高田賢三◆夢の回想録――高田賢三自伝…………☆パリの“夢”のなかに生きたファッション・デザイナーの自画像

20180219

2018.02.19夢の回想録


 夜の社交界を知らなければ、パリのモード界の実像は永遠に理解できないだろう。

 オペラ座近くのサンタンヌ通りに「セット」という伝説的なディスコがあった。三人〔イブ・サンローラン、カール・ラガーフエルド、高田賢三〕はここの常連だった。 〔…〕

 服飾関係者のほか、名だたる芸術家、芸能人らがたむろしていた。ミック・ジャガー、シルビー・バルタン、アンディ・ウォーホル、フランシス・ベーコンもよく出入りしていた。パリのカウンターカルチャー、ゲイカルチャーの拠点でもあった。

 〔…〕「セット」は業界の最新情報を収集するためのサロンになっていた。シャンパンやワインで華やかに乾杯し、気の合う仲間と朝まで踊り明かす。ここで人脈が広がり、新しいビジネスが生まれ、そして、すてきな恋も芽生える。


◆夢の回想録――高田賢三自伝 |高田賢三|2017年12月|日本経済新聞出版社|ISBN: 9784532176297|○

 高田賢三は、1939年姫路市の城北に位置する梅ケ枝町の生まれ。姫路城での野外のファッション・ショーは地元での語り草になっている。

 当方が日頃ぶらりと出かけるのは、東は神戸、西は姫路だ。姫路はいま外国人観光客で賑わっているが、カラフルで華やかな神戸とは好対照で、地元の若い女性のファッションはケンゾーのイメージにほど遠く地味である。いやシックというべきだろう。

 上掲は、パリのディスコだが、ケンゾーはニューヨークのディスコへも出入りした。マンハッタン西54丁目にある伝説的ディスコ「スタジオ54」。ここで銀髪のかつら、蝶ネクタイを締めたアンディ・ウォーホルが“夜の帝王”として君臨していた。

 ウディ・アレン、ダイアナ・ロス、トルーマン・カポーティ、サルバドール・ダリ、ライザ・ミネリ、ジョン・トラボルタ、マイケル・ジャクソンら各界の人気スターらでにぎわっていた。ここでケンゾーは1977年にファッションショーを開催する。またウォーホルには肖像画を描いてもらうことになり、彼のスタジオ「ファクトリー」で写真を撮ってもらったが、急逝したため実現しなかったという。

 パリやニューヨークの夜の社交界を紹介したが、それは当方が1920年代のパリを想起したからである。20年代時代の画家たちはモンパルナスにあふれ、70年代のデザイナーたちはセーヌ川左岸を基地とした。

 藤田嗣治はモンパルナスに住み、隣りの部屋のアメデオ・モディリアーニと知りあい、後のエコール・ド・パリの面々、ジュール・パスキン、モイズ・キスリング、シャイム・スーティン、マルク・シャガール、パブロ・ピカソなど他国出身の画家たち、パリ生まれのモーリス・ユトリロらと交友をむすぶ。モンパルナスの「蜂の巣」が活動拠点の一つだった。

 さて、そして……。
 
 ――創造を続けるデザイナーには、それ理解し、共感し、励ますパートナーの存在が絶対に欠かせない。仕事でも私生活でも互いに寄り添い、固い絆で結ばれた人生の伴侶が必要になる。
 当然のことながら、相手は異性のこともあれば、同性のこともある。
 多くの教養や財力をもち、人間として尊敬できる相手でなければとてもその関係は成立しないだろう。イブにはベルジエ、カールにはジャック、そして私にはグザビエというそれぞれ男性パートナーがいた。
 日本人にはまだまだ理解しにくい世界かもしれないが、パリでは決して珍しいことではない。
それがモードの発信力にもなっていた。
(本書)

 「木綿の詩人」ケンゾーは、1970年、英国ビクトリア時代の水着や子どもの制服に着想を得たマリンルックを皮切りに、76年まで毎年新しい作風を展開する。
 80年代には、組織の株式会社化、メンズ部門、ジーンズ部門、子供服部門、香水部門などを拡充し、さらに「ケンゾー」ブランドのライセンス事業も行う。また、ニューヨーク・ロンドン・ミラノ・コペンハーゲンなどに店舗を設ける。

 ケンゾー自ら、「私の黄金期」は70年代から80年代の前半くらいまで、と語っている。世界のファッション・ジャーナリストたちの人気投票によると、テニス・ルックを発表した72年秋に首位、83年くらいまでは上位3以内にいることが多かった。だが、80年代後半になると「ケンゾーは商業主義に走りすぎているのではないか」とジャーナリストから批判され、一気に下落する。このころから、日本人勢では三宅一生、山本耀司、川久保玲らの人気が急上昇する。デザイナーの賞味期限は10年という定説があるそうだ。

 2017年の誕生日で78歳になり、大病からの回復を機に、仕事から私生活にいたるまでの半生を包み隠さずに回想してみようと思い立つ。
 
 ――私生活、人間模様、恋愛事情……。いまだからこそ語れる意外な秘話の数々に興味を持たれる読者もいるに違いない。特に仏LVMHモエヘネシー・ルイヴィトンによる買収劇や「ケンゾー」からの引退の舞台裏についてはずっと沈黙を守ってきた。その真相についても初めて明かそうと考えている。 (本書)

