ジョン・ネイスン/前沢浩子・訳◆ニッポン放浪記――ジョン・ネイスン回想録   …………☆緊張のせいで大江健三郎の英語の発音はひどくなり、多くのヨーロッパ人にはなにを言っているのかほとんど聞き取れなかったに違いない。

20180208

2018.02.08ニッポン放浪記


 私が初めて大江に会ったのは、1964年の12月、三島の家で開かれたクリスマス・パーティーでのことだった。

 大江と三島が友人同士だったことはない。それから数年後、三島が国粋主義へと傾いていくと、ふたりは政治的に敵対することになる。

 だが三島は大江の才能を認める鋭い批評家でもあった。いっぽう、大江の方は三島を作家として真剣にとらえてはいなかった。


 若い頃(それ以降もずっと)、大江には他の人々をはねつけ、見下すところがあった。

 三島の家のパーティーにやってきた理由も、虚栄心と田舎者らしい好奇心からだった。
 大江はビュッフェのテーブル後ろの片隅にじっと立ったまま酒を飲み、分厚い眼鏡越しににぎやか
な部屋を観察していた。


◆ニッポン放浪記――ジョン・ネイスン回想録|ジョン・ネイスン/前沢浩子・訳|2017年11月|岩波書店|ISBN: 9784000612340|○

 ジョン・ネイスン(John Nathan)は、1940年ニューヨーク生まれ。ハーバード大学卒業後、来日。著書に『三島由紀夫――ある評伝』『ソニー――ドリーム・キッズの伝説』がある。日本文学をアメリカに紹介したドナルド・キーン、エドワード・サイデンステッカーのひとまわり下で三島由紀夫、大江健三郎等の作品を翻訳した。

 本書は三島、大江をはじめ、安部公房、北杜夫、勅使河原宏、金田竜之介、三遊亭金馬、勝新太郎、大賀典雄、石原慎太郎、水村美苗等、多彩な交遊を綴ったジョン・ネイスンの自伝である。

 上掲の三島パーティでジョン・ネイスンは大江(当時29歳)に出会い、大江はアメリカのセミナーに招聘されているが英語に自信がないと語り、以後、ネイスンの家に週2回通い、英語に磨きをかけることになる。

 その59年後の1994年、大江はノーベル賞を受賞する。スウェーデン・アカデミーで「あいまいな日本の私」という記念講演を行う。だが英文解釈は得意だが、発音が苦手なのは昔のままだったらしい。

 ――大講堂は満員だった。大江は英語で厳かに講演原稿を読み始めた。その晩、緊張のせいで大江の英語の発音はひどくなり、多くのヨーロッパ人にはなにを言っているのかほとんど聞き取れなかったに違いない。 (本書)

 じつは引用すべきはこの部分ではない。大江は講演の出だしで、スウェーデンの女性作家セルマ・ラーゲルレーヴの『ニルス・ボーグルソンの不思議な旅』を読み、作家としての想像力形成に影響を受けたと語る。1906年に書かれた『ニルス』は、魔法のガチョウの背中に乗ってスウェーデンを渡っていく少年の物語だ。

 そんな話をこれまで大江から聞いたことがない著者は、ひよっとしてスウェーデンに対するお追従として言っているのかと思う。そして翌日からスウェーデンのメディアは大江の“「ニルス」愛”を連日報じられる。
 
 授賞式の後の国王が出席する晩餐会は、150人が給仕する招待客1400人の祝宴である。著者も200ドルを払って、この席へ。食後、受賞者たちによる3分間スピーチがある。

 ――皆が予想したとおり大江の話は『ニルス』だった。だが今回、大江は結末ですばらしいどんでん返しを繰りだした。〔…〕

 大江は自国の古典文学を見下して背を向け、『源氏物語』の作者紫式部より、『ニルス』の作者セルマ・ラーゲルレーヴにより大きな敬意をいだくようになった。だが最近になって、光源氏がその生涯の終わりに、亡き妻の魂を探し求める思いを空を渡る雁に託して歌を詠んだことを思いだした。今、『源氏物語』と古典文学の伝統に戻りたい、『ニルス』に出てくる魔法のガチョウの背中に乗って戻りたい、それが自分の望みであり、意志であると大江は述べたのだ。

 きらめく光の中の聴衆たちは、この大江の言葉のマジックを耳にして一瞬どう反応したものかわからないようだった。やがて満足気などよめきがその部屋にいたスウェーデン人たちの口元からもれだし、大江は拍手喝采の中を足を引きずりながら席に戻った。
(本書)

 以下、ゴシップ好きの当方にとっては、大江が著者をソープランド(当時「トルコ風呂」)に誘う話や三島がノーベル賞のために力を貸してほしいと著者に頼む話などがあるが、作家でない人のゴシップを三つ。

 1965年、初代水谷八重子がお吉を演じる新派の舞台に、三島由紀夫の指示でタウンゼント・ハリスを演じた著者ジョン・ネイスン。
ハリスは障子越しに通訳のヒユースケンに「なにをしておるか。起きておるか」と問いかける。台本ではヒユースケンが「寝ております」と答える。だがささやき声ではあるが劇場全体に聞こえる声量で……。ヒユースケン役の金田龍之介は言う。
――「アイム・ファッキング(ヤっている最中だ!)」


