中原一歩★私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝 …………☆家庭料理のおいしさは、リピートなんです。

20170707

2017.07.07小林カツ代伝


 カツ代は生前、こんな言葉を残している。

「お金を払って食べるプロの料理は、最初の一口目から飛び切りおいしくなくてはならない。一方、家庭料理は違う。

家族全員で食事を終えたとき、ああ、おいしかった。この献立、今度はいつ食べられるかなって、家族に思ってもらえる必要がある。

 家庭料理のおいしさは、リピートなんです」

 何度も何度も家族にリクエストされて、そのレシピは、その家の味となって家族の舌に記憶されるというわけだ。



★私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝|中原一歩|文藝春秋|2017年l月|ISBN: 9784163903965 |○

 料理研究家小林カツ代(1937~ 2014)の評伝である。家庭料理の世界では、“カツ代前、カツ代後”という言葉があってもおかしくないほどの存在だったという。①おいしくて、早くて、安い、②特別な材料は使わない、③食卓にはユーモアがないといけない、の3つが小林カツ代の家庭料理。

プロの料理と家庭料理の違いを、カツ代は天ぷらを例に説明する。

 ――「家庭料理の場合、作り手も食べ手であるということです。だから、台所に立つ作り手も、食卓を囲む家族の一員として、熱々の揚げたての天ぷらを一緒に食べるにはどうすればよいかを考えなくてはならない」(本書)

 カツ代が考えたのは「少量の油で一気に揚げる」こと。これは「たっぷりの油で、少しずつ揚げる」という従来の常識とは逆。少ない湯でもみんながワーッと入ると水位は上がる、という“銭湯の理屈”。

 大阪の毎日放送(MBS)の「奥さん!二時です」へ「番組の中で料理を楽しく作ったらどうですか?」と投稿し、「じゃああなたがやってみませんか」と女性ディレクターに言われたのを契機に、のちのカリスマ料理研究家が誕生する。

 2005年6月、NHK「課外授業 ようこそ先輩」。大阪・堺市にある母校の小学校で「いのちを頂くつて何?」をテーマに授業をする準備をカツ代は進めていた。
 だが、堺市では1996年夏に学校給食から腸管出血性大腸菌O-157によって児童など約9000人が感染し、小学生3人が死亡する食中毒事件が発生したことがある。

 それがトラウマとなり、市も学校も多くの条件を付す。魚や肉を食材に使わないこと。「そうなると使えるのは野菜しかありません」。児童は手袋をつけること。「なんで野菜を素手で扱うことができないんですか。それでは実習の意味がない」

 このあとカツ代は「あこちゃん、頭が割れるように痛いの……」と内弟子・本田明子に告げ、倒れる。くも膜下出血。カツ代の授業が行われず、記録に残らなかったのはかえすがえすも残念。以後9年間という長い闘病生活の上、76歳で死去。

 著者は「創造と葛藤に満ちたカツ代さんの人生は、世代を超えて多くの人を勇気づける」と執筆の動機を語り、私生活の負の面や辛い闘病生活にはあまり触れず、“明るいカツ代伝”を貫いた。

「私が死んでもレシピは残る」

 たしかに厚さ4センチ『小林カツ代料理の辞典―おいしい家庭料理のつくり方2448レシピ』(2002)、過去の著書から復刻した代表作や初掲載レシピも合わせた『小林カツ代の永久不滅レシピ101―残したい、伝えたい、簡単おいしいレシピ決定版!』(2016)など、カツ代のレシピは今も売れ続けている。

(当方、ただいま原因不明の味覚障害に悩んでおり、文字だけで本書のレシピを味わうのも苦痛だった)



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二宮敦人★最後の秘境 東京藝大――天才たちのカオスな日常

20170411

2017.04.11最後の秘境東京芸大



「何年かに一人、天才が出ればいい。他の人はその天才の礎。ここはそういう大学なんです」
入学時、柳津さんは学長にそう言われたという。

「ある意味、就職してる時点で落伍者、といった見方もあるのよ。就職するしかなかった、ということだからね。あいつは芸術を諦めた、みたいな……」
〔…〕

多くの藝大生が目指すのは、やはり作家だ。作品を売って食べていける画家、工芸家、彫刻家、作曲家。あるいは、演奏で食べていける演奏者、指揮者……。

 しかし、そんな存在はほんの一握り。
 何人もの人間がそこを目指し、何年かに一人の作家を生み出して、残りはフリーターになってしまう。それが当たり前の世界だという。


★最後の秘境 東京藝大――天才たちのカオスな日常|二宮敦人|新潮社|2016年9月|ISBN: 9784103502913 |△

 著者の妻が東京藝大生。その“奇行”に興味がでて、藝大生へのインタビューを集めた藝大“探検記”。

 東京藝大は、美術学部(美校)と音楽学部(音校)とがあり、1学年であわせ約500名の学生がいる。
 音校は、親が音楽漬けの人が多く、また金のかかる学部。教授と学生は、師匠と弟子の関係。
美校での教授は、アーティストであり指導者ではない。学生と互いに切磋琢磨する仲間のような関係。

