田村 隆◆昭和バラエティ番組の時代 …………☆いまや「ひな壇」芸人の「雑談」芸ばかり。芸は残るが、雑談は残らない

20180709

2018.07.09昭和バラエティ番組


「お笑い芸人」ってなんだろう。〔…〕

人を笑わせ、楽しませ、喜ばせ、真似のできない芸で観客を沸かせ、感動させる。それが芸人だ。

お笑い芸人は、頭に“お”がついただけで、笑わせるのではなく笑われる人、となってしまう。


「芸人」という重みある言葉が、“お”のおかげで軽薄なイメージになってしまっていないか。その違いは重要だ。


◆昭和バラエティ番組の時代――1955~1989 ちょっとだけ狂気TVの35年 |田村 隆 |2018年2月|河出書房新社|ISBN:9784309026473|△

 カラー放送の前の白黒テレビ、「リモコンで切り替える」前の「チャンネルを回す」時代から、『シャボン玉ホリデー』、『8時だヨ!全員集合』、『ゲバゲバ90分!』等で放送作家として活躍した田村隆(1941~)による昭和バラエティ番組史である。

 テレビ史に残るバラエティ番組といえば、『8時だョ!全員集合』(TBS)と『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』(日本テレビ)。
 両番組とも、著者もかかわり、1969年10月スタート、土曜夜8時で競い合った。『8時~』の主役はザ・ドリフターズ。アドリブなしの完全台本主義で失敗は許されない公開生放送。
 『ゲバゲバ』はVTR収録。アドリブを前面に出し、失敗さえもカメラに写して笑いにもっていく手法をとった。

 そういえば、「ドリフ」といえば“ワースト番組”と非難された。

 ――PTAである。定番ともなった「子供の教育上よくない」という叫びだ。娯楽を楽しむことが理解できない人たちで、きっと寂しい人生を送っているのだろうと思うと、哀しくなるしかなかった。 (本書)

 その頃から、たけし、さんま、タモリが活躍し、いまや半世紀、今も“お笑いビッグ3”としてテレビに君臨している。
 たけし(1947~)は勲章志向がつきまとっているし、タモリ(1945~)は毒の抜けた物わかりのいい爺様だし、さんま(1955~)は60代になっても若者的芸風が変わらない。

 現在のバラエティは、著者曰く“雑談芸”である。

 ――たしかに売れ筋のお笑い芸人のお喋りは上手い。達者である。間をあけない。相手との間の空気を読む。器用だ。言葉の選び方も、立ち居振る舞いも、軽妙洒脱で楽しめる。見事にバラエティタレント化している。ただし、雑談はあくまでも雑談でしかない。芸は残るが、雑談は残らない。 (本書)

 著者によれば、バラエティ番組の「ひな壇」という芸当を最初にはじめたのは、『天才・たけしの元気が出るテレビ‼』(1985~)で、その「ひな壇セット」を考案、実行したのがテリー伊藤だという。

 その「ひな壇」で思うのは、最近の吉本興業お笑い芸人の“コメンテーター化”である。大阪のテレビ局の夕方は、ニュースかバラエティか判別できない番組ばかり。そこに吉本芸人が登場し、ほとんどが“安倍官邸”にすり寄っているし、大阪“維新”知事べったりでもある。毒も芸もない情けなさである。

 また最近、吉本興業は単にお笑い芸人の提供ではなく、地方自治体と組んでそのカネをあてにさまざまな事業へ進出を図っている。なんだか危険な匂いがする。

 話がそれたが、著者は「まえがき」で、「普遍と妥当の隠し味を漂わせる」のが、バラエティ番組の本筋だと述べている。それは……。

「独自の偏見」
「突飛な異常性」
「ささやかな狂気」
「ちいさな暴力」
「あきれる無神経」
「ちょっぴり不健康」
「かぎりなき無責任」
「見えすいた迎合」
「悪意なき企み」
「理不尽な屁理屈」


 往年のヒットバラエティ番組には、これらの仕掛けが見え隠れしている、と。この10のフレーズを若手芸人は一日三唱せよと言いたい。
 さて、テレビが面白い時代、……甦ることがあるだろうか。

 

 


 


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高坂はる香◆キンノヒマワリ――ピアニスト中村紘子の記憶 …………☆ピアノの音っていうのは、弾いている手の平の内側から響いてこないといけないのよ

20180611

2018.06.11キンノヒマワリ


「子供のための音楽教室」時代から、中村紘子の音楽の変化を見守ってきたチェリストの堤剛氏は、中村紘子の演奏の魅力について、こう話す。

「彼女の演奏の特徴は、まず、みずみずしいピアニズム。すごく音がきれいですよね。

あるとき、ピアノの音っていうのは、弾いている手の平の内側から響いてこないといけないのよ

っておっしゃっていて、そうなのかとちょっと驚きました。
 
そして、すばらしいテクニックに支えられた、自然であり、自由な音楽づくり。これは子供の頃からそうでしたが、型にはまった音楽ではないので、音楽が息づいているんです」


◆キンノヒマワリ ピアニスト中村紘子の記憶 |高坂はる香|2018年1月|集英社|ISBN: 9784087816471|○

 ピアニスト中村紘子(1944~ 2016)を“大絶賛”する評伝である。
 著者高坂はる香は、ピアノ音楽誌『ショパン」編集者を経て2011年よりフリーランスの音楽ライター。