 ケンゾー・タカタ。パリの“夢”のなかに生きたファッション・デザイナーの自伝である。同時に、ファッション史の貴重な証言である。






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発掘本・再会本100選★9・11の標的をつくった男――天才と差別-建築家ミノル・ヤマサキの生涯 |飯塚真紀子

20171031

20171031-9.11の標的をつくった男


世界各国が貿易を通して友好関係を築き、平和な世界を創り出す。差別を体験したミノルはそんな希望も持っていただろうし、それがWTCの本来の目的であった。

 しかし同時に、美しいものを作りたいという建築家としての強いエゴも、ミノルの中には必ずあったはずだ。〔…〕

 アメリカ資本主義を体現したWTC[世界貿易センタービル]が、イスラム建築風であったことは、

反米的イスラム原理主義者たちにとっては、受け入れ難いことだっただろう。


 オサマをはじめWTCの存在を苦い思いで見ていた人々がいたとしても不思議ではないだろう。


★9・11の標的をつくった男――天才と差別-建築家ミノル・ヤマサキの生涯 |飯塚真紀子 |講談社|2010年8月|ISBN: 9784062134118|○

  9・11で崩壊した世界貿易センタービル(WTC)を創った日系人建築家ミノル・ヤマサキの評伝である。忘れ去られようとしていた建築家は、9・11によって皮肉にも蘇った。ミノル・ヤマサキは、シアトルへ移民として渡った山崎常次郎・ハナの長男として1912年に生まれた日系2世である。

 シアトルのスラム街で差別と偏見のなかで育ち、戦時中にはニューヨークで日系人の強制収容に反対する人権保護活動をイサム・ノグチたちと行う。WTC設計にあたっても「なぜ、日本人建築家を雇わなくてはならないんだ」との偏見もあった。

 そのWTCの設計は、並み居る建築家を差し置いてなぜ中堅のミノルが受注できたのか、ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社(本書ではニューヨーク港湾局と表記)との設計完成までの、たとえば窓幅を狭くし柱の本数を多くするデザインをめぐるやりとりなど、WTC建設めぐる攻防はまことに興味深い。だが本書のハイライトでもあるので、ここでは記さない。

 1966年に始まった建設工事は、1973年に完成した。そして2001年9月11日、民間航空機2機をハイジャックしたイスラム系テロ組織アルカイダによってツインタワーは自爆攻撃を受け、約2800人の人命とともに消滅した。

 建築家の上西昇が語る。
「WTCは外に向けて爆発するのではなく、内に向けておじぎをするように崩れて行きました。それは不幸中の幸いでした。もし横に倒れていたとしたら、もっと大きな被害が出たでしょう。自滅して行くようなWTCの崩れ方を見ていたら、とても泣けて来ました」(本書)

 ところで神戸の東遊園地は、1.17の鎮魂の場である。その南に34階建ての高層マンションがあるが、かつてそこは神戸アメリカ領事館があった。1957年にできた東西に長い2階建ての領事館は、直線的でかつ優美さを感じさせる建物だった。この設計がミノル・ヤマサキである(日本建築学会賞受賞)。賑やかな周辺に比べ、この一角は静かだった。

 余談だが、東遊園地をはさんだ北側には同じ年に8階建ての神戸市役所ができた(1995.1.17で5階部分が壊滅)。丹下健三設計の旧東京都庁に似た建物で、当方は長い間、丹下が設計したものと勘違いしていたが、これは日建設計によるもので、優雅な巨船のようだった。

 さて、神戸領事館は、本書によれば、当時建設現場では米軍がジープで夜回りしていたが、浮浪者たちが鉄骨、真鍮など金になりそうな工事材料を盗んで行った、という時代だった。だがミノルは、夜はナイトクラブで踊りキャバレーで遊び、その翌日には女性たちが建設現場のミノルを訪ねて来たという。

 ミノルは四度結婚している。同じ日系二世のピアニスト平敷照子。つぎに「一度白人と結婚してみたかった」という理由から入院先で知り合ったペキー。料亭仲居のアツコ(すぐ離婚)。そして再度、照子と。

 生涯に250もの建物をつくったミノルだが、本人がもっとも愛していたのは滋賀県の山中にある神慈秀明会の教祖殿だという。〝カテナリー曲線〞という両端を持った一本の糸を上から垂らした時、張力だけで自然に成立する放物線状の曲線。屋根だけ吊るされたような建物だという。MIHOミュージアム(ミノルの設計ではないが建物もしだれ桜の導入道路もすばらしい)へ行ったとき、ついでに教祖殿をと思ったが徒歩で行ける距離ではなかった。

 ところでWTCに話を戻すが、ミノル設計のサウジの空港の絵がサウジの紙幣に印刷されているほど、ミノルはサウジの王室、政府と縁が深い。そこでWTCの噴水広場やツインタワーの配置が、アルハンブラ宮殿から発想されたとか、また、WTCのボトム部分のアーチがイスラム建築を彿彿させるとの説がある。9.11後に“後付け”されたものなのか。

ミノル・ヤマサキは1986年、73歳で死去。2001年WTC消滅を目にすることはなかった。

中原一歩★私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝 …………☆家庭料理のおいしさは、リピートなんです。