 ピアノやヴァイオリンを小さい頃から始めるのは、早期から音感を高めるためだと思っていたが、違うようだ。卒業生の一人が言う。
「体が作られる時期に練習をすることで、楽器に適した体に成長するの。その時期を逃して後から始めると、もうそれだけで差がついちゃう」

 ――「ヴァイオリン奏者って、骨格が歪んでいるんです。ヴァイオリンは顎に当てて、こうして弾きますよね。すると顔の左右が対称でなくなったり、下側の歯並びが悪くなったり、足や腰の左右のバランスが変わっていったりするんです。そうしてヴァイオリンを体の一部にしていく」

 楽器を体に合わせるというよりは、体を楽器に合わせている。奏者はまるで、楽器を持って初めて「完全体」になる生き物のようだ。
「そうして、ようやく思い通りの演奏ができるようになるんです」(本書)

 平成27年度卒業生486名の進路状況。
 数字が合わないが、就職した人 48名。進学した人 168名。進路未定・その他 225名。大学院に進学する学生が多いが、約半数は“行方不明”だ。
 
こうして天才たちは“自分の道を突き詰める”カオスな日常をおくる。

 

大崎善生:編★棋士という人生――傑作将棋アンソロジー

20170115

2017.01.15棋士という人生



 酒と女、ばくちが彼を駄目にした、といわれた。
一部始終を見ていたわけでもない私にはなんともいえないけれど、他のことならいざしらず、勝負師が、自分を駄目にするほど他のことに没入するわけがない。呑む打つ買う、荒れれば荒れるほど、内心が冴えてきて、空虚なものだったろうと思う。

 将棋を知らない私が、強引に断言するが、また故人に対して失礼千万な記述だが、芹さんが低迷したのは、酒色のせいではない。

 彼の将棋が、どこかひとつ、列強を勝ちしのいでいけないものがあったからだ。彼を酒色に耽らしめたのは、その点に気づきはじめた内心だ。


どこが劣っていたのか、私にはわからない。ひと口に、強い弱いといっても、このクラスは天才同士の戦いで、総力戦である。将棋の実力は紙一重、自分のすべてを投入して戦うのだ。体力、人格、気質、運、その他あらゆるもの。どこかが弱ければそこを突かれる。

 ――色川武大「男の花道」



★棋士という人生――傑作将棋アンソロジー|大崎善生:編|新潮社|2016年10月|ISBN: 9784101265742|○

 当方、職場の仲間と麻雀に没頭したことはあるが、友人に手ほどきを受けた碁はものにならず、将棋は小学生のころルールを覚えた切りである。だが、山口瞳、団鬼六、本書の編者などの将棋についてのエッセイは大好物である。

 本書は、棋士、将棋記者、作家24人による将棋エッセイの名品を集めた新潮文庫オリジナルのアンソロジーである。さまざまな棋士が描かれているが、なかに芹澤博文自らの「忘れ得ぬひと、思い出のひと」、師・高柳敏夫の「愛弟子・芹澤博文の死」、作家・色川武大の「男の花道」と、“名人になれなかった天才”芹澤博文についての3篇が収録されている。

 色川武大は上掲に続けてこう書いている。

 ――そうして、芹さんが手をとって教えた弟分、中原、米長が、後から躍進してきた。
 もう十数年前のことだが、その年のB1の最終戦で、大野-米長戦、芹澤-中原戦が東京と大阪で同時進行という日があった。
 大野八段が勝つと無条件でA級復帰。大野八段が負けると、芹澤-中原の勝者がA級入り、という形だった。
 大野-米長戦は、米長の逆転勝ち。
 先に終った一戦の結果は誰も知らせないが、観戦者が急に増えたりするから気配でわかる。芹さんは終始優勢に進めながら、終盤でポカをやったらしい。〔…〕
 その一戦でA級入りした中原が、すごい勢いで名人位まで昇りつめる。(本書)


 師・高柳敏夫はこう書いている。

 ――芹澤が「もう将棋は済んでしまった」と諦めたのは、やはり中原との一戦があってのことでしょう。
 昭和44年。中原と芹澤、勝った方がAクラスに入れるという順位戦があった。これに勝てば芹澤はAクラスにカムバックできるわけです。
 最初は芹澤が優勢でした。しかし、芹澤は苦悶する中原の顔が見ていられない。そういう過敏な神経がありました。残り十分というところで棋勢がもつれてきた。芹澤が金捨ての鬼手を放った。しかし狙いの鬼手は飛打ちに桂の合駒が利いて成立しなかったんです。結局、芹澤は負けた。(本書)

