る飛行物体を妻と2人で見る。15分くらいは見ていただろうか。翌日の新聞に幾つかの目撃談が出ていたが、私たちのように遮蔽物のない場所で消えるまで見ていたという談話はなかった。因みに、この日、長女葉子が初めて自力で歩いた。

1979年(昭和54年) 40歳
6月、船橋市のマンションに転居。10月、第四詩集『落日』(思潮社)刊行。12月、次女咲子誕生。


 光る飛行物体を見たのが生涯最大のエピソードだったのだろうか。なお貨物船という俳号の前は「蕪山村」後は「茫野」。いかにも茫洋とした詩人の生涯だ。






小沢信男★俳句世がたり 

20170508

2017.05.08俳句世がたり



葉桜やふとももはみな桜色   征夫

 五月は三社祭。葉桜のシーズンながら、くりだす女神輿の満開色のみごとさよ。


と謳いあげた右は、浅草生まれ向島育ち辻征夫の『貨物船句集』より。

 そもそも神輿は、御神体をお乗せしてお旅所をめぐるもの。男どもの奉仕でかつぐ。日本の寺社の祭事の習いでもともと女人禁制でした。子供神輿さえ男の児だけでかついだ。わが少年期には。


★俳句世がたり |小沢信男 |岩波新書 |2016年12月|ISBN: 9784004316343|○

 いつだったか、当方より年上の作家の本はもう読まない、と決めたことがあった。老齢となり、かつての作品を自らコピーしたような文章をだらだらと垂れ流したような本は、もういいと。ところが文庫本売り場の新刊をながめても、知った顔がないし、若い読者を対象としたものが多い。で、逆戻りすることにした。

 本書の著者小沢信男は1927年生まれ。ずいぶん年上である。『犯罪紳士録』(1980)、『悲願千人斬の女』(2004)、『東京骨灰紀行』(2009)を以前読んだ。プロの俳人ではないが、句集も出している方の「俳句鑑賞本」が当方は好きである。たとえば多田道太郎が「週刊新潮」に連載した『おひるね歳時記』(1993)。

 さて本書は、月刊「みすず」の表紙裏に2010~2016年に連載されたもの。風天こと渥美清、三菱重工爆破事件の死刑囚大道寺将司、伝説の鈴木しづ子、ホームレス川柳大濠藤太など、もちろん芭蕉、蕪村をはじめ多彩な顔触れである。
 
戦災や震災の句が多く取り上げられているが、ここでは祭りの句を紹介。

神田川祭の中をながれけり  万太郎
――(久保田万太郎の句は)蔵前の榊神社の祭りだそうですがせっかくの神田川だもの、天下の神田祭と思いたい。(本書)

祭笛吹くとき男佳かりける  多佳子
――ちかごろナサケないばかりのような男どもの一人として、こうホメられてわるい気はしません。(本書)

 さて上掲の辻征夫(1939~2000年)。著者たち旧友が集まって辻の実家の向島が見渡せる浅草のホテルで辻をしのぶ会を催したら、建設中の東京スカイツリーが見えた。

――地上350メートルと450メートルにできる展望台へ、誘えばたぶん、すぐにやってくるね辻征夫は。死んでるのも忘れるほどの物好きが、気のなさそうな顔つきでさ。そうしてわれら余人が気づかないなにかを、ヒョイとみつけるんだ。あったなぁ再々そんなことが。さてはスカイツリーがひらひら葉っぱを散らすとか。それよ!

落葉降る天に木立はなけれども  征夫


 引きたい句が多い本書だ。この辻征夫をふくめ「どうやら追悼録の一面があるではないか」と自ら書き、自句をそえて、こう締めくくる。

――おっつけこの身もあちらへ参る。その節はどこかでばったり、あの人この人とまためぐりあう。なんてことはあるわけないにせよ、まったくないともかぎらないぞ。これはたのしみだ。おいしいことは、なるべくさきへ延ばすとしましょう。

よみじへもまた落伍して除夜の鐘


小沢信男■ 悲願千人斬の女


伊藤龍平:訳★怪談おくのほそ道――現代語訳『芭蕉翁行脚怪談袋』

20170125

2017.01.25怪談おくのほそ道



「なるほど、わたくしはこのような廻国の身でございますが、もとより才能も知識も乏しいので、
さしたる句もございません。

近ごろ、この土地を巡り歩いていたときに、海辺で星賦の一句の着想を得ましたが、いまだ句作りが決着しておりません。まず、お笑いぐさに」

と言って、手に提げていた頭陀袋のなかから、短冊をとり出して硯を乞い、
   荒海や佐渡に横とふ天の川


の句を書いて差し出したところ、「松尾」ではなく「はせを(芭蕉)」と書かれてあったので、主人は大いに驚き、
「さては翁でございますか。光栄なお方をお泊め申しました。〔…〕