20170707

2017.07.07小林カツ代伝


 カツ代は生前、こんな言葉を残している。

「お金を払って食べるプロの料理は、最初の一口目から飛び切りおいしくなくてはならない。一方、家庭料理は違う。

家族全員で食事を終えたとき、ああ、おいしかった。この献立、今度はいつ食べられるかなって、家族に思ってもらえる必要がある。

 家庭料理のおいしさは、リピートなんです」

 何度も何度も家族にリクエストされて、そのレシピは、その家の味となって家族の舌に記憶されるというわけだ。



★私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝|中原一歩|文藝春秋|2017年l月|ISBN: 9784163903965 |○

 料理研究家小林カツ代(1937~ 2014)の評伝である。家庭料理の世界では、“カツ代前、カツ代後”という言葉があってもおかしくないほどの存在だったという。①おいしくて、早くて、安い、②特別な材料は使わない、③食卓にはユーモアがないといけない、の3つが小林カツ代の家庭料理。

プロの料理と家庭料理の違いを、カツ代は天ぷらを例に説明する。

 ――「家庭料理の場合、作り手も食べ手であるということです。だから、台所に立つ作り手も、食卓を囲む家族の一員として、熱々の揚げたての天ぷらを一緒に食べるにはどうすればよいかを考えなくてはならない」(本書)

 カツ代が考えたのは「少量の油で一気に揚げる」こと。これは「たっぷりの油で、少しずつ揚げる」という従来の常識とは逆。少ない湯でもみんながワーッと入ると水位は上がる、という“銭湯の理屈”。

 大阪の毎日放送(MBS)の「奥さん!二時です」へ「番組の中で料理を楽しく作ったらどうですか?」と投稿し、「じゃああなたがやってみませんか」と女性ディレクターに言われたのを契機に、のちのカリスマ料理研究家が誕生する。

 2005年6月、NHK「課外授業 ようこそ先輩」。大阪・堺市にある母校の小学校で「いのちを頂くつて何?」をテーマに授業をする準備をカツ代は進めていた。
 だが、堺市では1996年夏に学校給食から腸管出血性大腸菌O-157によって児童など約9000人が感染し、小学生3人が死亡する食中毒事件が発生したことがある。

 それがトラウマとなり、市も学校も多くの条件を付す。魚や肉を食材に使わないこと。「そうなると使えるのは野菜しかありません」。児童は手袋をつけること。「なんで野菜を素手で扱うことができないんですか。それでは実習の意味がない」

 このあとカツ代は「あこちゃん、頭が割れるように痛いの……」と内弟子・本田明子に告げ、倒れる。くも膜下出血。カツ代の授業が行われず、記録に残らなかったのはかえすがえすも残念。以後9年間という長い闘病生活の上、76歳で死去。

 著者は「創造と葛藤に満ちたカツ代さんの人生は、世代を超えて多くの人を勇気づける」と執筆の動機を語り、私生活の負の面や辛い闘病生活にはあまり触れず、“明るいカツ代伝”を貫いた。

「私が死んでもレシピは残る」

 たしかに厚さ4センチ『小林カツ代料理の辞典―おいしい家庭料理のつくり方2448レシピ』(2002)、過去の著書から復刻した代表作や初掲載レシピも合わせた『小林カツ代の永久不滅レシピ101―残したい、伝えたい、簡単おいしいレシピ決定版!』(2016)など、カツ代のレシピは今も売れ続けている。

(当方、ただいま原因不明の味覚障害に悩んでおり、文字だけで本書のレシピを味わうのも苦痛だった)



二宮敦人★最後の秘境 東京藝大――天才たちのカオスな日常

20170411

2017.04.11最後の秘境東京芸大



「何年かに一人、天才が出ればいい。他の人はその天才の礎。ここはそういう大学なんです」
入学時、柳津さんは学長にそう言われたという。

「ある意味、就職してる時点で落伍者、といった見方もあるのよ。就職するしかなかった、ということだからね。あいつは芸術を諦めた、みたいな……」
〔…〕

多くの藝大生が目指すのは、やはり作家だ。作品を売って食べていける画家、工芸家、彫刻家、作曲家。あるいは、演奏で食べていける演奏者、指揮者……。

 しかし、そんな存在はほんの一握り。
 何人もの人間がそこを目指し、何年かに一人の作家を生み出して、残りはフリーターになってしまう。それが当たり前の世界だという。


★最後の秘境 東京藝大――天才たちのカオスな日常|二宮敦人|新潮社|2016年9月|ISBN: 9784103502913 |△

 著者の妻が東京藝大生。その“奇行”に興味がでて、藝大生へのインタビューを集めた藝大“探検記”。

 東京藝大は、美術学部(美校)と音楽学部(音校)とがあり、1学年であわせ約500名の学生がいる。
 音校は、親が音楽漬けの人が多く、また金のかかる学部。教授と学生は、師匠と弟子の関係。
美校での教授は、アーティストであり指導者ではない。学生と互いに切磋琢磨する仲間のような関係。

 ピアノやヴァイオリンを小さい頃から始めるのは、早期から音感を高めるためだと思っていたが、違うようだ。卒業生の一人が言う。
「体が作られる時期に練習をすることで、楽器に適した体に成長するの。その時期を逃して後から始めると、もうそれだけで差がついちゃう」