 ――しかし私には、この将棋を指す前から、芹澤には中原に勝つ気がないんじゃないか、という予感があった。というのは、中原を叩きつけて自分が上がっていくということは、芹澤の性格からできないんですよ。(本書)

“伝説の人”芹澤博文(1936~1987)が死して30年、本格的評伝が書かれるのを期待している。

大崎善生□赦す人




03芸というもの│T版 2016年1月~3月★矢野誠一★長谷川康夫★大下英治★野坂昭如★土方明司・江尻潔・木本文平:監修★桂千穂

20160404

03芸というもの
★矢野誠一│小幡欣治の歳月

菊田一夫亡きあとの商業演劇作家のトップとして君臨していた小幡欣治が、戯曲『熊楠の家』の筆を執ったのは、劇作家としてのおのが原点である新劇への回帰の念からであったのは間違いない。

★矢野誠一│小幡欣治の歳月〇2014.12


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「日本で芝居を書くだけでめしの喰えるのは、小幡欣治ただひとり」(阿木翁助)といわれたが、東宝を離れ『熊楠の家』以降8本の戯曲はすべて劇団民芸のために書く。
矢野誠一『小幡欣治の歳月』は、7歳上の畏敬する小幡との53年に及ぶ交遊を描く。
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★長谷川康夫│つかこうへい正伝1968-1982

 傍若無人で小心で、残酷なくせに心優しく、とことん楽観的だと思ったら、死ぬほど悲観的になる……世の中の人間すべてをバカと呼び、稽古場で芝居が気に入らなければ、役者を一日罵倒し続け、取材が入れば、どの役者よりも目立とうとする……。

 僕らはもう40年、会えばいつだってそんなつかさんの話になる。


★長谷川康夫│つかこうへい正伝1968-1982〇2015.11


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 『つかこうへい正伝』は、「蒲田行進曲」の銀ちゃん、ヤスさながらに70年代を駆け抜けたつかこうへい(1948~2010)と三浦洋一、平田満、風間杜夫、加藤健一、根岸季衣たちの小劇団的青春を描く。
 つかの虚実ないまぜの創作の秘密も。ちなみにヤスは著者長谷川康夫のヤスから。




★大下英治│映画女優 吉永小百合

その清潔な印象こそが彼女を縛りつけている。彼女は彼女で、そこから抜け出ようともがいているにちがいない。汚れが滲まない女優なのである。

「清潔感」。それこそ、吉永のもって生まれた宿命ともいえる。


★大下英治│映画女優 吉永小百合△2015.12


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 自分がいかに変われるかということをいつも求めているのではないか。それゆえ、一緒に仕事をするひとが、「吉永小百合」というイメージにとらわれすぎて、「壊してはいけない」と思うことは、吉永にとって一番の悲しみではないだろうか。(本書)
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 大下英治『映画女優 吉永小百合』は、自身、監督、共演者による吉永のエピソード集。1959年デビューし、119本の映画。こんなに長続きしている女優はいない。
 だが「キューポラのある町」1962、ドラマ「夢千代日記」1981以外に代表作といえるものがない。もっとも当方は、浜田光夫とコンビの青春映画で十分だったが。




★野坂昭如│マスコミ漂流記

 たしかに、芸能マネージャー、ラジオコント作家、CMソング作詞家、TV番組構成者、週刊誌コラムニスト、ルポライターを漂い流れ、ぼくは小説家という一本杭に、どうにかひっかかったのだ。
 もう、これ以上先きはないと、逆に心細い気特が強かった。


★野坂昭如│マスコミ漂流記│〇2015.10


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 何時も、現状をあきたらなく思う時、あるいは先き行きの不安にさいなまれる時、身を転じ、ことなる流れにとび込むことが、これまではできたのだが、小説家の先きはもうない。いや、これをこそ目標にして来たのだから、この枠の中でじたばたしつづけろのが、当然なのだ。今後は、外界を漂い流れることをやめ、自分の内部をさすらい歩かなければならない、それは、一寸先きは闇のような、空怖ろしい感じだった。(本書)
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 野坂昭如『マスコミ漂流記』は1972~73年の作。単行本未収録作品を書籍化する幻戯書房銀河叢書の2015年刊。
 コント、作詞、司会など何をやってもつねに数歩前に永六輔がいて、小説を書き始めたら五木寛之が前にいた。
 野坂27歳からの漂流というより暴走の12年間を回顧したもの。
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★画家の詩、詩人の絵

窪島誠一郎 「画魂」も「詩魂」は一体化した双子みたいなものでどちらがお姉さんかわからない。
酒井忠康 僕は判定したいね、詩の方が上、絵が下だよ。
窪島 自分は立場的には画家が上といいたいけど同感です。詩魂から絵が生まれる。
酒井 湖に石を投げるようなテーマだね。
窪島 混沌ここに極まれり。