 著者ジョン・ネイスンは三遊亭金馬に弟子入りしようと決意し、毎晩、鏡の前で「居酒屋」をくりかえし稽古し、ついに金馬に見てもらうことに。金馬は膝の上に扇子を置き、横に小豆の入ったお椀を置いた。弟子の芸にダメなところがあると、その都度、師匠は小豆を一粒ずつ床に落とすのだ。
 サゲ言い終わって、ふたたびお辞儀をした。金馬は手を開き、手にしていた小豆をすべて落とした。三遊亭金馬は言う。
――「江戸っ子じゃないと、たぶん無理だろうね」


 東京でバーをはしごする勝新太郎に著者ジョン・ネイスンはついてまわったことがある。勝は白いジーンズにディズニーランドで買ってきた黄緑色の花柄Tシャツという出で立ちだった。銀座の高級クラブ「ラムール」と「徳太寺」だ。飽きてくると勝は次の店に行くぞと、まるで銀座の通りを歩くハーメルンの笛吹き男のようだった。勝新太郎は言う。
――「ジョン、毎日が俺の誕生日なんだ。毎晩、俺の誕生パーティなんだよ」




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新海均◆いのちの旅人――評伝・灰谷健次郎 …………☆「学校の先生やめます。きょうから、ただのオッサンになります」

20180205

2018.02.05いのちの旅人

 
 長兄の自死以降、行き詰まりをみせていた灰谷は、1972年、17年間の教師生活にピリオドを打つ。〔…〕

 5月、38歳の灰谷は新学期早々に、全校生徒の前で「学校の先生やめます。きょうから、ただのオッサンになります」と発表。

受け持ちの子どもたちへの責任も放棄する。


 教師を辞めた灰谷は、二度目の結婚生活もほとんど破綻し、本土復帰直後の沖縄へ放浪の旅に出た。ささくれだった自分を癒やしたいという思い、死にたいという願望もあったという。


◆いのちの旅人 評伝・灰谷健次郎 |新海均 |2017年10月|河出書房新社|ISBN: 9784309026183|○

 当方は、編集者が書いた作家や出版社の回想録、“内幕もの”、評伝、エッセイ類が大好きである。以前この種の本をまとめて50冊ほど某古書店に引き取ってもらったとき、この方面のお仕事ですかと訊かれたことがあるが、もちろんそうではない。

 本書の著者新海均(1952~)は光文社の元編集者。すでに魅力的な著書がある。
深沢七郎外伝――淋しいって痛快なんだ』(2011)でララミー牧場時代の深沢の日常を描き、『司馬遼太郎と詩歌句を歩く』(2015)では司馬作品に引用された俳句、和歌、漢詩、謡、連歌から作品のもう一つの魅力を引き出し、『カッパ・ブックスの時代』(2013)で光文社の“私的社史”を、天才プロデューサー神吉晴夫の晩年も描いた。

 『いのちの旅人――評伝・灰谷健次郎』は、「宝石」編集者の新海が灰谷に連載対談を依頼し、灰谷のその強烈な個性にはまり、以後作家と編集者としての交遊が続く。そして灰谷の死後10年を経て本書を書くに至る。評伝とあるが、年譜も作品目録もない。著者自身も児童文学に思い入れがあるようには見えない。著者の興味は、灰谷の一歩はみだした生き方である。

 だが当方の関心は、もっぱら作家が作品を生むプロセスでの、編集者のかかわり方にある。新海が連載対談「われらいのちの旅人たり」を提案し、灰谷は「そのタイトル、ええね」と乗ってくる。落ちこぼれをテーマにしたいとも。

 1985年の1年間月刊「宝石」を飾った。対談相手は山田洋次、石倉三郎、白川和子、丸元淑生、水上勉、アグネス・チャン、宮崎学、高木護、樹木希林、住井すゑ、山西哲郎、山田太一。
 対談について、テーマの設定、会場の選択、対談の現場の模様、相手の発言の貴重な一言、終了後の言動などが綴られ、編集者の仕事とは何かが具体的に示される。

 児童文学作家灰谷健次郎(1934~2006)は、神戸で生まれ、夜間高校、夜間大学を卒業後、神戸市立の小学校に教師として17年勤め、その後沖縄、アジアを旅し、『兎の眼』(1974)がミリオンセラーとなる。

 当方は灰谷健次郎に興味をもったことが二度ある。

 一つは、1964年、畏敬する大先輩、当時の神戸市立図書館長に、足立巻一『詩のアルバム――きりんの仲間17年』を読むように薦めれたとき。竹中郁、足立巻一、坂本遼たちによる児童詩誌「きりん」の編集に若き灰谷もかかわっていた。子どもの自由で生命力あふれる詩の指導者。当時東灘小学校教諭だった。だが教委では“厄介者”扱いで敬遠されたいた。本書でその理由が初めて分かった。

 もう一つは、2017年。神戸で少年A事件が起こり、加害者Aの写真が新潮社の写真週刊誌「FOCUS」に掲載されたことに抗議し、新潮社から文庫19点、書籍6点の著作権を引揚げる。灰谷の著作の大半は新潮社だった。その突出した行動には賛否が分かれた。当方は、“ええかっこしい”の自縄自縛と思った。

 だがいま振り返ってみれば、自分が生まれ育った神戸、そこで教師をしていた自分自身を思い、加害者の中学生を生んだ地元に対する“自責”の念、贖罪の思いがあったのではないか。