 ――「ヴァイオリン奏者って、骨格が歪んでいるんです。ヴァイオリンは顎に当てて、こうして弾きますよね。すると顔の左右が対称でなくなったり、下側の歯並びが悪くなったり、足や腰の左右のバランスが変わっていったりするんです。そうしてヴァイオリンを体の一部にしていく」

 楽器を体に合わせるというよりは、体を楽器に合わせている。奏者はまるで、楽器を持って初めて「完全体」になる生き物のようだ。
「そうして、ようやく思い通りの演奏ができるようになるんです」(本書)

 平成27年度卒業生486名の進路状況。
 数字が合わないが、就職した人 48名。進学した人 168名。進路未定・その他 225名。大学院に進学する学生が多いが、約半数は“行方不明”だ。
 
こうして天才たちは“自分の道を突き詰める”カオスな日常をおくる。

 

大崎善生:編★棋士という人生――傑作将棋アンソロジー

20170115

2017.01.15棋士という人生



 酒と女、ばくちが彼を駄目にした、といわれた。
一部始終を見ていたわけでもない私にはなんともいえないけれど、他のことならいざしらず、勝負師が、自分を駄目にするほど他のことに没入するわけがない。呑む打つ買う、荒れれば荒れるほど、内心が冴えてきて、空虚なものだったろうと思う。

 将棋を知らない私が、強引に断言するが、また故人に対して失礼千万な記述だが、芹さんが低迷したのは、酒色のせいではない。

 彼の将棋が、どこかひとつ、列強を勝ちしのいでいけないものがあったからだ。彼を酒色に耽らしめたのは、その点に気づきはじめた内心だ。


どこが劣っていたのか、私にはわからない。ひと口に、強い弱いといっても、このクラスは天才同士の戦いで、総力戦である。将棋の実力は紙一重、自分のすべてを投入して戦うのだ。体力、人格、気質、運、その他あらゆるもの。どこかが弱ければそこを突かれる。

 ――色川武大「男の花道」



★棋士という人生――傑作将棋アンソロジー|大崎善生:編|新潮社|2016年10月|ISBN: 9784101265742|○

 当方、職場の仲間と麻雀に没頭したことはあるが、友人に手ほどきを受けた碁はものにならず、将棋は小学生のころルールを覚えた切りである。だが、山口瞳、団鬼六、本書の編者などの将棋についてのエッセイは大好物である。

 本書は、棋士、将棋記者、作家24人による将棋エッセイの名品を集めた新潮文庫オリジナルのアンソロジーである。さまざまな棋士が描かれているが、なかに芹澤博文自らの「忘れ得ぬひと、思い出のひと」、師・高柳敏夫の「愛弟子・芹澤博文の死」、作家・色川武大の「男の花道」と、“名人になれなかった天才”芹澤博文についての3篇が収録されている。

 色川武大は上掲に続けてこう書いている。

 ――そうして、芹さんが手をとって教えた弟分、中原、米長が、後から躍進してきた。
 もう十数年前のことだが、その年のB1の最終戦で、大野-米長戦、芹澤-中原戦が東京と大阪で同時進行という日があった。
 大野八段が勝つと無条件でA級復帰。大野八段が負けると、芹澤-中原の勝者がA級入り、という形だった。
 大野-米長戦は、米長の逆転勝ち。
 先に終った一戦の結果は誰も知らせないが、観戦者が急に増えたりするから気配でわかる。芹さんは終始優勢に進めながら、終盤でポカをやったらしい。〔…〕
 その一戦でA級入りした中原が、すごい勢いで名人位まで昇りつめる。(本書)


 師・高柳敏夫はこう書いている。

 ――芹澤が「もう将棋は済んでしまった」と諦めたのは、やはり中原との一戦があってのことでしょう。
 昭和44年。中原と芹澤、勝った方がAクラスに入れるという順位戦があった。これに勝てば芹澤はAクラスにカムバックできるわけです。
 最初は芹澤が優勢でした。しかし、芹澤は苦悶する中原の顔が見ていられない。そういう過敏な神経がありました。残り十分というところで棋勢がもつれてきた。芹澤が金捨ての鬼手を放った。しかし狙いの鬼手は飛打ちに桂の合駒が利いて成立しなかったんです。結局、芹澤は負けた。(本書)

 ――しかし私には、この将棋を指す前から、芹澤には中原に勝つ気がないんじゃないか、という予感があった。というのは、中原を叩きつけて自分が上がっていくということは、芹澤の性格からできないんですよ。(本書)

“伝説の人”芹澤博文(1936~1987)が死して30年、本格的評伝が書かれるのを期待している。

大崎善生□赦す人




03芸というもの│T版 2016年1月~3月★矢野誠一★長谷川康夫★大下英治★野坂昭如★土方明司・江尻潔・木本文平:監修★桂千穂

20160404

03芸というもの
★矢野誠一│小幡欣治の歳月

菊田一夫亡きあとの商業演劇作家のトップとして君臨していた小幡欣治が、戯曲『熊楠の家』の筆を執ったのは、劇作家としてのおのが原点である新劇への回帰の念からであったのは間違いない。