★土方明司・江尻潔・木本文平:監修│画家の詩、詩人の絵――絵は詩のごとく、詩は絵のごとく│〇2015.10


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 巡回中の「画家の詩、詩人の絵」展を姫路市美術館でみた。64人の画家、詩人の絵と詩がメリハリなく並ぶ展示手法にいまいち気持ちが弾まない。
 西脇順三郎の難解な詩と淡白な絵、尾形亀之助の暗い詩と色彩豊かな絵の乖離には驚いた。
 図録を兼ねた本書が展覧会より勝っていることは、絵より詩の勝利か。
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★桂千穂│新東宝は“映画の宝庫”だった

だが、何といっても大蔵新東宝不朽の傑作は『東海道四谷怪談』(中川信夫)であり、初期の『野良犬』(黒澤明)中期の『西鶴一代女』(溝口健二)と並ぶ、戦後日本映画史上に燦然と輝くベスト3といえる。

★桂千穂│新東宝は“映画の宝庫”だった│○2015.03


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「大蔵社長はワンマンぶりと前近代的経営法と、企画のゆきづまりから、60年に退陣し、新東宝は翌61年瓦解したのだが、この『東海道四谷怪談』一本をプロデュースしただけでも、私にいわせれば、日本最高の製作者のひとりである」(桂千穂)
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『新東宝は“映画の宝庫”だった』は、桂千穂が超私的に語る新東宝映画大全である。1947~1961年の716本の全作品リストは貴重。だが映画本なのに映画の華やかなスチール写真がない。誰も口を挟ませないワンマンショー的1冊。








発掘本・再会本100選★川島雄三、サヨナラだけが人生だ│藤本義一

20160130

2016.01.30川島雄三サヨナラ


小沢 川島雄三という人に対しては、関わったみんながみんな、自分だけが川島雄三の理解者だと思っているところが、おもしろいですね。

藤本 そうなんです。

小沢 百人が百人、みんなが俺だけが川島雄三のほんとうの姿を知っているんだというふうに、思わせていたふしがある。

それはそれで、その姿は百通りなんです。


そういうふうに思わせていたということ自体、大した人だと思うんですけど。それは監督、ホンヤさん、製作者を含めたすべての人に対してそうなんです。〔…〕

藤本 それは、「生きいそぎの記」が直木賞候補になったとき、選者の評に出てきました。水上勉さんと松本清張さんが、私の知っている川島雄三ではない、といっていたな。

小沢 それだけに、川島雄三という人間に対する評価はみんな当たっていないんじゃないか、という気もしてくるんです。

――対談 小沢昭一 藤本義一


■川島雄三、サヨナラだけが人生だ│藤本義一│河出書房新社│ISBN:9784309264530│2001年01月│評価=○
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 先に『鬼の詩/生きいそぎの記――藤本義一傑作選』の川島雄三を描いた「生きいそぎの記」を読み、もっとこの映画監督を知りたくなり、本書を手にした。

 川島監督に関するエッセイ、小説「生きいそぎの記」、長都日出雄、殿山泰司、小沢昭一との対談、シナリオ「貸間あり」など、川島ワールド満載。

 川島は畏敬する織田作之助の原作・脚本による『還って来た男』(1944)を第1作として、第50作『イチかバチか』(1963)が遺作。当方が見たのは(といってもBSなどでだが)『とんかつ大将』(1952)、『洲崎パラダイス・赤信号』(1956)、『暮末太陽伝』(1957)、『青べか物語』(1962)の4本。

 残念ながら本書に脚本が収録されている『貸間あり』(1959)は見ていない。この作品は原作者の井伏鱒二が試写を見て激怒したといういわくつきのもの。本書で藤本はインタビューに答えている。

――井伏さんの場合には、「花ニ嵐ノタトエモアルゾ」という、つまり、この人は、もう于武陵を強姦したわけです。すでに、于武陵を強姦したんだったら、井伏鱒二を強姦しても良いんじゃないか、という考えとチャウかな、師匠は。

 これは、于武陵の詩「勧酒」にある
  花発多風雨
  人生足別離
 を井伏鱒二は、
  ハナニアラシノタトへモアルゾ
  「サヨナラ」ダケガ人生ダ
 と意訳したことを指している。

 この大胆な訳をした井伏なら、「人間性そのものが、軸にあるのが全部欲望じゃないか。その欲望というものは、決して悲劇というものに結びつかない。全部喜劇性を帯びている、という発想法」(藤本)が許されると川島は考えたというのだ。

 ところで上掲の小沢昭一との対談は、こう結ばれている。

小沢 しかし、川島さんのことを一口で何と表現したらいいんでしょうかね。非常にむつかしい。まあ、普通、「鬼才」という言い方をするんでしょうけれど。
藤本 「稀才」という感じですか。