 海を愛し、旅を重ね、住む地を替え、家庭を放棄し、友人と組み、書き、語り、奔放に生きた73年の生涯だった。

 本書には灰谷の30代の頃の作と思われる詩が掲載されている。

さけびつづけてわれひとり
さまよひつづけてわれひとり
なきつかれねむるらんかんに
はへがいっぴき
(「法隆寺五重塔・羅漢像」)



左右社編集部・編◆〆切本2 …………原稿執筆という楽しみの時間は長い方が良いに決まっている。

20180125

2018.01.25〆本2


 音符という抽象の世界を紡ぎ出す仕事の中で、1週間に2日の具象の世界に対面する懐しさは言うに言われぬ幸福だった。

 その至福の時間、それは「パイプのけむり」を書く時だった。僅か6枚の原稿に2日間は時間の使い過ぎだと思う人も居ようが、

僕は全くそう思わないし、その事を墨守して来た。楽しみの時間は長い方が良いに決まっている。


 そうして、その習慣は30年を遥かに越えた。正確に言うなら、1964年の6月5日号から、2000年10月13日号迄。回数にして1842回分の掌編「パイプのけむり」は、こうした環境の中で生まれ、『アサヒグラフ』に送られて行った。

 ――さようなら・團伊玖磨


◆〆切本2 |左右社編集部・編| 2017年10月|左右社|ISBN:9784865281774○

 “悶絶と歓喜”の『〆切本』の続編、“勇気と慟哭”の『〆切本2』が出た。詫び状魔、逃亡魔でおなじみの作家たち、山の上ホテル、和可菜、出版社社長私邸、印刷所への缶詰め、そして数々の言い訳アンソロジーである。

 そのなかで上掲團伊玖磨(1924~2001)のさわやかなこと。文筆のプロでない故、さらにすがすがしい。團が「パイプのけむり」を『アサヒグラフ』に連載を始めたのは、40歳。まもなく東京オリンピックが始まる1964年の夏。掲載誌の終刊とともに、20世紀が終わり、團は76歳。

 ――親切な朝日新聞社は、「パイプのけむり」を同社の他の出版物で続けては、と奨めて呉れたけれども、僕はその総べてをお断りした。「パイプのけむり」は、『アサヒグラフ』の頁の組み方、上等な紙質、あの美しい活字が生んだ文体だからである。これは僕の美学である。 (本書)

 当方はむかし広報誌の編集をしていたとき、職場でレイアウトの参考にと『アサヒグラフ』と『暮らしの手帖』を購読していた。毎号「パイプのけむり」は掲載されていたが、いい読者ではなかった。興味は単行本『パイプのけむり』のタイトルにあった。

 第1巻「パイプのけむり」(1965)から、続・続々・又・又々、とタイトルは続きさて次は何と称するかと思えば、又々まだ・まだまだ・も一つ・なお・なおなお、これで10巻、読者の興味はもっぱら次のタイトルになり、重ねて・重ね重ね・なおかつ・またして・さて・ さてさて・ひねもす・よもすがら・明けても・暮れても、20巻に到達そしてなお、晴れても・降っても・さわやか・じわじわ・どっこい・しっとり・そして第27巻「さよならパイプのけむり」(2001)と世紀を越えて終わった。

2018.01.25〆切本2-2-1

他方、不埒なのはタモリである。筒井康隆編集長の頃の『面白半分』1977年9月号に白紙のページがあらわれた。編集後記に「印刷ミスではありません! 今月はタモリ氏の原稿は間に合いませんでした。担当A (特に名前を秘す) は、ショックのあまり、この数日、床に伏しておりましたが」云々とある。

 筒井康隆だからこの趣向でおさまり、編集後記は冗談めかしているが、実務の担当者は当然代替の作品もしくはページ減など対策を講じただろう。しかしこの結末に相当な痛手を受け、編集者としてのプライドをズタズタにされたことだろう。

 興味をひかれたのは、「なぜ私たちはいつ締め切りに追われるのか」という松尾豊の一文。

 ――しかし、忘れてはならないのは、創造的な仕事は、集中しなければ進まないことである。集中力は多くの場合、時間の制約がなければ上げにくいものであって、締め切りはそれに寄与しているから、我々はいわば締め切りのおかげでパフォーマンスを出せるわけである。〔…〕我々が反省すべきは「早めにやっておけば良かった」ではなく、「もっと集中すべきだった」である。 (本書)

 ついでに本書の奥付も掲載しておこう。
2018.01.25〆切本2-3


左右社編集部:編■〆切本









発掘本・再会本100選★楔の塔――羽黒山五重塔仄聞|久木綾子 …………☆89歳の作家デビュー

20170928

20170928禊の塔


 幸正は、五層目の屋根の野地板を張るとき、どうしたら壮太の仕事がやりやすいかを考えた。〔…〕
 
 しかし、五重塔はお互い初仕事だし、生涯に、再びめぐり合うとは考えられぬ大仕事だ。得心のいく仕事を競い合い、この塔を後世に残したい。堂塔の姿、形の美しさを支えているのは、実際は、見えない部分の構築力と均衡である。だが、人はそこまで想像できない。