 タイトルの『キンノヒマワリ』は、中村紘子が小学校1年のときかいた絵本のタイトル。魔法使いによって金のヒマワリにされていた王子さまを、心優しいお姫さまが手折ると魔法がとけたという話。「ヒマワリに憧れ、いつの日か、自らが周囲を照らす『金のヒマワリ』となった中村紘子」と著者は書く。

 当方は音楽が苦手。作曲家、演奏家、楽曲、楽器、すべて無知である。しかし釣りをしないのに釣魚本、将棋をしないのに将棋エッセイが大好き、と同様に、大宅ノンフィクション賞の中村紘子『チャイコフスキー・コンクール――ピアニストが聴く現代』(1988)を再読した。

 たとえば、ホロヴィッツ「東洋人と女にはピアノは弾けない」、カラヤン「女性はオーケストラなどにいないで、台所にいるべきである」はこの本で知った。世界的視野と行動力で音楽界を闊歩する中村紘子は、差別や偏見に手厳しい。ゴシップを巧みにはめ込んだユーモアのセンス。後輩のピアニストへの温かいまなざし。同時にわが国の「文化行政」を憂う。

本書は「彼女自身の言葉と周囲の人々の証言をもとに、回顧したい」とあり、そのいくつかを掲げる。

◇彼女自身の言葉
*
  ――情操教育というのは、教育して行うものじゃなくて、家庭が情操的であるということが肝心ではないかしら。〔…〕本が家の中に氾濫していて、みんながいちばん面白いことって顔して、本を読んでいた……。読まなきや教養がつかないとかってことじゃなくてね。(1977年『週刊サンケイ』)
*
  ――だいたい才能があるから、システムからはみ出してしまうものでしょう。才能に恵まれ、はみ出し、かついい先生にめぐり会う人が伸びる人間ですね。(1997年『外交フォーラム』)
*
  ――人間の成熟には時間がかかるが、それを寛容に受け止める社会がなければならない。でも今日の日本でもてはやされているのは軽チャーであり、未成熟な子供っぽい思考である。大人になるより子供で居続けたほうが楽しい社会、とでもいうのだろうか。(2017年『ピアニストだって冒険する』)

◇周囲の人々の証言
*
庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(1969)の一節。これを契機に二人は結婚する。
 
  ――中村紘子さんみたいな若くて素敵な女の先生について(いまの先生はいいけれどおじいさんなんだ)優雅にショパンなど弾きながら暮らそうかなんて思ったりもするわけだ。
*
国際音楽コンクール世界連盟副会長・リチャード・ロジンスキ

  ――でも不思議なことに、審査員席に座った彼女は、才能、音楽の様式感や、ミュージシャンシップを見極める、すばらしい能力を持っていたのです。
*
ビートたけし、1992年の『週刊文春」のエッセイ。

――まず背中の筋肉の付き方に圧倒され、さらにフォルティッシモを弾いているときの様子は、ほとんどピアノ相手の格闘技か、道路工事でハンマーを使って杭を打ち込んでいるような迫力がある。一方で、ピアニッシモを弾く時とのギャップがすごい。









原研哉◆白百(しろひゃく)  …………☆本や旅や交遊や仕事や過去から、1000字100篇の美しい「白」を発見する。

20180514

2018.05.14白百


 心を動かされるものに執着してはいけない。感慨は収穫物として蓄積すべきではない。

 感動が刻印する心象は、無垢な心に付着した生々しい模様のようなもの。放っておけば思いの名残が染みついてしまうかもしれない。

 だから感動はひと時のものとして、きれいさっぱり切り離し、心や感受性をまっさらな状態へと初期化する。


これが日本における表現の奥義であったのだ。

――「切れ」


◆白百(しろひゃく)|原 研哉|2018年1月|中央公論新社|ISBN:9784120050367|○

 原研哉は1958年生まれのグラフィックデザイナー。

 観念としての「白」ではなく、より具体的な事象としての白について語ってみたくなった、とまえがきにある。記憶の束から思いつくままに百の白を引き抜いて、と。

 見開き2ページ、1000字の「白」100篇が綴られている。

 本や旅や交遊や仕事や過去から、100の「白」を発見する。それは同じ大きさの函に人工的に凝縮した散文詩のようでもあるし、デッサンのようでもあるし、記憶を蘇えさせる試みのようでもあるし、アイデア帖のようでもある。

 上掲「切れ」は、俳句の「切れ」である。「泥に降る雪うつくしや泥になる」という小川軽舟の句を引用し、高橋陸郎の感覚の「切れ」を、折口信夫の表現の極意としての「切れ」を紹介する。繰り返し読むために、全文引用しておきたいたい一文であるが、その末尾……。

 ――白は色の不在ではなく、色の飽和の果てである。「切れ」は、鮮烈なる色彩の残像を鎮め、白へと還元しようとする美意識なのである。 (「切れ」)