*
発掘本・再会本100選★鬼の詩/生きいそぎの記│藤本義一








03芸というもの│T版 2015年12月

20151231

03芸というもの
★篠田桃紅『一〇三歳になってわかったこと――人生は一人でも面白い』

「私はいつ死んでもいい」と言う人がいます。それは言っているだけで、人生やるべきことはやった、と自分で思いたいのです。
自分自身を納得させたくて、「いつ死んでもいい」と言うのです。

★篠田桃紅『一〇三歳になってわかったこと――人生は一人でも面白い』△2015


篠田桃紅『一〇三歳になってわかったこと――人生は一人でも面白い』。1913年生まれ。102歳のドキュメンタリーを見たが、凛とか冽とかいう一文字の印象だった。川という字にはタテ三本の線を引く、しかし川を無数の線で、あるいは長い一本の線で表したい、と水墨の抽象画というジャンルを確立。この本も売れに売れているらしい。


03芸というもの│T版 2015年9月~11月

20151207

03芸というもの

★荒井修『浅草の勘三郎――夢は叶う、平成中村座の軌跡』

「お客を喜ばせることにあんなに努力を惜しまない役者は、勘三郎のほか二度と出ないんだよ。
あんまり俺を悲しませるなよ」
★荒井修『浅草の勘三郎――夢は叶う、平成中村座の軌跡』◎2015


勘三郎の夢やアイデアを実現すべく浅草公会堂での歌舞伎公演や隅田公園内の平成中村座の設営に著者は奔走する。
 荒井修『浅草の勘三郎』は、浅草育ちで歌舞伎好きの扇職人と浅草をこよなく愛する歌舞伎役者との友情物語。
 上掲は『め組の喧嘩』上演に弱気だった勘三郎への著者の直談判の一言。




★中山千夏『芸能人の帽子――アナログTV時代のタレントと芸能記事』

とにかく、ひとびとは、よく知る芸能人を思わぬ場所で見かけると、
幸運のザシキワラシに出会ったような、はたまたお気に入りのオモチャを見つけた子どものような、喜ばしさを感じる。


★中山千夏『芸能人の帽子――アナログTV時代のタレントと芸能記事』◎2014


 もっとも戻りたくないのはテレビ芸能人時代と中山千夏。
 しかし今でも近くの商店街で好意的に声をかけられる。『芸能人の帽子――アナログTV時代のタレントと芸能記事』は70年代の自分が週刊誌に書かれたあること無いことを、今の自分が検証をする。
 すなわち“ひとりオーラルヒストリー”である。メディア論として楽しませてくれる。




★半藤一利『老骨の悠々閑々』

ココアの歌、コーヒーの歌、紅茶の歌を知れるや、と問わる。
残念ながら知らず。

相手はハハハと笑いながら、「ここはお国を何百里……、この軍歌、すなわちココアの歌なり」ムムムと目を剥くよりも先に、「コーヒー(恋)はやさし野辺の花よ……」


★半藤一利『老骨の悠々閑々』△2015


 コーヒーはオペレッタ「ボッカチオ」、紅茶は「お江戸日本橋」、コチャエ、コチャエの囃子詞。
 歴史探偵いつも小さな雑記帳をポケットに。耳よりの話があるとメモ。これはその一つ。『老骨の悠々閑々』の著者も齢85。読者の退屈の虫を駆除するに役立つだろうと、未収録エッセイ、趣味の木版画、スケッチを収録。まさか終活?
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 今年は戦後七十年、高村光太郎の詩に乗っかって、というわけではないが、猿の様な、狐の様な、自分の国の歴史を知らない日本人がまことに多くなった。
 大事なことは「過去」というものはそれで終わったものではなく、その過去は実は私たちが向き合っている現在、そして明日の問題であるということなのである。それなのに、何となく思考を停止し、単純で力強い答えにすがりつくという風潮が今の日本にある。
 歴史としての戦争は遠くなったが、亡国に導いた戦争の悲惨さと非人間的残酷さ、もう二度としてはならないという思いと願いとは、決して消し去ってはいけないのである。(「茶碗のかけらの様な日本人」)



★吉田日出子『私の記憶が消えないうちに』

お葬式に伺ってお別れをしたのに、ふとわからなくなることがあります。あれ? あの人、生きているんだっげ、亡くなったんだっけって思うことが。

それでいいんじゃないかなあ。曖昧なままのほうが、いつでもまた、会えるような気がするじゃない。


★吉田日出子『私の記憶が消えないうちに――デコ 最後の上海バンスキング』〇2014


 あの「上海バンスキング」が16年ぶりに再演された。だが「配役は当日開演一時間前に発表」、主役の吉田日出子の降板を前提の舞台。彼女は台詞や歌詞をふと忘れる高次脳機能障害だった。
 本書の明るさは、70年生き抜いたという“いさぎよさ”のせいだろう。