 人が塔を見てまず魅了されるのは、屋根の反りの美しさ。それを支える茸材の静まり方であろう。〔…〕

 つまり屋根の美しい線は、見えない場所に反りを加工した棟梁の理想(夢)と、それに合わせて何万枚かの木羽を積んでいく葺師の技にかかっている。


 二人の呼吸がぴったりと合わねばならぬ。


★楔(みそぎ)の塔――羽黒山五重塔仄聞 |久木綾子 |新宿書房|2010年7月|ISBN: 9784880084060|〇

 久木綾子は、1919年東京生まれ。若いころ同人誌に参加し小説を執筆。結婚後は主婦専業。夫の没後、2008年に『見残しの塔――周防国五重塔縁起』を刊行。89歳の作家デビューで一躍脚光を浴びる。

 『見残しの塔』の瑠璃光寺は、山口市にある大内文化を伝える寺院。境内は香山公園と呼ばれ、池のほとりに五重塔がたつ。室町中期にその五重塔建立に関わった番匠たち、交錯する男女を描いた歴史小説。
 
 若き宮大工左右近(さうちか)はできあがった塔に、自分の齢と年月日、筆で書き込み花押を入れる。
嘉吉二年二月六日
比のふでぬし弐七


 これは大正4年、解体再建中に発見された墨書。
 嘉吉2年は、1442年、室町時代である。「誰のために、塔を建てているのか?」と問われ、「塔のためです。塔が満足してくれるように。それだけを考えて造っています」と左右近は口にする。

 当方、瑠璃光寺五重塔は、観光バスで半時間ほど留まっただけだが、池と樹木に囲まれた優美な姿の塔だという記憶がある。
20170927禊の塔2

 さて、久木綾子の第2作『楔の塔――羽黒山五重塔仄聞』は、同じく五重塔建立が描かれるが、こちらは南北朝時代。葺師の壮太19歳が中心。宮大工の幸正とともに五重塔の初仕事に挑む。

 当方が羽黒山を訪ねたのは、2015年。芭蕉奥の細道の出羽への一人旅だった。
 参道の入口随神門をくぐると、空気が一変する。樹齢数百年の老杉がそそり立つ。杯やひょうたんの彫られた石段を下り、小さな祓川の朱塗りの橋を渡ってしばらく行くと、左手に600年前の五重塔が見えてくる。爺杉もある。

 『楔の塔』の山伏浄海は幸正に言う。「なんと力強い塔じゃのう。雪に埋まっていると、一層尊いのう」〔…〕「あんた、大した塔を建てたのう。まだ完成していないのに、この炎のような、組み物の勢い」

 上掲は当方が写したものだが、こんな荒々しい木肌を露出し、黙して、仁王立ちしている五重塔は初めてである。塔は、まわりの千年杉に囲繞され、修験者たちを見下ろすごとく立っている。高さ約30メートル、彩色等を施さない素の塔。

 「枓栱(ときょう)が、塔身から暴れ出しそうな勢いだな。火炎のように見える」と描かれたのはこの塔か。5層の屋根の稜線の長さ、反りも見えるが、肝心の木羽(こば)葺きは下からは見えない。

 なぜ五重塔だけぽつんとあるのか不思議だったが、明治時代の神仏分離により、山内の寺院や僧坊が廃され、取り壊され、五重塔のみが残されたらしい。

 塔からは、一の坂、二の坂、三の坂を上り羽黒山頂大鳥居へ1.7kmの石段を行くのだが、当方旅程の都合で自動車道で山頂へ。前日、立石寺(閑さや岩にしみいる蝉の声)の1015段を上ったのに、羽黒山(涼しさやほの三か月の羽黒山)の2446段を上れなかった。だが三日月はないが、羽黒山から残雪の月山、湯殿山を眺めた。

 そして厚さ2.1mもある茅葺に驚いた月山・羽黒山・湯殿山の三神合祭殿にお参りし、銅鏡が埋納されている鏡池、芭蕉像をみて、玉こんにゃくを食べるという当方の旅。

 『楔の塔』は、十和(とわ)という女が登場する。両親が自刃し、赤子の十和が成長し17歳で嫁ぐが、その後離縁。十和の両親の自刃の謎が少しずつ解き明かされるが、最後まで解決に至らない。といった物語が、五重塔の工事と並行して進む。

 著者はあとがきに、「『見残しの搭』も『禊の塔』も、人の世の優さを根底に置き、人間への決して諦めることのない信頼回復の願いを書き綴った」と記す。91歳の著者は、次回作『何の花降る』を予告していたが、刊行されることはなかった。




高橋順子★夫・車谷長吉 …………☆人一人殺せしあとの新茶かな

20170814

2017.08.14夫・車谷長吉


 長吉の句をふと思い出してみる。

「鈍重な男の恋や……」。下五は何だったか、「牛のごと」ではなかったよね、と思い、句集を見てみると、「鈍重な女の恋や黴のごと」だった。

女としているが、自画像っぽい。


長吉には狂気にまごう冴えがあったが、強情といったらなかった。それは鈍重に通ずるところがあったような気がする。黴はいつまでもそこに、心に居つづける。

 私の恋句を一つ掲げる。「わが恋はどの紫の花菖蒲」


★夫・車谷長吉 |高橋順子 |文藝春秋|2017年5月|ISBN:9784163906478|○
 
 車谷嘉彦という当時無名の小説家から、1988年に、「詩集3冊読んだ」云々という独り言のような絵手紙が高橋順子に届く。以来、ほぼ月一度、11通の絵手紙が届く。のち1993年にふたりは“この世のみちづれとなって”、2015年の長吉の死まで夫妻の生活が続く。