★矢野誠一│小幡欣治の歳月〇2014.12


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「日本で芝居を書くだけでめしの喰えるのは、小幡欣治ただひとり」(阿木翁助)といわれたが、東宝を離れ『熊楠の家』以降8本の戯曲はすべて劇団民芸のために書く。
矢野誠一『小幡欣治の歳月』は、7歳上の畏敬する小幡との53年に及ぶ交遊を描く。
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★長谷川康夫│つかこうへい正伝1968-1982

 傍若無人で小心で、残酷なくせに心優しく、とことん楽観的だと思ったら、死ぬほど悲観的になる……世の中の人間すべてをバカと呼び、稽古場で芝居が気に入らなければ、役者を一日罵倒し続け、取材が入れば、どの役者よりも目立とうとする……。

 僕らはもう40年、会えばいつだってそんなつかさんの話になる。


★長谷川康夫│つかこうへい正伝1968-1982〇2015.11


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 『つかこうへい正伝』は、「蒲田行進曲」の銀ちゃん、ヤスさながらに70年代を駆け抜けたつかこうへい(1948~2010)と三浦洋一、平田満、風間杜夫、加藤健一、根岸季衣たちの小劇団的青春を描く。
 つかの虚実ないまぜの創作の秘密も。ちなみにヤスは著者長谷川康夫のヤスから。




★大下英治│映画女優 吉永小百合

その清潔な印象こそが彼女を縛りつけている。彼女は彼女で、そこから抜け出ようともがいているにちがいない。汚れが滲まない女優なのである。

「清潔感」。それこそ、吉永のもって生まれた宿命ともいえる。


★大下英治│映画女優 吉永小百合△2015.12


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 自分がいかに変われるかということをいつも求めているのではないか。それゆえ、一緒に仕事をするひとが、「吉永小百合」というイメージにとらわれすぎて、「壊してはいけない」と思うことは、吉永にとって一番の悲しみではないだろうか。(本書)
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 大下英治『映画女優 吉永小百合』は、自身、監督、共演者による吉永のエピソード集。1959年デビューし、119本の映画。こんなに長続きしている女優はいない。
 だが「キューポラのある町」1962、ドラマ「夢千代日記」1981以外に代表作といえるものがない。もっとも当方は、浜田光夫とコンビの青春映画で十分だったが。




★野坂昭如│マスコミ漂流記

 たしかに、芸能マネージャー、ラジオコント作家、CMソング作詞家、TV番組構成者、週刊誌コラムニスト、ルポライターを漂い流れ、ぼくは小説家という一本杭に、どうにかひっかかったのだ。
 もう、これ以上先きはないと、逆に心細い気特が強かった。


★野坂昭如│マスコミ漂流記│〇2015.10


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 何時も、現状をあきたらなく思う時、あるいは先き行きの不安にさいなまれる時、身を転じ、ことなる流れにとび込むことが、これまではできたのだが、小説家の先きはもうない。いや、これをこそ目標にして来たのだから、この枠の中でじたばたしつづけろのが、当然なのだ。今後は、外界を漂い流れることをやめ、自分の内部をさすらい歩かなければならない、それは、一寸先きは闇のような、空怖ろしい感じだった。(本書)
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 野坂昭如『マスコミ漂流記』は1972~73年の作。単行本未収録作品を書籍化する幻戯書房銀河叢書の2015年刊。
 コント、作詞、司会など何をやってもつねに数歩前に永六輔がいて、小説を書き始めたら五木寛之が前にいた。
 野坂27歳からの漂流というより暴走の12年間を回顧したもの。
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★画家の詩、詩人の絵

窪島誠一郎 「画魂」も「詩魂」は一体化した双子みたいなものでどちらがお姉さんかわからない。
酒井忠康 僕は判定したいね、詩の方が上、絵が下だよ。
窪島 自分は立場的には画家が上といいたいけど同感です。詩魂から絵が生まれる。
酒井 湖に石を投げるようなテーマだね。
窪島 混沌ここに極まれり。


★土方明司・江尻潔・木本文平:監修│画家の詩、詩人の絵――絵は詩のごとく、詩は絵のごとく│〇2015.10


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 巡回中の「画家の詩、詩人の絵」展を姫路市美術館でみた。64人の画家、詩人の絵と詩がメリハリなく並ぶ展示手法にいまいち気持ちが弾まない。
 西脇順三郎の難解な詩と淡白な絵、尾形亀之助の暗い詩と色彩豊かな絵の乖離には驚いた。
 図録を兼ねた本書が展覧会より勝っていることは、絵より詩の勝利か。
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★桂千穂│新東宝は“映画の宝庫”だった

だが、何といっても大蔵新東宝不朽の傑作は『東海道四谷怪談』(中川信夫)であり、初期の『野良犬』(黒澤明)中期の『西鶴一代女』(溝口健二)と並ぶ、戦後日本映画史上に燦然と輝くベスト3といえる。

★桂千穂│新東宝は“映画の宝庫”だった│○2015.03


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「大蔵社長はワンマンぶりと前近代的経営法と、企画のゆきづまりから、60年に退陣し、新東宝は翌61年瓦解したのだが、この『東海道四谷怪談』一本をプロデュースしただけでも、私にいわせれば、日本最高の製作者のひとりである」(桂千穂)
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『新東宝は“映画の宝庫”だった』は、桂千穂が超私的に語る新東宝映画大全である。1947~1961年の716本の全作品リストは貴重。だが映画本なのに映画の華やかなスチール写真がない。誰も口を挟ませないワンマンショー的1冊。