 じつは当方まだ読了していない。一編ずつゆっくり味わいたい。だがとりあえず気になるフレーズをいくつか紹介。

 三好達治、宮沢賢治の詩を引用した「雪」から……。
 
 ――雪を拡大してみると精緻なる結晶が発見できるが、空の上の天候や気温の状態に応じて、結晶はまちまちに異なる点はさらなる驚きである。だから降る雪はひとつとして同じものはない。唯一無二のあり方をもって天空から舞い降り、しんしんと降り積もるのである。

 京都・慈照寺東求堂の同仁斎という書院を紹介した「障子」から……。

 ――人差し指で強く突くと確実に穴があく。この程度の弱い建具で家屋を構築する感受性に、日本人の繊細さを自覚する。脆く、薄く、軽く、桟の隅々に張力を均等分布させながら高い面精度を保ち、空間の一側面をぴしりと決めている。弱きを張りつめて強度としているような、逆説的な存在のしたたかさがそこにはある。

 「大根のやうに見事に言葉を引きぬく」と那珂太郎を引用した「大根」から……。

 ――大量の大根をすりおろし、鍋をこれで満たす。このまま火にかけて煮立つのを待ち、薄切りの豚肉など投入し、しゃぶしゃぶ風に食べるとうまい。白くふくよかに育った「たまもの」を半透明にすりおろすなんて、なんと詩的で完璧な食べ方だろう。

 レオナルド・ダ・ヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」、歌麿の「浮気之相」を紹介した「指」から……。

 ――ほっそりとした指に、素のままの爪が長すぎずすらりと整っている。そういう指を見ると、色っぽいとか、欲情をそそるとか、そういうことを超えて、生きものとしての身の始末の良さとでもいうか、しとやかな知性が外に浅み出してくるような、存在の洗練にうたれるのである。

樋口尚文◆映画のキャッチコピー学 …………☆惹句は、映画という非日常に加わりたい「観る欲望」を煽動する

20180423

2018.04.23映画のキャッチコピー学


 映画のキャッチコピー、惹句というものは、一般商品の販促のために書かれたコピーとはいささか「匂い」が違うという気がする。

 それはたとえば通常の車や家電製品のコピーにように精緻なマーケティングに裏打ちされた、消費者の「熟考」にたえ、「吟味」に訴える文言とは肌ざわりが違う。

 言ってみれば、映画のコピーはもっと直観的で、勢いとともに潜在的な観客を煽る、一種野蛮な力をみなぎらせたものであることが多い。

 これはきっと映画の発祥以来、「小屋(劇場)に客を呼び込む」興行の言葉であることに由来しているだろう。


 どんなに一般商品のコピーの名手でも、この泥臭い「呼び込み」のDNAを継ぐ文言はなかなか書けないものである。


◆映画のキャッチコピー学 |樋口尚文 |2018年l月|洋泉社|ISBN:9784800314055|○

 映画を観る楽しみはいろいろあるが、その一つとして「広告で映画の情報を得て、楽しみに公開を待つまでの時間というのを忘れてはならないだろう」と著者は書く。

 その広告での映画情報、すなわち宣伝文句。コピーとかキャッチフレーズ、それはかつて惹句と呼ばれた。

 映画の100年、大正末期から現在までの、日本映画の広告コピー 、輸入配給された外国映画の日本公開時における広告コピーを、その手法や切り口で分類し、紹介したのが本書である。
 著者樋口尚文(1962年~)は映画評論家、映画監督(「インターミッション」2013)。

 ――日々忙しく財布の紐もかたい顧客たちをわざわざ映画館の暗闇に呼び込んで、しかも貴重な数時間を束縛するためには、もっといきのいい祝祭の詞が求められるのであり、そこでの要件は「説得」ならぬ「煽動」である。つまり、映画という非日常に是が非でも加わりたいという「観る欲望」を着火させる「煽り」「祭り」の言葉が、映画の惹句=コピーに欠くべからざるものなのだ。 (本書)

 映画コピーのアプローチとして、スケールと物量、スタアの魅力、上映方式、箔づけ、煽動と煽情、流行感とメジャー感、不明性と期待感、禁止と限定、仕掛けとパッケージ、組み替え、時事性、見世物性、便乗とパロディ、ドキュメント感に分類し、それぞれの代表的なキャッチコピーを紹介している。

 例えば思わせぶりな「不明性」の例として「母さん、僕のあの帽子、どうしたでしょうね?」の『人間の証明』の有名な惹句を掲げているが、これはもともと西條八十の詩「帽子」の最初の一行である。
 もう一つ、「スタアの魅力」の例として、「いつの間にか地獄が似合う男になって帰ってきたあなた」は、『チェイサー』のアラン・ドロンに捧げるコピーで、作詞家山口洋子の作。

 さて当方が実際に見た映画から、惹句がすばらしいもの、そのベスト5を選んでみた。

*
宇宙では、あなたの悲鳴は誰にも聞こえない。

――『エイリアン』1979。リドリー・スコット監督、シガニー・ウィーバー主演
*
ふり返れば、人生を乗りかえた駅がある――

――『駅STATION』1981。降旗康男監督、高倉健、倍賞千恵子主演
*
凶暴な純愛映画。

――『ニキータ』1991。リュック・ベッソン監督、アンヌ・パリロー主演
*
生きているかぎり生きぬきたい笑って泣いて―― 心の深呼吸をしませんか?
人生の黄昏に輝く生の一瞬を避暑地の木もれ日のようにさわやかに描く――