 主人は山口という姓で、江戸の素堂のいとこだった。近所の好士のもとや、そのほか、あちらに四、五日、こちらにも四、五日と留められたが、紀伊国屋が一番長く留めたので、思いがけなくも、二年も過ごしてしまった。この国(越後)と佐渡は、海を隔ててはいるものの、ほど近い位置にある。

――第13話 翁、北国行脚のこと


 ★怪談おくのほそ道――現代語訳『芭蕉翁行脚怪談袋』|伊藤龍平:訳|国書刊行会|2016年5月|ISBN: 9784336060112|△

上掲は、芭蕉が越後長岡の紀伊国屋に滞在していたときの話。曽良旅日記によれば、越後弥彦、その翌日出雲崎にそれぞれ1泊しているが、その間寺泊辺りを通っているが、長岡には行っていないし、2年滞在した事実もない。
 
 『芭蕉翁行脚怪談袋』には24話が収録されているが、奥の細道関連はこの第13話のみ、芭蕉が訪れたことのない西国の話が多い。また怪談といっても、狸や狐、幽霊がでる程度でおどろおどろした怪談ではない。すなわち、本書『怪談おくのほそ道』というタイトルは羊頭狗肉である。

 ――史実の芭蕉と、伝承上の人物としての「芭蕉」は、ことさらに対立させるべきものではなく、相互補完的なもの、あるいは、共鳴し合うものだと捉えるべきかもしれない。本書のタイトルを『怪談おくのはそ道』としたのは、『芭蕉翁行脚怪談袋』という作品の本質をついていると思うからである。芭蕉を慕う人々の心と、奇談を好む人々の心とがクロスするところに、本書はあった。(「解題」)

 と苦しい言い訳をしている。

 さて、『芭蕉翁行脚怪談袋』は、松尾芭蕉とその門人たちを主人公とした奇談集である。江戸時代後期(1777以前)のもので、本書の底本は鶴岡市郷土資料館に所蔵のもので、同市の斎藤三郎衛門が書写したのは1846年と推測されている。ちなみに芭蕉は1644~1694年の人である。

 本書の訳者の伊藤龍平は、至れり尽くせりの解説をしており、“俳諧説話”というものがよく理解できる。芭蕉はいつの時代もこれほど親しまれていたという人物だったと改めて思った。ただ読者としては、原文をいかなるものか、その一部でも収録されていたらと思う。



11癒しの句・その他の詩歌│T版 2015年11月~12月

20151231

11癒しの句その他の詩歌
★谷川直子『四月は少しつめたくて』

詩とは、心の内側に下りていくための階段だ。詩人が発見した言葉を読み心の内側に下りていくことで、読んだ人もまた発見をする。

何度繰り返されても消費されない強さを持った言葉。それが詩の言葉のあり方なんだ。


★谷川直子『四月は少しつめたくて』〇2015


 「すべてを吐き出してギリギリまで痩せてるか、あるいはあらゆるものを飲み尽くし見事に丸々と太っていなくちゃならない。詩人はそんな言葉を探し出してきて機を織るように詩をつくる」(本書)。
**
 『四月は少しつめたくて』は、なんだか前夫の高橋源一郎と著者との組合せのような1950年生まれの詩人と女性編集者による再生の物語。
 黒田三郎、石原吉郎、新川和江、伊藤比呂美など詩人の名が出てくるが、当然のことながら作中の詩は著者の自作である。
広告のコピーと詩を書き分けるなんて、著者は作家以前にすぐれた詩人である。



11/癒しの句・その他の詩歌│T版 2015年1月~7月

20150824

11/癒しの句・その他の詩歌│T版 2015年1月~7月

11癒しの句その他の詩歌

気になるフレーズ @koberandom 3月5日
★夏井いつき『超辛口先生の赤ペン俳句教室』

普通の句会では、よっぽど下手くそな句は誰からも顧みられないまま闇に沈んでいくので、その手の句を丁寧に添削するなんてあり得ないのだ。★夏井いつき『超辛口先生の赤ペン俳句教室』2014
**
バラエティ『プレバト! ! 』の俳句コーナーを1冊に。添削で全く違った俳句に変わる『言葉の化学変化』を楽しむ番組だが、本で見ると、タレントの句と夏井組長の添削後にそれほどの落差はない。あじさいに江ノ電ぼうやほれてるぜ(浜田まり)HEY! あじさい江ノ電ぼうやがほれるぜ(添削後)。