★藤本義一『鬼の詩/生きいそぎの記』

――思想堅固デナク、身体強健デナク、粘リト脆サモチ酒ト色ニ興味アルモノモノ求ム。監督、股火鉢ノ川島――。〔…〕

「やめとけ。あかん。行かん方がええ」先輩は断固として反対した。理由は、川島雄三に従くと、先ず胃潰瘍になるか肝臓をやられるという。――『
生きいそぎの記』

★藤本義一『鬼の詩/生きいそぎの記』◎2013


 川島はすでに筋萎縮性側索硬化症を発症しており、それだけで満腹になりそうなほど掌にいっぱいの薬を飲んでいたという。40歳の川島と20代半ばの藤本とが、「貸間あり」の脚本を練る。
 川島は病気の進行に追いつかれぬよう映画づくりに生きいそぐ。その破天荒な言動を綴ったのが「生きいそぎの記」。
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 芸人の又吉直樹が芸人を描いた小説「火花」(2015)がベストセラーとなったが、40年前の藤本義一「生きいそぎの記」(直木賞候補)、「鬼の詩」(直木賞受賞作)と比べると、果たして文学は進化しているのかと疑問符が浮かぶ。作家又吉は甘えず逃げずに第2作発表を。



03/芸というもの│T版 2015年4月~8月

20150905

03/芸というもの│T版 2015年4月~8月

03芸というもの

**2015.04.08
★八千草薫『あなただけの、咲き方で』

(夫や母に先立たれ)寂しいなら、寂しいでいいじゃないか。その気持ちも大事にしながら生きていけたらと。今は、そんな心境で、寂しさと寄り添っています。★八千草薫『あなただけの、咲き方で』
**
八千草薫、1931年生まれ。16歳で宝塚、以来女優生活。私だけの咲き方ができたら幸せ、ほんのちょっと無理する生き方、誰でも一つは宝物を持っている、と仕事と暮らしの“とりとめもない話”で歳の重ね方を綴る。


**2015.05.09
★谷充代『「高倉健」という生き方』

「誰それがよろしくと言っていました、という人がいるが、僕はちがうと思う。本当によろしくと思っているなら、どんな形でも自分で伝えるべきじゃないかな」高倉健★谷充代『「高倉健」という生き方』○2015
**
「いつかマッサージのおばさんが僕の手を触って、ボロの軍手だと言ったことがありましたねえ」。愛読書は木村久迩典『男としての人生 山本周五郎のヒーローたち』。1953年生まれの“追っかけ記者”による高倉健1931~2014のエピソード・コレクション。当方のベスト3は、「駅 STATION」「昭和残侠伝 死んで貰います」「夜叉」かな。




**2015.05.21
★三田完『あしたのこころだ 小沢昭一的風景を巡る』

新劇、映画から語り芸への転換期は、小沢さんが不惑の齢。八十三年の人生のほぼ折り返し点にあたる。ついでにいえば、俳句への傾倒もこのころからはじまった。この転換は、小沢さんの企んだ若隠居だったのではあるまいか。★三田完『あしたのこころだ 小沢昭一的風景を巡る』〇2015
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「小沢昭一的こころ」のプロデューサーと台本作家だった著者による小沢昭一の思い出の地や人を訪ねる旅。小沢は200本の映画に出演した30代を了え、リセット後は俳句や独りの芸を深める人生を選んだと著者はいう。畏敬する小沢へ語りかけ、亡くなったその後のことを報告するような『あしたのこころだ 小沢昭一的風景を巡る』。



**2015.05.27
★山平重樹『高倉健と任侠映画』

「あのパターンはみんな俊藤さんが確立したもんですよ。殴り込みの道行きのシーンで歌が入るのも、男同士、相合傘で殴り込みに行くとき、『お伴させていただきます』なんていうセリフも、俊藤さんでなきやわかりません。いってみれば俊藤節であり、俊藤美学といっていいものでしたね」★山平重樹『高倉健と任侠映画』〇2015
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高倉健の死去で急遽『任侠映画が青春だった』2004が改題文庫化された。高倉健と池部良の雪の道行シーンは、唐獅子牡丹の流れる昭和残侠伝シリーズの名場面。本書は藤純子の父、おそめの亭主である俊藤浩滋プロデューサーが事実上の主人公。東映は社長、プロデューサー、監督、脚本家、俳優、……それに作家や評論家が本を出す。既読感のある話ばかりだが、何度読まされても楽しい。



**2015.05.28
★片岡愛之助・清水まり『愛之助が案内 永楽館ものがたり』

野生復帰に尽くしていらした方々の姿は、永楽館復原に向けて長い時間をかけて努力されていらした方々と重なりました。コウノトリが舞う豊岡、出石の永楽館で歌舞伎ができることを心から幸せに思います。★片岡愛之助・清水まり『愛之助が案内 永楽館ものがたり』〇2015
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1971年に絶滅したコウノトリを永年かけて野生復帰させた豊岡市は、近畿最古の芝居小屋出石永楽館を35年ぶりに復原再開させた。杮落しからかかわった片岡愛之助が出石の人たちと育んだ“地方再生”の物語。
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コウノトリを題材にした「神の鳥」は永楽館歌舞伎のための新作。水中で鯉と格闘する「鯉つかみ」は城崎温泉の大浴場で練習。芝居は“ご当地あってこそ”を思わせるエピソードを満載。