――『午後の遺言状』1995。新藤兼人監督、杉村春子、乙羽信子主演
*
久しぶりに映画館であったまりませんか?
東京タワーが建設中だったあの頃、携帯もパソコンもTVもなかったのに、
どうしてあんなに楽しかったのだろう。


――『ALWAYS三丁目の夕日』2005。山崎貴監督、吉岡秀隆、堀北真希主演

斎藤智恵子◆伝説の女傑 浅草ロック座の母…………☆勝新太郎と北野武の「座頭市」裏話

20180326

2018.03.26浅草ロック座の母


私、週刊誌やなんかで“浅草の女帝”だとか“伝説のママ”だとか書かれたり、巷でいろんな武勇伝のようなものが語られていたりしております。

  勝新太郎に20億円貸したとか、ヤクザに斬られたとか、ラスベガスにプール付きの家を何軒も持っていたとか、たけしさんに有無を言わせず映画を撮らせたとか、小向美奈子ちゃんをストリッパーにしたとか……。

 笑っちゃいますね。でも、だいだい合っております。事実のほうがもっとすごかったり、ややこしかったりするんですけどね。


 死を覚悟したことは数えきれませんし、何十億もなくしてさすがにがっかりしたこともありました。夢よりも大きなことが叶って天にも昇る思いも味わいました。


◆伝説の女傑 浅草ロック座の母 |斎藤智恵子|2017年11月|竹書房|ISBN:9784801912717|△

 斎藤智恵子(1926~2017)は、ストリップ劇場『浅草ロック座』の名誉会長。35歳で東八千代の名でストリップデビュー。踊り子兼経営者として44歳の頃には全国で20館以上の劇場を経営。

 とくに勝新太郎とは、男女の仲だと噂されるほど。勝プロの運転資金を融通をするため、所有するマンション、ラブホテル、映画館を売り払うなど、運命共同体的な付き合い。

 1997年6月の勝の死後、「新太郎はもういないけど、座頭市はなくしたくない」という思いから、勝が売却していた映画化権を買い戻し、浅草つながりで交遊のあった北野たけしに頼み込む。以下、本書。

  ――「たけしさんが主演して、監督もするのよ」
 と言ったら、
「ええ! おいらが出るの!?」
 と慌ててましたね。
 たけしさんは、なかなか首を縦に振ってくれませんでした。それでも私は諦めきれなくて、しつこく何度もお願いしました。
〔…〕

「その代わり、勝さんのようにはなりませんよ」
「いいです。好きなようにやってください」
 盲目と仕込み杖という設定以外は、たけしさんの自由に撮ってもらう約束をしました。そしたら、
「金髪でやります」
(本書)

 座頭市に関しては中村勘三郎のこんな話がある(『白く染まれ――ホワイトという場所と人々』2005)。

 勝新太郎、ビートたけし、中村勘三郎の三人で飲んでいたとき、座頭市撮ろうって話になった。勝は座頭市の監督を「たけしおまえやってくれ」と言う。たけしさん乗っちゃって、「そいじゃあ私が座頭三をやりますから、勘九郎さん座頭二をやりませんか?」だって。……と勘三郎が語っている。
 こんなこともあり、結局たけしは映画化を引き受けたのだろう。

 北野武監督、ビートたけし主演『座頭市』は、2003年9月公開され、大ヒットした。

 ――たけしさんは、映画の字幕(エンドロール) にも、ポスターにも『企画斎藤智恵子』と入れてくださいました。そういう心遣いが嬉しかったですね。(本書)

裏社会の話も語られている。2015年1月、阪神大震災。

 ――早く助けてあげなきやいけないのに、お上の対応が遅くで、もたもたしているようでした。そんな中で、神戸の極道の方たちが率先してボランティアをやっている様子が、テレビニュースに映っておりました。〔…〕

 私はそんな様子を見ていて、居ても立っても居られなくなりました。何か協力したいと思ったんです。一緒にテレビを見ていた孫に言いました。
「肌着とかおむつとかカイロとか、今から買えるだけ買っておいで。トラック用意して積めるだけ積んで、神戸に行け。私が話を通しておくから」
〔…〕

私は“弱いいものに強く出る”ヤクザ者やチンピラは大嫌いですけど“弱きを助け強きを挫く”男らしい男というのは尊敬しますし、好きですね。(本書)

 ストリップ界のゴッドマザーなので、「色気は姿勢から生まれる」という話も紹介する。

 ――美しい姿勢を保つために、胸をぐっと出すんです。胸をぐっと出すためには腰に力を入れなければいけません。
「姿勢が良ければ、身に色気がつく」
とも踊り子たちに言って聞かせてきました。本当にそうなんですよ。姿勢が悪くて色気のある女性はいません。佇まいというものです。姿勢が美しいと歩き方も騎麗になります。歩き方だけでなく、ちょっとした仕草の一つひとつに品が出たり、色っぽさが出ます。
 (本書)