 本書は高橋順子によって書かれた小説家車谷長吉(1945~ 2015)・詩人高橋順子(1944~)という“夫妻の年譜”である。

 1990年にふたりは初めて会うのだが、「曙橋の近くで初めて高橋順子さんにお目に掛かった時、私はこの人は弥勒菩薩のような微笑を浮べた人だと思いました」という1993年の手紙が残っている。その末尾に「どうかこの世のみちづれにして下され」とある。長吉にとって順子は一途な“純愛物語”の相方である。

 詩人仲間の新藤凉子がいう。「よくあなたなんかをもらってくれる男がいたもんだ。あなた怖いもん」。ただの弥勒菩薩ではなかった。美しい顔が一瞬にして鬼女になる文楽のガブというからくりの頭(かしら)をもっていたかもしれない。

 ――結婚して2年と4カ月だった。この結婚は呪われたものになった。〔…〕
「このままではあなたを殺すか、自殺するかだ」とたびたび言うので、怖くなり、3本とも包丁を隠す。〔…〕
それでも、治るかもしれない、という希望は私はもっていた。いま書いている長編小説を完成させてほしかった。書かせてあげたかった。
「大学病院の精神科に行きましょう、治るから」と私が言っても、「小説を完成させるまで行かない」と言う。そしてついに「順子ちゃん、ぼく狂ってしまった」と自分でも異常をきたしたことを認める。
(本書)

 強迫神経症であった。

 車谷長吉は『鹽壺(しおつぼ)の匙』(1992)で三島由紀夫賞、『赤目四十八瀧心中未遂』(1998)で直木賞を受賞。当方は、長吉の出身地姫路の近くにいるので、興味を持って読んだが、この作品が既にピークではなかったか。作品によって家族、親族、友人、編集者、作家を“誹謗”し、孤立無援。それを“編集者”として、妻として高橋順子に伴走したもらった69年の生涯。

 『世界一周恐怖航海記』(2006)、『四国八十八ヶ所感情巡礼』(2008)を読んでも、旅の楽しさも生きるヒントも得られなかったし、地元姫路を描いた『灘の男』(2007)も単なるインタビューに思えた。生前に『車谷長吉全集』全3巻(2010)を企画したころから、小説家とし題材に枯渇し、書き残すべきものをもたなかったようにみえる。

 もう一つの肩書「俳人」としての俳句で記憶に残る句。
  人一人殺せしあとの新茶かな
  遠き火事今年最後の大あくび
  名月や石を蹴り蹴りあの世まで


 だが、書きたい作品を残し、よき伴侶に恵まれ、思い残すことのない生涯だったように思われる。これからも少数ながら熱心な読者によって作品は読まれ続けるだろう。

 2016年、車谷の故郷姫路で高橋順子の「車谷長吉という人」という講演をきいた。その日の当方のメモに「陰湿・独善→稚気、哀切というイメージ」と記している。


山本淳子★枕草子のたくらみ――「春はあけぼの」に秘められた思い…………☆中宮定子の世は、すべて、折々につけて、一年中素敵

20170726

2017.07.26枕草子のたくらみ


 これが、清少納言のたくらみだった。

 悲劇の皇后から理想の皇后へと、世が内心で欲しているように、定子の記憶を塗り替える。

定子は不幸などではなく、もちろん誰からも迫害されてなどおらず、いつも雅びを忘れず幸福に笑っていたと。


 その目的は、清少納言自身にとっては、もちろん定子の鎮魂である。〔…〕
 
 ただ、この書は真実ではない、この虚像には騙されない、そう呟く紫式部を別にして。
「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人」

「清少納言こそは、得意顔でとんでもなかったとかいう人」(『紫式部日記』消息体)


★枕草子のたくらみ――「春はあけぼの」に秘められた思い |山本淳子 |朝日新聞出版|2017年4月|ISBN: 9784022630575|○

 平安時代中期の第66代天皇一条帝は、986年に7歳で即位し、1011年に崩御。その時代は、以下のように2行に言い換えてもいいだろう。

関白・藤原道隆・兄 -その娘 中宮・定子 - その女官・清少納言
関白・藤原道長・弟 -その娘 中宮・彰子 - その女官・紫式部 

 清少納言が綴る「枕草子」に描かれる定子は、清少納言より10歳ほど年下で、若く、美しく、理知的で、機知に富み、一条帝とは仲睦まじく、周りに気配りをする女人である。

 だが、父・藤原道隆の死、事件を起こした兄・伊周の大宰府、同・隆家の出雲への左遷、実家・二条宮の焼失、一時出家、実母の死、藤原道長の娘・彰子の中宮に伴い皇后、第三子出産時に崩御、と一条帝に寵愛されつつも多難の生涯だった。

 ――この人生を、なんと形容すべきだろう。浮かぶのはおそらく、波瀾や苦悩という言葉ではないか。にもかかわらず、定子を描く『枕草子』は幸福感に満ちている。紫式部が違和感を唱えるのも、決して筋違いとは言えないのではないだろうか。(本書)