**2015.08.16
★高田文夫『誰も書けなかった「笑芸論」』

“たけし・タモリ・さんま”の、世に言う笑いのビッグ3が登場する直前のおよそ10年間を一体、日本人は誰で笑っていたのか。「せんだみつお」「あのねのね」「ずうとるび」この3組なのだ。使い勝手のいいタレントで小器用になんでもこなした。★高田文夫『誰も書けなかった「笑芸論」』
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「漫才師ってのはさ、二人とも使わなくちゃいけないの? 面白い方だけに喋ってもらうってわけにはいかないの?」とニッポン放送の岡崎正通。目からウロコ、漫才師がバラで仕事をするのはこの一言から始まった。1981年1月1日「ビートたけしのオールナイトニッポン」スタート。前年から漫才ブームが始まっていた。



**2015.08.26
★木々康子○『春画と印象派――“春画を売った国賊”林忠正をめぐって』

アンドレ・マルローは次のように言う。「印象派の人たちが浮世絵のよさを発見したのではない。浮世絵に心酔した青年たちの間から、印象派が生れたのだ」と。★木々康子○『春画と印象派――“春画を売った国賊”林忠正をめぐって』
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パリに本拠をおき印象派の画家たちと親しかった画商林忠正を中心に、印象派とジャポニズム、とりわけ春画の影響を追う。人気の歌川国芳の展覧会を見に行っても、武者絵、役者絵、名所絵、美人画、戯画と多彩であっても、そこに春画がないのは物足りない。本書にも記述のある北斎の「富久寿楚字」第九図。その一本の繊細な線の美しさは、藤田嗣治への影響を思わせる。実物を見る機会は訪れるだろうか。



2015.08.28
★服部公一『童謡はどこへ消えた――子どもたちの音楽手帖』

一般教育の教科音楽は小学校までで充分だ。その後は好き嫌いに従って中学校のクラブ活動グループにはいること。そもそも音楽は楽しみと、遊び、なのだ。★服部公一『童謡はどこへ消えた――子どもたちの音楽手帖』〇2015
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童謡が消えてしまった。それ以前に唱歌が消え、子どもたちはもっぱらアニソンである。作曲家服部公一は愛惜をこめて童謡の誕生から現在までを語る。音楽の先生はクラブ活動で思い切った指導をと説く。ベートーベンやモーツアルトの生年月日を暗記するナンセンスな難行から解放せよと。





中山千夏★芸能人の帽子――アナログTV時代のタレントと芸能記事

20150904

2015.09.04芸能人の帽子

 最近とみに思うことがある。私はずいぶん彼女のおかげでトクをしている、と。

 ひとびとは芸能人が好きだ。今や私もひとびとと同じなのでよくわかるのだが、それは、単なる有名人に対する気持ちとは違う。

 それよりもっと純粋で、単純で、原始的な感情だ。映像とはいえ、自分らの居間や寝室にしょっちゅう現れるせいだろうか。

 とにかく、ひとびとは、よく知る芸能人を思わぬ場所で見かけると、

幸運のザシキワラシに出会ったような、はたまたお気に入りのオモチャを見つけた子どものような、喜ばしさを感じる。



★芸能人の帽子――アナログTV時代のタレントと芸能記事│中山千夏│講談社│ISBN:9784062192224│2014年11月│評価=◎おすすめ│70年代に芸能記事の餌食となった千夏が今自ら当時の記事を検証する。

 マルチタレントとして大活躍した中山千夏は、テレビ芸能人時代は「不快を伴う空虚な時間」であり「もっとも戻りたくない時代」だという。ところが芸能人でなくなった今、地元の商店街で、ダイビングをしにいく島で、反原発集会で、“特別な好意”で声をかけられおおいに“トク”をしていると。

 そこで、
――彼女はどんな芸能人だったのか。なぜ彼女は流行ったのか。彼女をもてはやしたのは、いったいどんな時代だったのか。それを知るには、彼女について書かれた芸能記事を見るのが一番ではないか。
 と、母親がスクラップしていた古い芸能記事と対面する。

 つまり本書は、“ひとりオーラルヒストリー”である。他人が書いた自分の記事を今の自分が検証をする。例えば、当時書かれた恋愛記事がいかにねつ造されたかを詳細に本人がコメントする。週刊誌記事は、当時の雰囲気はよく分かるが、史料的には二次的データである。