高田賢三◆夢の回想録――高田賢三自伝…………☆パリの“夢”のなかに生きたファッション・デザイナーの自画像

20180219

2018.02.19夢の回想録


 夜の社交界を知らなければ、パリのモード界の実像は永遠に理解できないだろう。

 オペラ座近くのサンタンヌ通りに「セット」という伝説的なディスコがあった。三人〔イブ・サンローラン、カール・ラガーフエルド、高田賢三〕はここの常連だった。 〔…〕

 服飾関係者のほか、名だたる芸術家、芸能人らがたむろしていた。ミック・ジャガー、シルビー・バルタン、アンディ・ウォーホル、フランシス・ベーコンもよく出入りしていた。パリのカウンターカルチャー、ゲイカルチャーの拠点でもあった。

 〔…〕「セット」は業界の最新情報を収集するためのサロンになっていた。シャンパンやワインで華やかに乾杯し、気の合う仲間と朝まで踊り明かす。ここで人脈が広がり、新しいビジネスが生まれ、そして、すてきな恋も芽生える。


◆夢の回想録――高田賢三自伝 |高田賢三|2017年12月|日本経済新聞出版社|ISBN: 9784532176297|○

 高田賢三は、1939年姫路市の城北に位置する梅ケ枝町の生まれ。姫路城での野外のファッション・ショーは地元での語り草になっている。

 当方が日頃ぶらりと出かけるのは、東は神戸、西は姫路だ。姫路はいま外国人観光客で賑わっているが、カラフルで華やかな神戸とは好対照で、地元の若い女性のファッションはケンゾーのイメージにほど遠く地味である。いやシックというべきだろう。

 上掲は、パリのディスコだが、ケンゾーはニューヨークのディスコへも出入りした。マンハッタン西54丁目にある伝説的ディスコ「スタジオ54」。ここで銀髪のかつら、蝶ネクタイを締めたアンディ・ウォーホルが“夜の帝王”として君臨していた。

 ウディ・アレン、ダイアナ・ロス、トルーマン・カポーティ、サルバドール・ダリ、ライザ・ミネリ、ジョン・トラボルタ、マイケル・ジャクソンら各界の人気スターらでにぎわっていた。ここでケンゾーは1977年にファッションショーを開催する。またウォーホルには肖像画を描いてもらうことになり、彼のスタジオ「ファクトリー」で写真を撮ってもらったが、急逝したため実現しなかったという。

 パリやニューヨークの夜の社交界を紹介したが、それは当方が1920年代のパリを想起したからである。20年代時代の画家たちはモンパルナスにあふれ、70年代のデザイナーたちはセーヌ川左岸を基地とした。

 藤田嗣治はモンパルナスに住み、隣りの部屋のアメデオ・モディリアーニと知りあい、後のエコール・ド・パリの面々、ジュール・パスキン、モイズ・キスリング、シャイム・スーティン、マルク・シャガール、パブロ・ピカソなど他国出身の画家たち、パリ生まれのモーリス・ユトリロらと交友をむすぶ。モンパルナスの「蜂の巣」が活動拠点の一つだった。

 さて、そして……。
 
 ――創造を続けるデザイナーには、それ理解し、共感し、励ますパートナーの存在が絶対に欠かせない。仕事でも私生活でも互いに寄り添い、固い絆で結ばれた人生の伴侶が必要になる。
 当然のことながら、相手は異性のこともあれば、同性のこともある。
 多くの教養や財力をもち、人間として尊敬できる相手でなければとてもその関係は成立しないだろう。イブにはベルジエ、カールにはジャック、そして私にはグザビエというそれぞれ男性パートナーがいた。
 日本人にはまだまだ理解しにくい世界かもしれないが、パリでは決して珍しいことではない。
それがモードの発信力にもなっていた。
(本書)

 「木綿の詩人」ケンゾーは、1970年、英国ビクトリア時代の水着や子どもの制服に着想を得たマリンルックを皮切りに、76年まで毎年新しい作風を展開する。
 80年代には、組織の株式会社化、メンズ部門、ジーンズ部門、子供服部門、香水部門などを拡充し、さらに「ケンゾー」ブランドのライセンス事業も行う。また、ニューヨーク・ロンドン・ミラノ・コペンハーゲンなどに店舗を設ける。

 ケンゾー自ら、「私の黄金期」は70年代から80年代の前半くらいまで、と語っている。世界のファッション・ジャーナリストたちの人気投票によると、テニス・ルックを発表した72年秋に首位、83年くらいまでは上位3以内にいることが多かった。だが、80年代後半になると「ケンゾーは商業主義に走りすぎているのではないか」とジャーナリストから批判され、一気に下落する。このころから、日本人勢では三宅一生、山本耀司、川久保玲らの人気が急上昇する。デザイナーの賞味期限は10年という定説があるそうだ。