**2015.06.29
★今井聖『部活で俳句』

この吟行の中の句で、ダンスの振り付けをやるとしたらどの句がいい。「う〜ん、最後の句かな」「菜の花や波紋広がる水一滴」〔…〕ヒップホップの曲「「Don’t Sweat Technique」がかかった。リズムに合わせて板倉の句のイメージをブレイクダンスで踊る。★今井聖『部活で俳句』2012
**
『部活で俳句』第1章「〈踊る俳句同好会〉誕生」は、高校教師でもある著者の実体験を“小説化”したもの。俳句同好会ダンス部会、すなわち踊る俳句同好会の話だ。第2章以下は、平凡な俳句入門講座が続く。「俳句甲子園」など高校生俳句は興隆をきわめているが、部活で俳句をやっている高校生には「高校生向き俳句入門書」など不要だろう。


**2017.07.31
★吉野弘『妻と娘二人が選んだ「吉野弘の詩」』

結婚 して長女が生まれ、娘の寝顔を見ていた時に、ふとめずらしくこの詩を思い出し、手に取って読んでみて涙が止まらなくなりました。子供を持って初めて知った父の気持ちが、波のように押し寄せてきて、ずっと避けていたこの詩に、申し訳ないような気持ちになったものです。★吉野弘『妻と娘二人が選んだ「吉野弘の詩」』
**
吉野弘の著名な詩の一つ「奈々子に」について、当事者である娘奈々子が綴ったもの。父二十代最後の頃の作。自分がその「奈々子」であることは友人知人には積極的に明かしたことはないが、教科書に掲載されたとき、自分の学校で使われる教科書かどうかひやひやしたという。
**
母は
舟の一族だろうか。
こころもち傾いているのは どんな荷物を
積みすぎているせいか。(「漢字喜遊曲」)

詩人の没後、こんなに多くの詩集が出版されるのは、驚き。さらに妻と娘がが選ぶという詩集も珍しい。上掲は『妻と娘が選んだ「吉野弘の詩」』に収録されている。



谷川俊太郎=詩/正津勉=編★悼む詩

20150317

2015.03.17悼む詩

 とまれ最初の一篇「ジェームス・ディーンに」をみよ。早く逝った銀幕の雄を、末だ若い詩人は悼む。

私のなかの年とらない私
きみよ
……
そして私たちの生きているのは
果されなかったきみの未来

 ここにこのように正しくあるとおり、

わたしたちの生はというと、「私のなかの年とらない私」である死者の

その「果されなかったきみの未来」、それをこそ生きることだ


 ということわりを心にしているしだい。

そのことはこの、のちの悼む詩のもと、となっているだろう。

――編者覚書 正津勉



*

 1955年、24歳で亡くなったジェームス・ディーンから2014年88歳で亡くなった吉野弘まで、谷川修太郎のつくった33人への弔詩を、正津勉が編集したもの。

 谷川俊太郎の父・徹三(1895~1989)の「父の死」の一節。「葬儀屋さんがあらゆる葬式のうちで最高なのは食葬ですと言った。/父はやせていたからスープにするしかないと思った。」

 最初の妻・岸田衿子(1929~2011)への「なぜ 問いばかり」の一節。「草花の日々星の日々せせらぎの日々/そして詩の日々をあなたは生きて/いま私たちの魂の風景の中に立ちつくす

 当方、もっとも気に入ったのは「人間吉野と詩人吉野」。その一節。

詩人吉野は魂で読むしかない行間にいる
行間よりもっと自由な余白にいる
詩の始まる前のまた終った後の
静かで豊かな空白に

そのまっさらな白に
羞じらいながら
ときにへべれけに酔っ払って
詩人吉野が立ちつくしている

33人の“紙碑”だと正津勉はいう。

★悼む詩│谷川俊太郎=詩/正津勉=編│東洋出版│ISBN:9784809677540│2014年11月│評価=○│今もあなたは生きている。ゆかりある人33人に捧ぐ哀悼詩集。

小田 久郎★戦後詩壇私史

梯久美子□声を届ける――10人の表現者

正津勉□詩人の愛――百年の恋、五〇人の詩


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