発掘本・再会本100選★川島雄三、サヨナラだけが人生だ│藤本義一

20160130

2016.01.30川島雄三サヨナラ


小沢 川島雄三という人に対しては、関わったみんながみんな、自分だけが川島雄三の理解者だと思っているところが、おもしろいですね。

藤本 そうなんです。

小沢 百人が百人、みんなが俺だけが川島雄三のほんとうの姿を知っているんだというふうに、思わせていたふしがある。

それはそれで、その姿は百通りなんです。


そういうふうに思わせていたということ自体、大した人だと思うんですけど。それは監督、ホンヤさん、製作者を含めたすべての人に対してそうなんです。〔…〕

藤本 それは、「生きいそぎの記」が直木賞候補になったとき、選者の評に出てきました。水上勉さんと松本清張さんが、私の知っている川島雄三ではない、といっていたな。

小沢 それだけに、川島雄三という人間に対する評価はみんな当たっていないんじゃないか、という気もしてくるんです。

――対談 小沢昭一 藤本義一


■川島雄三、サヨナラだけが人生だ│藤本義一│河出書房新社│ISBN:9784309264530│2001年01月│評価=○
*
 先に『鬼の詩/生きいそぎの記――藤本義一傑作選』の川島雄三を描いた「生きいそぎの記」を読み、もっとこの映画監督を知りたくなり、本書を手にした。

 川島監督に関するエッセイ、小説「生きいそぎの記」、長都日出雄、殿山泰司、小沢昭一との対談、シナリオ「貸間あり」など、川島ワールド満載。

 川島は畏敬する織田作之助の原作・脚本による『還って来た男』(1944)を第1作として、第50作『イチかバチか』(1963)が遺作。当方が見たのは(といってもBSなどでだが)『とんかつ大将』(1952)、『洲崎パラダイス・赤信号』(1956)、『暮末太陽伝』(1957)、『青べか物語』(1962)の4本。

 残念ながら本書に脚本が収録されている『貸間あり』(1959)は見ていない。この作品は原作者の井伏鱒二が試写を見て激怒したといういわくつきのもの。本書で藤本はインタビューに答えている。

――井伏さんの場合には、「花ニ嵐ノタトエモアルゾ」という、つまり、この人は、もう于武陵を強姦したわけです。すでに、于武陵を強姦したんだったら、井伏鱒二を強姦しても良いんじゃないか、という考えとチャウかな、師匠は。

 これは、于武陵の詩「勧酒」にある
  花発多風雨
  人生足別離
 を井伏鱒二は、
  ハナニアラシノタトへモアルゾ
  「サヨナラ」ダケガ人生ダ
 と意訳したことを指している。

 この大胆な訳をした井伏なら、「人間性そのものが、軸にあるのが全部欲望じゃないか。その欲望というものは、決して悲劇というものに結びつかない。全部喜劇性を帯びている、という発想法」(藤本)が許されると川島は考えたというのだ。

 ところで上掲の小沢昭一との対談は、こう結ばれている。

小沢 しかし、川島さんのことを一口で何と表現したらいいんでしょうかね。非常にむつかしい。まあ、普通、「鬼才」という言い方をするんでしょうけれど。
藤本 「稀才」という感じですか。

*
発掘本・再会本100選★鬼の詩/生きいそぎの記│藤本義一








03芸というもの│T版 2015年12月

20151231

03芸というもの
★篠田桃紅『一〇三歳になってわかったこと――人生は一人でも面白い』

「私はいつ死んでもいい」と言う人がいます。それは言っているだけで、人生やるべきことはやった、と自分で思いたいのです。
自分自身を納得させたくて、「いつ死んでもいい」と言うのです。

★篠田桃紅『一〇三歳になってわかったこと――人生は一人でも面白い』△2015


篠田桃紅『一〇三歳になってわかったこと――人生は一人でも面白い』。1913年生まれ。102歳のドキュメンタリーを見たが、凛とか冽とかいう一文字の印象だった。川という字にはタテ三本の線を引く、しかし川を無数の線で、あるいは長い一本の線で表したい、と水墨の抽象画というジャンルを確立。この本も売れに売れているらしい。


03芸というもの│T版 2015年9月~11月

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03芸というもの

★荒井修『浅草の勘三郎――夢は叶う、平成中村座の軌跡』

「お客を喜ばせることにあんなに努力を惜しまない役者は、勘三郎のほか二度と出ないんだよ。
あんまり俺を悲しませるなよ」
★荒井修『浅草の勘三郎――夢は叶う、平成中村座の軌跡』◎2015


勘三郎の夢やアイデアを実現すべく浅草公会堂での歌舞伎公演や隅田公園内の平成中村座の設営に著者は奔走する。
 荒井修『浅草の勘三郎』は、浅草育ちで歌舞伎好きの扇職人と浅草をこよなく愛する歌舞伎役者との友情物語。
 上掲は『め組の喧嘩』上演に弱気だった勘三郎への著者の直談判の一言。




★中山千夏『芸能人の帽子――アナログTV時代のタレントと芸能記事』

とにかく、ひとびとは、よく知る芸能人を思わぬ場所で見かけると、
幸運のザシキワラシに出会ったような、はたまたお気に入りのオモチャを見つけた子どものような、喜ばしさを感じる。