 2017年の誕生日で78歳になり、大病からの回復を機に、仕事から私生活にいたるまでの半生を包み隠さずに回想してみようと思い立つ。
 
 ――私生活、人間模様、恋愛事情……。いまだからこそ語れる意外な秘話の数々に興味を持たれる読者もいるに違いない。特に仏LVMHモエヘネシー・ルイヴィトンによる買収劇や「ケンゾー」からの引退の舞台裏についてはずっと沈黙を守ってきた。その真相についても初めて明かそうと考えている。 (本書)

 ケンゾー・タカタ。パリの“夢”のなかに生きたファッション・デザイナーの自伝である。同時に、ファッション史の貴重な証言である。






発掘本・再会本100選★9・11の標的をつくった男――天才と差別-建築家ミノル・ヤマサキの生涯 |飯塚真紀子

20171031

20171031-9.11の標的をつくった男


世界各国が貿易を通して友好関係を築き、平和な世界を創り出す。差別を体験したミノルはそんな希望も持っていただろうし、それがWTCの本来の目的であった。

 しかし同時に、美しいものを作りたいという建築家としての強いエゴも、ミノルの中には必ずあったはずだ。〔…〕

 アメリカ資本主義を体現したWTC[世界貿易センタービル]が、イスラム建築風であったことは、

反米的イスラム原理主義者たちにとっては、受け入れ難いことだっただろう。


 オサマをはじめWTCの存在を苦い思いで見ていた人々がいたとしても不思議ではないだろう。


★9・11の標的をつくった男――天才と差別-建築家ミノル・ヤマサキの生涯 |飯塚真紀子 |講談社|2010年8月|ISBN: 9784062134118|○

  9・11で崩壊した世界貿易センタービル(WTC)を創った日系人建築家ミノル・ヤマサキの評伝である。忘れ去られようとしていた建築家は、9・11によって皮肉にも蘇った。ミノル・ヤマサキは、シアトルへ移民として渡った山崎常次郎・ハナの長男として1912年に生まれた日系2世である。

 シアトルのスラム街で差別と偏見のなかで育ち、戦時中にはニューヨークで日系人の強制収容に反対する人権保護活動をイサム・ノグチたちと行う。WTC設計にあたっても「なぜ、日本人建築家を雇わなくてはならないんだ」との偏見もあった。

 そのWTCの設計は、並み居る建築家を差し置いてなぜ中堅のミノルが受注できたのか、ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社(本書ではニューヨーク港湾局と表記)との設計完成までの、たとえば窓幅を狭くし柱の本数を多くするデザインをめぐるやりとりなど、WTC建設めぐる攻防はまことに興味深い。だが本書のハイライトでもあるので、ここでは記さない。

 1966年に始まった建設工事は、1973年に完成した。そして2001年9月11日、民間航空機2機をハイジャックしたイスラム系テロ組織アルカイダによってツインタワーは自爆攻撃を受け、約2800人の人命とともに消滅した。

 建築家の上西昇が語る。
「WTCは外に向けて爆発するのではなく、内に向けておじぎをするように崩れて行きました。それは不幸中の幸いでした。もし横に倒れていたとしたら、もっと大きな被害が出たでしょう。自滅して行くようなWTCの崩れ方を見ていたら、とても泣けて来ました」(本書)

 ところで神戸の東遊園地は、1.17の鎮魂の場である。その南に34階建ての高層マンションがあるが、かつてそこは神戸アメリカ領事館があった。1957年にできた東西に長い2階建ての領事館は、直線的でかつ優美さを感じさせる建物だった。この設計がミノル・ヤマサキである(日本建築学会賞受賞)。賑やかな周辺に比べ、この一角は静かだった。

 余談だが、東遊園地をはさんだ北側には同じ年に8階建ての神戸市役所ができた(1995.1.17で5階部分が壊滅)。丹下健三設計の旧東京都庁に似た建物で、当方は長い間、丹下が設計したものと勘違いしていたが、これは日建設計によるもので、優雅な巨船のようだった。

 さて、神戸領事館は、本書によれば、当時建設現場では米軍がジープで夜回りしていたが、浮浪者たちが鉄骨、真鍮など金になりそうな工事材料を盗んで行った、という時代だった。だがミノルは、夜はナイトクラブで踊りキャバレーで遊び、その翌日には女性たちが建設現場のミノルを訪ねて来たという。

 ミノルは四度結婚している。同じ日系二世のピアニスト平敷照子。つぎに「一度白人と結婚してみたかった」という理由から入院先で知り合ったペキー。料亭仲居のアツコ(すぐ離婚)。そして再度、照子と。

 生涯に250もの建物をつくったミノルだが、本人がもっとも愛していたのは滋賀県の山中にある神慈秀明会の教祖殿だという。〝カテナリー曲線〞という両端を持った一本の糸を上から垂らした時、張力だけで自然に成立する放物線状の曲線。屋根だけ吊るされたような建物だという。MIHOミュージアム(ミノルの設計ではないが建物もしだれ桜の導入道路もすばらしい)へ行ったとき、ついでに教祖殿をと思ったが徒歩で行ける距離ではなかった。

 ところでWTCに話を戻すが、ミノル設計のサウジの空港の絵がサウジの紙幣に印刷されているほど、ミノルはサウジの王室、政府と縁が深い。そこでWTCの噴水広場やツインタワーの配置が、アルハンブラ宮殿から発想されたとか、また、WTCのボトム部分のアーチがイスラム建築を彿彿させるとの説がある。9.11後に“後付け”されたものなのか。