 また1970年大阪万博のDVDをみて、当時のテレビがいかに真面目だったかを振り返り、「テレビに限らず、文化の進歩とは、人間がどんどん不真面目になっていくこと、なのかもしれない」と書く。

万博初日に敦賀原子炉が運転を始め「原子力の灯がこの万博会場へ届いた」と報道される。多くの知識人、芸術家、芸能人が浮かれるなか、作家佐藤愛子だけが原子力発電について懸念を表明する。また北海道稚内市から中継に「出稼ぎで会場建設に携わった作業員が登場するなど、テレビの画面でそれらが全く違和感を感じさせない。

 「もし今だったら、国家規模のイベントも、芸能人を駆使した安上がりの構成で、番組は批判も期待もない馬鹿騒ぎに終わってしまうだろう」とテレビの劣化を指摘し、東京五輪報道を予言する。

 ワイドーショーの司会などで一緒の仕事が多かった青島幸男について多くのページを割いている。直木賞を目的に小説を書き、第1作で受賞すると、小説をほとんど書かなくなってしまったり、世界都市博を阻止すると、それ以外の知事の仕事に興味をなくしたりという、“青島は青島しか関心がなかった”男についての出色の人物論だ。

  “ひとりオーラルヒストリー”と評したが、自分以外の資料をネットに頼っているので、正確性に欠ける部分がある。だが70年代を振り返る読み物としては十分楽しく、さすが元マルチタレントである。なお、当方は、声優としての中山千夏、『じゃりン子チエ』のファンだった。


中山千夏◎蝶々にエノケン──私が出会った巨星たち
中山千夏■ ぼくらが子役だったとき
青島幸男■ ちょっとまった!青島だァ



荒井修★浅草の勘三郎――夢は叶う、平成中村座の軌跡

20150901

2015.09.01浅草の勘三郎

「五月の昼の部を何にするかで悩んでいるんだよ」
「僕だったら、『め組の喧嘩(神明恵和合取組)』にするな」
「えっ、『め組の喧嘩』? なんで? あの芝居のどこが面白いの?」〔…〕

「これはまさに江戸っ子の芝居だ。みんな喜ぶと思うよ」
「えーっ、そうかねー? 第一初役だよ、台詞を覚えられる自信がないよ」〔…〕

これまで、こんな弱気な言葉をこの男から聞いたことがなかったので、自分の耳を疑った。〔…〕「どうしたんだよ、勘三郎」という言葉より先に、私は涙が止まらなくなった。そんな自分の涙に後押しされたかのように、私はいった。

「お客を喜ばせることにあんなに努力を惜しまない役者は、勘三郎のほか二度と出ないんだよ。

あんまり俺を悲しませるなよ」



★浅草の勘三郎――夢は叶う、平成中村座の軌跡│荒井修│小学館│ISBN:9784093884150│2015年04月│評価=◎おすすめ│これが勘三郎。これが浅草。

 著者荒井修(1948~)は浅草仲見世に120年続く舞扇の老舗「荒井文扇堂」四代目店主。絵柄付けから仕立てまでこなす扇子職人として、舞踏界、歌舞伎界、落語界に大勢の名だたるご贔屓をもつ、と著者紹介にある。

 浅草育ちで歌舞伎好きの扇職人と浅草をこよなく愛する歌舞伎役者との友情物語である。著者は18代中村勘三郎の7歳年上の友人にして私的プロデューサーの役割を果たす。

 勘三郎の夢やアイデアを実現すべく、浅草公会堂での歌舞伎公演や隅田公園内に江戸時代の芝居小屋を模した平成中村座の設営に、著者は奔走する。平成中村座は間口8間、約15m(歌舞伎座は間口15間、約27m)の仮設の芝居小屋。2000年にできたことにより、「これまでは浅草といえば観音さまの周辺のみであったのが、隅田公園や猿若町などもマスコミに取り上げられるようになって、浅草がひとまわり大きい町になった」と著者は書く。

 上掲は、のちに「いままで一番好きな演目はと訊かれると『髪結新三』と答えていたけど、いまなら『め組の喧嘩』っていうだろうな」と勘三郎にいわしめた演目誕生のいたる著者“一世一代の直談判”の模様である。

 2012年12月、57歳で死去。勘三郎の本葬は築地本願寺で行われたが、自宅からゆかりの地平成中村座の建っていた隅田公園へ寄る。このとき浅草の人たちは『め組の喧嘩』にも登場させた仲見世の神輿を出し賑やかに送る。

 それにして勘三郎は天才。その心意気に応えていく著者は浅草っ子の面目躍如である。

 ところで平成中村座が息子の勘九郎たちによって復活するという。以前大阪で観たとき、勘三郎の奮闘ぶりもさることながら、いちばん驚いたのは「桜席」という幕の内側の舞台の左右に客席があることだった。サクラという隠語の語源である。

関容子■勘三郎伝説
石山俊彦■歌舞伎座五代――木挽町風雲録


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