 紫式部「源氏物語」の桐壺帝の寵愛を一身に受けた光源氏の母・桐壺更衣は、定子がモデルではないかと著者は書く。それゆえ、「枕草子」の定子礼讃は「そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよく侍らむ。=その空言を言い切った人の成れの果ては、どうして良いものでございましょう」(『紫式部日記』)との清少納言批判になった、という。

 だがそれこそ清少納言のたくらみであった、と。

 ――「春は、あけぼの」に見て取れるように、『枕草子』のものの見方は、花鳥風月から生活文化に至るまで、知性と革新性、明朗快活と当意即妙を旨とした定子の文化から生まれたものである。はじけたバブルとなったその文化を、『枕草子』はバブル崩壊後も、まるで何事もなかったかのように旗印にし続けた。

つまり、『枕草子』が記しているのは、定子のための、ひたすらの〈文学的真実〉なのだ。清少納言はこの優しい〈嘘〉によっで、定子が生きている間は定子を慰め、定子の死後はその魂を鎮めようとした。
(本書)

 当方は山本淳子の大ファンである。
『源氏物語の時代-一条天皇と后たちのものがたり』(2007)
『私が源氏物語を書いたわけ 紫式部ひとり語り』(2011)
『平安人の心で「源氏物語」を読む』(2014)
そして、本書『枕草子のたくらみ――「春はあけぼの」に秘められた思い』(2017) 

 山本淳子は平安朝研究者ではあるが、それ以前に天性の教師である。これほど分かりやすい古典の啓蒙書はほかにない。時代、人物、生活が目に見えるように展開され、わかりやすい現代語訳、そしてときにユニークな解釈。読者として褒め言葉をいくら連ねても余りある。

 本書『枕草子のたくらみ」を読んで、池田亀鑑校訂『枕草子』解説を想いだした。
 樋口一葉の「さをのしづく」の次の一節が引用され「総てが語り尽されているといってもよい程の深い含蓄がある」と書かれている。
「かりそめの筆すさびなりける枕草子をひもときはべるに、うはべは花もみぢのうるはしげなることも、ふたたび三たび見もてゆくに、あはれにさびしきけぞ、この中にもこもりはべる。」

 ――すべて折につけつつ、一年ながらをかし。
すべて、折々につけて、一年中素敵
 (『枕草子』第二段「ころは」)


藤井青銅★幸せな裏方  …………☆誰の人生にも、ヒントとコントが詰まっている。

20170701

2017.07.01幸せな裏方


「教科書には、載せられたくないですなあ」
 目の前の紳士は、にこやかにグラスを傾けた。見事な銀髪。端正な顔立ち。年齢のわりに背が高く、背筋がしゃんとしている。
 ショートショートの神様・星新一さんだ。〔…〕

 載せられたくない理由は、二つあった。その一つは、
「安いですからな」〔…〕

 掲載されたくないもう一つの理由を、星さんは語った。
「教科書に載っているものって、嫌いになるでしょう?」


 もちろん、教科書で出会って、その作家を好きになる……というパターンはある。一方で、教科書や試験問題で散々苦労させられたから、プライベートでは読みたくもない……というパターンもある、と言っているのだ。

 自分の作品がそんな風になってしまうのが嫌だ。人は、強制されると拒みたくなる。偉そうにされると反発したくなる。試験に出るからなんて理由ではなく、純粋に面白いと思って読んで欲しい、という意味だ。

――「載せられたくない」


★幸せな裏方 |藤井青銅 |新潮社|2017年3月|ISBN:9784103508816 |△

 上掲の「載せられたくない」は、落語も書く著者らしく、じつは“オチ”がある。それを紹介するのはルール違反の気もするが、ゴシップ・コレクションのために、あえて書く。

 著者の『誰もいそがない町』というショート・ショート集の一編がある高校の入試問題になったという。「作者が言いたいことは何か?」の4択を作者自ら答えられない。そこで……。

 ――そう言えば星さんの場合も、教科書での設問に、
「正解できません」
 とおっしゃってたなあ。……あ、ひょっとして、それが本当の理由?
 (本書)

 著者は放送作家。星新一ショートショート・コンテストに入賞したことから、活字デビュー。ラジオドラマの脚本、バラエティの台本、小説など、多彩な仕事ぶり。本書は、大瀧詠一、手塚治虫など仕事でかかわった著名人の「ぼくが実際に現場で見たこと」を綴ったもの。

 ――あの人のなにげない一言に、実は深い教えがあったり、なかったり……。誰の人生にも、ヒントとコントが詰まっている。(本書)

*
2017.07.01誰もいそがない町

 ところで『誰もいそがない町』(2005)は、ニッポン放送『イルカのミュージックハーモニー』用に書き下ろされた作品を集めたもの。同名の作品に、こんな一節が……。

 ――ところがこの町では、そんなふうにいそぐ人は誰もいないときている。欲しいものはゆっくり時間をかけて手に入れようとする。いや、ひょっとしたら、手に入らなくてもいいと思っているのかもしれない。
 なぜならば、何かを手に入れる時は、その途中の時間こそが一番楽しいということを、みんなが知っているのだから。
(「誰もいそがない町」)

 また、あとがきに「空や海や風の中、都会の公園やゴミゴミした雑踏の中に、ひっそりと潜んでいる小さな物語」とある。


村上春樹★村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事  ☆チャンドラー『プレイバック』を読んでみなくては……。