ミノル・ヤマサキは1986年、73歳で死去。2001年WTC消滅を目にすることはなかった。

中原一歩★私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝 …………☆家庭料理のおいしさは、リピートなんです。

20170707

2017.07.07小林カツ代伝


 カツ代は生前、こんな言葉を残している。

「お金を払って食べるプロの料理は、最初の一口目から飛び切りおいしくなくてはならない。一方、家庭料理は違う。

家族全員で食事を終えたとき、ああ、おいしかった。この献立、今度はいつ食べられるかなって、家族に思ってもらえる必要がある。

 家庭料理のおいしさは、リピートなんです」

 何度も何度も家族にリクエストされて、そのレシピは、その家の味となって家族の舌に記憶されるというわけだ。



★私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝|中原一歩|文藝春秋|2017年l月|ISBN: 9784163903965 |○

 料理研究家小林カツ代(1937~ 2014)の評伝である。家庭料理の世界では、“カツ代前、カツ代後”という言葉があってもおかしくないほどの存在だったという。①おいしくて、早くて、安い、②特別な材料は使わない、③食卓にはユーモアがないといけない、の3つが小林カツ代の家庭料理。

プロの料理と家庭料理の違いを、カツ代は天ぷらを例に説明する。

 ――「家庭料理の場合、作り手も食べ手であるということです。だから、台所に立つ作り手も、食卓を囲む家族の一員として、熱々の揚げたての天ぷらを一緒に食べるにはどうすればよいかを考えなくてはならない」(本書)

 カツ代が考えたのは「少量の油で一気に揚げる」こと。これは「たっぷりの油で、少しずつ揚げる」という従来の常識とは逆。少ない湯でもみんながワーッと入ると水位は上がる、という“銭湯の理屈”。

 大阪の毎日放送(MBS)の「奥さん!二時です」へ「番組の中で料理を楽しく作ったらどうですか?」と投稿し、「じゃああなたがやってみませんか」と女性ディレクターに言われたのを契機に、のちのカリスマ料理研究家が誕生する。

 2005年6月、NHK「課外授業 ようこそ先輩」。大阪・堺市にある母校の小学校で「いのちを頂くつて何?」をテーマに授業をする準備をカツ代は進めていた。
 だが、堺市では1996年夏に学校給食から腸管出血性大腸菌O-157によって児童など約9000人が感染し、小学生3人が死亡する食中毒事件が発生したことがある。

 それがトラウマとなり、市も学校も多くの条件を付す。魚や肉を食材に使わないこと。「そうなると使えるのは野菜しかありません」。児童は手袋をつけること。「なんで野菜を素手で扱うことができないんですか。それでは実習の意味がない」

 このあとカツ代は「あこちゃん、頭が割れるように痛いの……」と内弟子・本田明子に告げ、倒れる。くも膜下出血。カツ代の授業が行われず、記録に残らなかったのはかえすがえすも残念。以後9年間という長い闘病生活の上、76歳で死去。

 著者は「創造と葛藤に満ちたカツ代さんの人生は、世代を超えて多くの人を勇気づける」と執筆の動機を語り、私生活の負の面や辛い闘病生活にはあまり触れず、“明るいカツ代伝”を貫いた。

「私が死んでもレシピは残る」

 たしかに厚さ4センチ『小林カツ代料理の辞典―おいしい家庭料理のつくり方2448レシピ』(2002)、過去の著書から復刻した代表作や初掲載レシピも合わせた『小林カツ代の永久不滅レシピ101―残したい、伝えたい、簡単おいしいレシピ決定版!』(2016)など、カツ代のレシピは今も売れ続けている。

(当方、ただいま原因不明の味覚障害に悩んでおり、文字だけで本書のレシピを味わうのも苦痛だった)



二宮敦人★最後の秘境 東京藝大――天才たちのカオスな日常

20170411

2017.04.11最後の秘境東京芸大



「何年かに一人、天才が出ればいい。他の人はその天才の礎。ここはそういう大学なんです」
入学時、柳津さんは学長にそう言われたという。

「ある意味、就職してる時点で落伍者、といった見方もあるのよ。就職するしかなかった、ということだからね。あいつは芸術を諦めた、みたいな……」
〔…〕

多くの藝大生が目指すのは、やはり作家だ。作品を売って食べていける画家、工芸家、彫刻家、作曲家。あるいは、演奏で食べていける演奏者、指揮者……。

 しかし、そんな存在はほんの一握り。
 何人もの人間がそこを目指し、何年かに一人の作家を生み出して、残りはフリーターになってしまう。それが当たり前の世界だという。


★最後の秘境 東京藝大――天才たちのカオスな日常|二宮敦人|新潮社|2016年9月|ISBN: 9784103502913 |△

 著者の妻が東京藝大生。その“奇行”に興味がでて、藝大生へのインタビューを集めた藝大“探検記”。

 東京藝大は、美術学部(美校)と音楽学部(音校)とがあり、1学年であわせ約500名の学生がいる。
 音校は、親が音楽漬けの人が多く、また金のかかる学部。教授と学生は、師匠と弟子の関係。
美校での教授は、アーティストであり指導者ではない。学生と互いに切磋琢磨する仲間のような関係。