★中山千夏『芸能人の帽子――アナログTV時代のタレントと芸能記事』◎2014


 もっとも戻りたくないのはテレビ芸能人時代と中山千夏。
 しかし今でも近くの商店街で好意的に声をかけられる。『芸能人の帽子――アナログTV時代のタレントと芸能記事』は70年代の自分が週刊誌に書かれたあること無いことを、今の自分が検証をする。
 すなわち“ひとりオーラルヒストリー”である。メディア論として楽しませてくれる。




★半藤一利『老骨の悠々閑々』

ココアの歌、コーヒーの歌、紅茶の歌を知れるや、と問わる。
残念ながら知らず。

相手はハハハと笑いながら、「ここはお国を何百里……、この軍歌、すなわちココアの歌なり」ムムムと目を剥くよりも先に、「コーヒー(恋)はやさし野辺の花よ……」


★半藤一利『老骨の悠々閑々』△2015


 コーヒーはオペレッタ「ボッカチオ」、紅茶は「お江戸日本橋」、コチャエ、コチャエの囃子詞。
 歴史探偵いつも小さな雑記帳をポケットに。耳よりの話があるとメモ。これはその一つ。『老骨の悠々閑々』の著者も齢85。読者の退屈の虫を駆除するに役立つだろうと、未収録エッセイ、趣味の木版画、スケッチを収録。まさか終活?
**
 今年は戦後七十年、高村光太郎の詩に乗っかって、というわけではないが、猿の様な、狐の様な、自分の国の歴史を知らない日本人がまことに多くなった。
 大事なことは「過去」というものはそれで終わったものではなく、その過去は実は私たちが向き合っている現在、そして明日の問題であるということなのである。それなのに、何となく思考を停止し、単純で力強い答えにすがりつくという風潮が今の日本にある。
 歴史としての戦争は遠くなったが、亡国に導いた戦争の悲惨さと非人間的残酷さ、もう二度としてはならないという思いと願いとは、決して消し去ってはいけないのである。(「茶碗のかけらの様な日本人」)



★吉田日出子『私の記憶が消えないうちに』

お葬式に伺ってお別れをしたのに、ふとわからなくなることがあります。あれ? あの人、生きているんだっげ、亡くなったんだっけって思うことが。

それでいいんじゃないかなあ。曖昧なままのほうが、いつでもまた、会えるような気がするじゃない。


★吉田日出子『私の記憶が消えないうちに――デコ 最後の上海バンスキング』〇2014


 あの「上海バンスキング」が16年ぶりに再演された。だが「配役は当日開演一時間前に発表」、主役の吉田日出子の降板を前提の舞台。彼女は台詞や歌詞をふと忘れる高次脳機能障害だった。
 本書の明るさは、70年生き抜いたという“いさぎよさ”のせいだろう。



★藤本義一『鬼の詩/生きいそぎの記』

――思想堅固デナク、身体強健デナク、粘リト脆サモチ酒ト色ニ興味アルモノモノ求ム。監督、股火鉢ノ川島――。〔…〕

「やめとけ。あかん。行かん方がええ」先輩は断固として反対した。理由は、川島雄三に従くと、先ず胃潰瘍になるか肝臓をやられるという。――『
生きいそぎの記』

★藤本義一『鬼の詩/生きいそぎの記』◎2013


 川島はすでに筋萎縮性側索硬化症を発症しており、それだけで満腹になりそうなほど掌にいっぱいの薬を飲んでいたという。40歳の川島と20代半ばの藤本とが、「貸間あり」の脚本を練る。
 川島は病気の進行に追いつかれぬよう映画づくりに生きいそぐ。その破天荒な言動を綴ったのが「生きいそぎの記」。
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 芸人の又吉直樹が芸人を描いた小説「火花」(2015)がベストセラーとなったが、40年前の藤本義一「生きいそぎの記」(直木賞候補)、「鬼の詩」(直木賞受賞作)と比べると、果たして文学は進化しているのかと疑問符が浮かぶ。作家又吉は甘えず逃げずに第2作発表を。



03/芸というもの│T版 2015年4月~8月

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03/芸というもの│T版 2015年4月~8月

03芸というもの

**2015.04.08
★八千草薫『あなただけの、咲き方で』

(夫や母に先立たれ)寂しいなら、寂しいでいいじゃないか。その気持ちも大事にしながら生きていけたらと。今は、そんな心境で、寂しさと寄り添っています。★八千草薫『あなただけの、咲き方で』
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八千草薫、1931年生まれ。16歳で宝塚、以来女優生活。私だけの咲き方ができたら幸せ、ほんのちょっと無理する生き方、誰でも一つは宝物を持っている、と仕事と暮らしの“とりとめもない話”で歳の重ね方を綴る。


**2015.05.09
★谷充代『「高倉健」という生き方』

「誰それがよろしくと言っていました、という人がいるが、僕はちがうと思う。本当によろしくと思っているなら、どんな形でも自分で伝えるべきじゃないかな」高倉健★谷充代『「高倉健」という生き方』○2015
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「いつかマッサージのおばさんが僕の手を触って、ボロの軍手だと言ったことがありましたねえ」。愛読書は木村久迩典『男としての人生 山本周五郎のヒーローたち』。1953年生まれの“追っかけ記者”による高倉健1931~2014のエピソード・コレクション。当方のベスト3は、「駅 STATION」「昭和残侠伝 死んで貰います」「夜叉」かな。