20170612

2017.06.12村上春樹翻訳ほとんど全仕事


 そういえば、かなり昔のことですが、雑誌に書評を頼まれたとき、存在しない本の書評を書いたことがあります。

 まず本を読まなくちゃいけないじゃないですか、書評って。

 時間がなくてあまり本が読めないときとか、てきとうな本が見つからないときとか、しょうがないから自分で勝手に本をつくってしまって、その書評を書いたりしました。出鱈目なあらすじを書いて。


★村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事 |村上春樹|中央公論新社|2017年3月|ISBN: 9784120049675|○

 本書の目玉は二つ。一つは、村上春樹の翻訳書70点余りの表紙と原本の表紙をカラー写真で紹介したもの。もう一つは翻訳家柴田元幸との翻訳についての長い長い対談。

 上掲の書評の話は、その対談の中で語られたもの。当方は翻訳物を読まないから、いつものように卓抜な警句と、意表を突く比喩を探し、そしてゴシップを集める。そういえば、上掲にフレーズの前にこんなセリフも……。

 ――アンソロジーに収録するてきとうな作品が見つからないときなんか、翻訳しているふりをして、自分でオリジナルをでっちあげちゃおうかと思うこともありますね(笑)。名前を勝手にこしらえで、あまり知られていないアイスランドの作家ですとか言って。(本書)

これでファンは新しい翻訳アンソロジーが出たら、探す楽しみができましたね。
 
 なぜこんなに多くの翻訳をするのか、の疑問にも答えている。
 朝4時に起き、小説を書き、あと時間が余って、ジムに行ったり走ったりするが、これも1、2時間。まだ暇があるので、じゃあ翻訳でも。通常の「作家の副業」である対談、講演、連載エッセイとかは、疲れるので……。

 レイモンド・チャンドラーの翻訳裏話も興味がある。

 ――この『ロング・グッドバイ』を翻訳する作業は、思わずにこにこしてしまうくらい本当に楽しかった。僕は作家として、チャンドラーの文章からたくさんのことを学んできたから、彼の文章を訳していると、なつかしい場所に帰ってきたみたいで、でそれがすごく嬉しかった。(本書)

 「チャンドラーの文体は僕の原点でもある」と村上はいう。村上の作品の卓抜な比喩や気の利いた警句、洒脱な会話、そして個性的な登場人物は、こうしてチャンドラーを翻訳しながら、習得し、文体の訓練をしているのかもしれないと、ちょっと秘密を知った気になった。

 『プレイバック』の名セリフは、当方、何十年も前に早川ポケ・ミスの清水俊二訳で親しんだ。
「しつかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかつたら、生きている資格がない」

 村上春樹は「典型的な仮定法の構文。仮定法のニュアンスって日本語になおすとけっこうむずかしいんだ。どう訳したか? 読んでみてください」とこの本では、以下の原文を記すのみ。

If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.




吉田悦志★阿久悠 詞と人生   ☆気になるフレーズ=平成引用句辞典☆

20170519

2017.05.19阿久悠詞と人生



 なかにし礼は『歌謡曲から「昭和」を読む』にこう書いた。「歌謡曲の詩は日本文学の一ジャンルであるということを十分に意識しながら歌づくりに取り組んでいた作家は、おそらく世代的にも私や阿久悠あたりが最後だろう」と。

 なかにし礼は作詞作品を文学作品だといっている。しかし、一方の阿久悠は、作詞作品を商品だと考えていた。
 阿久悠自身は、『作詞入門 阿久式ヒット・ソングの技法』で、こう書いている。

 詞は文学ではない
 歌は、レコードという音を通して相手に伝えるものだということを忘れている人が多いのではないか。


詞は、文字で伝える詩とは決定的に違うのである。〔…〕

 阿久悠にとって「詩」と「詞」は明確に区別すべきものであり、本質的に異なる表現事象なのである。この引用部分の直前に「詞」は「商品」なのだといい、商品である以上何か相手の興味を引くものでなくてはならないとも書いている。


★阿久悠 詞と人生|吉田悦志|明治大学出版会|2017年3月|ISBN:9784906811205 |△

 阿久悠(1937~2007)は、明治大学出身。死後、遺族から、自筆原稿をはじめ約1万点の資料が同大学に寄贈され、2011年10月、阿久悠記念館が開設された。そのなかに27冊、のべ1万ページにおよぶ日記があり、その日記を読み解く研究会が1年半かけて開催されたという。

 本書の著者・吉田悦志国際日本学部教授をはじめ、井上一夫(元岩波書店)、冨澤成實(政治経済学部教授)、深田太郎(阿久悠氏子息)、三田完(作家)、村松玄太(明治大学史資料センター)の5人。その一部は三田完『不機嫌な作詞家――阿久悠日記を読む』にまとめられている。

 本書は、日記からの直接引用はなく、 阿久悠の著書『生きっぱなしの記』『愛すべき名歌たち――私的歌謡曲史』『無冠の父』などを元に 阿久悠論を展開する。とりわけ「小説『無冠の父』論」が秀逸。 

 『無冠の父』は死後の2011年に刊行されたもので、巻末に「本書刊行の経緯」が掲載されており、
「完成稿が編集者に渡されたが、改稿を求めた編集者に対して阿久悠は原稿を戻させ、以後、2007年8月に没するまでこの作品についていっさい語ることはなかった」とある。