 ピアノやヴァイオリンを小さい頃から始めるのは、早期から音感を高めるためだと思っていたが、違うようだ。卒業生の一人が言う。
「体が作られる時期に練習をすることで、楽器に適した体に成長するの。その時期を逃して後から始めると、もうそれだけで差がついちゃう」

 ――「ヴァイオリン奏者って、骨格が歪んでいるんです。ヴァイオリンは顎に当てて、こうして弾きますよね。すると顔の左右が対称でなくなったり、下側の歯並びが悪くなったり、足や腰の左右のバランスが変わっていったりするんです。そうしてヴァイオリンを体の一部にしていく」

 楽器を体に合わせるというよりは、体を楽器に合わせている。奏者はまるで、楽器を持って初めて「完全体」になる生き物のようだ。
「そうして、ようやく思い通りの演奏ができるようになるんです」(本書)

 平成27年度卒業生486名の進路状況。
 数字が合わないが、就職した人 48名。進学した人 168名。進路未定・その他 225名。大学院に進学する学生が多いが、約半数は“行方不明”だ。
 
こうして天才たちは“自分の道を突き詰める”カオスな日常をおくる。

 

大崎善生:編★棋士という人生――傑作将棋アンソロジー

20170115

2017.01.15棋士という人生



 酒と女、ばくちが彼を駄目にした、といわれた。
一部始終を見ていたわけでもない私にはなんともいえないけれど、他のことならいざしらず、勝負師が、自分を駄目にするほど他のことに没入するわけがない。呑む打つ買う、荒れれば荒れるほど、内心が冴えてきて、空虚なものだったろうと思う。

 将棋を知らない私が、強引に断言するが、また故人に対して失礼千万な記述だが、芹さんが低迷したのは、酒色のせいではない。

 彼の将棋が、どこかひとつ、列強を勝ちしのいでいけないものがあったからだ。彼を酒色に耽らしめたのは、その点に気づきはじめた内心だ。


どこが劣っていたのか、私にはわからない。ひと口に、強い弱いといっても、このクラスは天才同士の戦いで、総力戦である。将棋の実力は紙一重、自分のすべてを投入して戦うのだ。体力、人格、気質、運、その他あらゆるもの。どこかが弱ければそこを突かれる。

 ――色川武大「男の花道」



★棋士という人生――傑作将棋アンソロジー|大崎善生:編|新潮社|2016年10月|ISBN: 9784101265742|○

 当方、職場の仲間と麻雀に没頭したことはあるが、友人に手ほどきを受けた碁はものにならず、将棋は小学生のころルールを覚えた切りである。だが、山口瞳、団鬼六、本書の編者などの将棋についてのエッセイは大好物である。

 本書は、棋士、将棋記者、作家24人による将棋エッセイの名品を集めた新潮文庫オリジナルのアンソロジーである。さまざまな棋士が描かれているが、なかに芹澤博文自らの「忘れ得ぬひと、思い出のひと」、師・高柳敏夫の「愛弟子・芹澤博文の死」、作家・色川武大の「男の花道」と、“名人になれなかった天才”芹澤博文についての3篇が収録されている。

 色川武大は上掲に続けてこう書いている。

 ――そうして、芹さんが手をとって教えた弟分、中原、米長が、後から躍進してきた。
 もう十数年前のことだが、その年のB1の最終戦で、大野-米長戦、芹澤-中原戦が東京と大阪で同時進行という日があった。
 大野八段が勝つと無条件でA級復帰。大野八段が負けると、芹澤-中原の勝者がA級入り、という形だった。
 大野-米長戦は、米長の逆転勝ち。
 先に終った一戦の結果は誰も知らせないが、観戦者が急に増えたりするから気配でわかる。芹さんは終始優勢に進めながら、終盤でポカをやったらしい。〔…〕
 その一戦でA級入りした中原が、すごい勢いで名人位まで昇りつめる。(本書)


 師・高柳敏夫はこう書いている。

 ――芹澤が「もう将棋は済んでしまった」と諦めたのは、やはり中原との一戦があってのことでしょう。
 昭和44年。中原と芹澤、勝った方がAクラスに入れるという順位戦があった。これに勝てば芹澤はAクラスにカムバックできるわけです。
 最初は芹澤が優勢でした。しかし、芹澤は苦悶する中原の顔が見ていられない。そういう過敏な神経がありました。残り十分というところで棋勢がもつれてきた。芹澤が金捨ての鬼手を放った。しかし狙いの鬼手は飛打ちに桂の合駒が利いて成立しなかったんです。結局、芹澤は負けた。(本書)

 ――しかし私には、この将棋を指す前から、芹澤には中原に勝つ気がないんじゃないか、という予感があった。というのは、中原を叩きつけて自分が上がっていくということは、芹澤の性格からできないんですよ。(本書)

“伝説の人”芹澤博文(1936~1987)が死して30年、本格的評伝が書かれるのを期待している。

大崎善生□赦す人




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