**2015.05.21
★三田完『あしたのこころだ 小沢昭一的風景を巡る』

新劇、映画から語り芸への転換期は、小沢さんが不惑の齢。八十三年の人生のほぼ折り返し点にあたる。ついでにいえば、俳句への傾倒もこのころからはじまった。この転換は、小沢さんの企んだ若隠居だったのではあるまいか。★三田完『あしたのこころだ 小沢昭一的風景を巡る』〇2015
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「小沢昭一的こころ」のプロデューサーと台本作家だった著者による小沢昭一の思い出の地や人を訪ねる旅。小沢は200本の映画に出演した30代を了え、リセット後は俳句や独りの芸を深める人生を選んだと著者はいう。畏敬する小沢へ語りかけ、亡くなったその後のことを報告するような『あしたのこころだ 小沢昭一的風景を巡る』。



**2015.05.27
★山平重樹『高倉健と任侠映画』

「あのパターンはみんな俊藤さんが確立したもんですよ。殴り込みの道行きのシーンで歌が入るのも、男同士、相合傘で殴り込みに行くとき、『お伴させていただきます』なんていうセリフも、俊藤さんでなきやわかりません。いってみれば俊藤節であり、俊藤美学といっていいものでしたね」★山平重樹『高倉健と任侠映画』〇2015
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高倉健の死去で急遽『任侠映画が青春だった』2004が改題文庫化された。高倉健と池部良の雪の道行シーンは、唐獅子牡丹の流れる昭和残侠伝シリーズの名場面。本書は藤純子の父、おそめの亭主である俊藤浩滋プロデューサーが事実上の主人公。東映は社長、プロデューサー、監督、脚本家、俳優、……それに作家や評論家が本を出す。既読感のある話ばかりだが、何度読まされても楽しい。



**2015.05.28
★片岡愛之助・清水まり『愛之助が案内 永楽館ものがたり』

野生復帰に尽くしていらした方々の姿は、永楽館復原に向けて長い時間をかけて努力されていらした方々と重なりました。コウノトリが舞う豊岡、出石の永楽館で歌舞伎ができることを心から幸せに思います。★片岡愛之助・清水まり『愛之助が案内 永楽館ものがたり』〇2015
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1971年に絶滅したコウノトリを永年かけて野生復帰させた豊岡市は、近畿最古の芝居小屋出石永楽館を35年ぶりに復原再開させた。杮落しからかかわった片岡愛之助が出石の人たちと育んだ“地方再生”の物語。
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コウノトリを題材にした「神の鳥」は永楽館歌舞伎のための新作。水中で鯉と格闘する「鯉つかみ」は城崎温泉の大浴場で練習。芝居は“ご当地あってこそ”を思わせるエピソードを満載。


**2015.08.16
★高田文夫『誰も書けなかった「笑芸論」』

“たけし・タモリ・さんま”の、世に言う笑いのビッグ3が登場する直前のおよそ10年間を一体、日本人は誰で笑っていたのか。「せんだみつお」「あのねのね」「ずうとるび」この3組なのだ。使い勝手のいいタレントで小器用になんでもこなした。★高田文夫『誰も書けなかった「笑芸論」』
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「漫才師ってのはさ、二人とも使わなくちゃいけないの? 面白い方だけに喋ってもらうってわけにはいかないの?」とニッポン放送の岡崎正通。目からウロコ、漫才師がバラで仕事をするのはこの一言から始まった。1981年1月1日「ビートたけしのオールナイトニッポン」スタート。前年から漫才ブームが始まっていた。



**2015.08.26
★木々康子○『春画と印象派――“春画を売った国賊”林忠正をめぐって』

アンドレ・マルローは次のように言う。「印象派の人たちが浮世絵のよさを発見したのではない。浮世絵に心酔した青年たちの間から、印象派が生れたのだ」と。★木々康子○『春画と印象派――“春画を売った国賊”林忠正をめぐって』
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パリに本拠をおき印象派の画家たちと親しかった画商林忠正を中心に、印象派とジャポニズム、とりわけ春画の影響を追う。人気の歌川国芳の展覧会を見に行っても、武者絵、役者絵、名所絵、美人画、戯画と多彩であっても、そこに春画がないのは物足りない。本書にも記述のある北斎の「富久寿楚字」第九図。その一本の繊細な線の美しさは、藤田嗣治への影響を思わせる。実物を見る機会は訪れるだろうか。



2015.08.28
★服部公一『童謡はどこへ消えた――子どもたちの音楽手帖』

一般教育の教科音楽は小学校までで充分だ。その後は好き嫌いに従って中学校のクラブ活動グループにはいること。そもそも音楽は楽しみと、遊び、なのだ。★服部公一『童謡はどこへ消えた――子どもたちの音楽手帖』〇2015
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童謡が消えてしまった。それ以前に唱歌が消え、子どもたちはもっぱらアニソンである。作曲家服部公一は愛惜をこめて童謡の誕生から現在までを語る。音楽の先生はクラブ活動で思い切った指導をと説く。ベートーベンやモーツアルトの生年月日を暗記するナンセンスな難行から解放せよと。





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