 「父は24時間巡査で、風呂へ入っている時も制帽をかぶっているのではないか、と思えるほどであった」(『愛すべき名歌たち』)という父をモデルにした“自伝的小説”である。当方も一読、この傑作がなぜ埋もれていたのかといぶかった。

 1993年に執筆されたが、出版社の担当者から手直しを命ぜられ、原稿を手元に戻した。本書で深田太郎氏が語る。「僕の予想ですけど、おそらく出版社が原稿を手元に戻した時点で、自分の没後に開けられるというシナリオを自分でつくったのだろうな」と。そして著者は書く。

――「編集者の忠告を入れて改稿するなど、阿久悠のこの小説への矜持が許さなかった。『無冠の父』
は、阿久悠という人間の存在自体を問い訊ね思考した挙げ句に成立した作品である。だから、死後に発見されるという遠大なトリックをしかけたとしても不思議ではない。
(本書)

――丸ごとわが人生を見通した時、阿久悠は己の中にある父・深田友義という原点に思い至らざるを得なかった。その原点をこそ描くというのが、小説『無冠の父』の主題であった。だとすれば、一編集者から、改稿を求められたからといって、おいそれとは応じられるはずがない。それ故に、無傷の『無冠の父』という名作が、初稿のまま私どもの前に遺された。阿久悠にとっては不運ではあっても、私たちにとっては僥倖であった。(本書)

 同時代のなかなし礼と 阿久悠について当方は、先に三田完『不機嫌な作詞家――阿久悠日記を読む』のなかで言及した。付け加えることはない。

三田完★不機嫌な作詞家――阿久悠日記を読む |
阿久悠▼無冠の父
阿久悠■生きっぱなしの記





小谷野敦★芥川賞の偏差値

20170424

芥川賞の偏差値



文学が衰退している、と人はよく言うが、

それはつまり、19世紀に盛んになった「小説」というものが、終わりつつめる、ということであって、たとえばクラシックの作曲家に、いまブラームスやチャイコフスキーがいないからといって、「音楽の衰退」とは言わない、それと同じことであり、ゴッホやルノワールがいないからといって「美術の衰退」とは言わない。

 たとえば『源氏物語』のあと、それに匹敵する作品が書かれない時代が何百年も続いたわけで、

今はそういう時代に該当するのだ。


 ないし、19世紀小説によって開発された技術は、映画やドラマ、漫画などに引き継がれているのだ。


★芥川賞の偏差値 |小谷野敦|二見書房|2017年3月|ISBN:9784576170299 |○

著者肩書に文筆業とあるが、たしかにおびただしい著作がある。そして文筆業者らしくサービス精神がまことに旺盛である。
 
 まず18ページにも及ぶ長い「まえがき」で芥川賞“小史”を記述し、芥川賞には名前の最初に「佐」と「島」がつく者は受賞できないというジンクスある、とまで教えてくれる。佐伯一麦、佐川光晴、佐江衆一、佐藤泰志、佐藤洋二郎、島田雅彦、島本理生、島尾敏雄、島村利正と、佐か島がついて受賞した人はいない、と。
 受賞作全作品を辛辣に寸評し、すべての作家のゴシップ付き。「受賞作なし」の回もかならず言及し、さらに芥川賞ではないが、昭和10年以降の名作も偏差値付きでリストアップする。

 さて、当方が一時期好きだった作家に対して、たとえば……。

開高健「裸の王様」
――初期の「パニック」「裸の王様」「巨人と玩具」などを見ても、下手な作家だなあと思うだけである。

大江健三郎「飼育」
――せいぜいが戦後最大の作家だったが、伊丹十三を描いた『取り替え子』からあと、その達成は谷崎や川端、漱石を超えるにいたった。

丸山健二「夏の流れ」
――取材して書いたものらしい。それが私には気に入らない。作りごとなら、作りごとなりの面白がらせる工夫が要るだろう。それがここにはない。

清岡卓行「アカシャの大連」
――これは散文ではない。散文詩である。

丸谷才一「年の残り」
――長編作家ゆえに芥川賞をとらずじまいになってもおかしくなかったが、意図して短編を書いて受賞した。

吉田修一「パーク・ライフ」
――これなどはスターバックスの宣伝のための小説のようで面白くも何ともない。

 第1回から第156回までの全164作のうち、偏差値最低25は楊逸「時が潜む朝」で「単なる日中友好のための受賞としか思えない」と書かれ、偏差値最高72の村田沙耶香「コンビニ人間」は「あまりに面白いので手あたり次第に村田の本を読んだ」と書かれている。

 ところで小谷野敦自身は二度芥川候補になっている。「母子寮前」(第144回)と「ヌエのいた家」(第152回)である。芥川賞をとる秘訣はまず第一に「退屈であること」だと書いているので、自身の作品は面白すぎたのだろう。

 そして自身の候補作が選ばれなかったときの受賞作、朝吹真理子「きことわ」、西村賢太「苦役列車」、小野正嗣「九年前の祈り」を著者はどう評価しているか。

 また自身が落選時、その選考委員であった池澤夏樹、石原慎太郎、小川洋子、川上弘美、高樹のぶ子、宮本輝、村上龍、堀江敏幸たちの作品がどう評価されているかは、本書の読者のお楽しみである。

小谷野敦▼文学賞の光と影
小谷野敦●現代文学論争


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