神長幹雄◆未完の巡礼――冒険者たちへのオマージュ …………☆植村直己、山田昇の足跡を訪ねたマッキンリー、自然を畏怖する学びの旅

20180706

2018.07.06未完の巡礼


 植村直己が消息を絶ち、山田昇たち3人が遭難した山だというだけで、私には特別な山とい
う意識があった。もちろん厳冬期の烈風の厳しさは想像もできないが、しかしほんとうのとこ
ろはわかり得ない。

 厳冬期と夏ではまったく比較の対象にならないが、夏なら登頂のチャンスは多いだろう。

 ごく少数のライト・エクスペディションで登ってみたいという、極北の孤峰への憧れは強かった。

 あの白く大きな山容といい、6000メートルを超える適度な高度といい、氷河をいただいた氷雪の山といい、私たち登山者を魅了するいくつもの要素がマッキンリーにはそろっていた。


「時間はもうそれほど残されていない。今度こそ……」

 その憧れのマッキンリーのランディング・ポイント(2200メートル) に、2016年6月8日、私は、『山と渓谷』の著者でもあったアルパインガイドの木本哲を誘い、ともに降り立った。


◆未完の巡礼――冒険者たちへのオマージュ|神長幹雄 |山と渓谷社|2018年3月|ISBN:9784635178228|○

 著者神長幹雄(1950~)は元『山と渓谷」編集長。日本山岳会会員。

 植村直己や山田登たちでさえ、その生還を退けてきたマッキンリー(6,194m)とは、いったいどんな山なのか。神長は編集者として、事故で亡くなった登山家や冒険家の記録を、事故の現場に足を運ぶことなく取材と想像だけで原稿を書いてきた。
そしてついに6人の冒険者たちの足跡を訪ねる旅をする。それは「巡礼」にも似た旅だった。

 さて、上掲のライト・エクスペディションとしてマッキンリーを目指したのは、山田昇遭難の27年後である。
 6月8日、ランディング・ポイント(2,200m) に、その後3日行動して1日休養する行動パターンを基本に順調に進んできたが、登頂態勢が整ってきた11日目から天候が悪化、3日間雪が降り続き、ようやく14日目にやっとハイ・キャンプへ。そして15日目、デナリ・パスを越えた5,600mメートル付近で、著者はまことに単純な“大失策”を侵すことになる。

 ――写真を撮るため、私はまったく不用意に手袋を取ってしまった。化学繊維のインナーの上に厚い手袋をしていたのだが、何の気なしにインナーまで取ってしまったのだ。まったく迂闊なことだった。その間、約1分。
「手袋、取っちゃダメだ」
 木本の声でわれに返った。すぐに手袋をしたが、すでに指先は冷たくてジンジンしている。気持ちの上でもまったく余裕がなくなってしまった。どうしたわけか寒気までする。
「一度、下りよう」
 すでに気持ちが完全に萎えていた。しかも凍傷が怖かった。〔…〕右手の中指と薬指、左手の薬指の先端がすでに白く凍りついていた。
(本書)

 頂上まであと1時間くらい。しかし、頂上稜線の雪煙が風の強さを暗示していた。凍傷の指に自信がない。強行すれば最悪の場合、指3本切断の恐れを考え、断念。
 こうした「巡礼の旅」で著者が追悼したのは6人。

植村 直己1941~1984 マッキンリー冬期単独初登頂に成功。下山中に消息を絶つ。
長谷川恒男1947~1991 パキスタン・ウルタルⅡ峰南西壁から再度挑むが、雪崩により遭難。
河野 兵市1958~2001 北極点から1万5000kmの旅、696km行った地点で遭難。
星野 道夫1952~1996 取材先のカムチャツカ半島クリル湖畔で、ヒグマの事故により逝去。

 以上4名は、奇しくも43歳で亡くなっている。

山田  昇1950~1989 三枝照雄、小松幸三と共に厳冬期のマッキンリーで強風のため遭難。39歳。
小西 政経1938~1996マナスルに登頂後、下山中7800m地点で行方不明となる。57歳。

 タルキートナの町の歴史博物館には植村直己のコーナーがあり、古い資料に植村の言葉を見つける。

 ――「私はいつも全く新しい何かを探してきたということを強く感じています。私は自分がまるで世界新記録を0.1秒でも破ろうとする100メートル走者のように感じているのです」
 植村には珍しくはっきりしたものの言い方をしている。彼の新しい一面にふれたような新鮮な文章だった。
(本書)

 また群馬県沼田市の山田昇ヒマラヤ資料館を訪れときは、その前にある小さな記念碑の山田の言葉を紹介している。
情熱さえあれば努力さえずれば山登りほど自分の夢をかなえでくれるスポーツはほかにない」。

 辺境といわれる地域を旅してきた著者は「あとがき」でこう記す。

 ――自然は正直で、時に過酷です。だからそこに暮らす人びとは、自然を畏怖し、どこまでも謙虚で慎ましく生きていました。ヒトと自然との調和がいかに大切か、学びの旅になりました。

石川直樹◆極北へ


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石川直樹 ◆極北へ  …………☆植村直己が消息を絶ったマッキンリーへ、32年後に独り登る

20180704

2018.07.04極北へ


一人で進むデナリ登山は、自分との闘いである。自由であるがゆえに、あきらめるのも簡単だ。

雪上を一歩一歩進み、毎日テントを張り、食事を作って食べ、明日に備える。

吹雪になれば停滞し、好天が見込めれば動く。


時間を自ら管理し、進むも退くもすべての判断は自分が行う。失敗を人のせいにできず、七難八苦はすべて自分に降りかかってくる。

――「極北へ、ふたたび」


◆極北へ |石川直樹 |2018年3月|毎日新聞出版|ISBN:9784620324289|○

  北米大陸の最高峰、標高6,190mのデナリ山。元々は米大統領の名にちなんでマッキンリー山と呼ばれていた。デナリとは地元先住民の言葉で「偉大なるもの」、「高い山」という意味をもつ。
 
 アラスカの町タルキートはデナリ山の登山基地。ここの博物館で、石川直樹は飾ってある植村直己の写真を見て、今も大切にしている植村の文庫本『青春を山に賭けて』を思いだす。32年前に植村が消息を絶ったデナリへ、石川もここから単独で登るのだ。以下、植村の著書と本書とから登頂記録を比べてみる。

 植村直己(1941~1984)
1970年8月26日 マッキンリー単独登頂(この時点で世界初の5大陸最高峰登頂者となる)
1984年2月12日 43歳の誕生日にマッキンリー冬期単独登頂(世界初)。が翌日から消息不明。

 石川直樹(1977~)
1998年5月 日本山岳会気象観測機器設置登山隊の一員としてデナリ(旧称マッキンリー)登頂。
2016年5月 デナリ単独登頂。

 1970年、植村は単独行が禁止されているマッキンリーへ2年越しで粘り、ようやく書類上アメリカ隊入山の一員としての許可を得る。
 2016年、石川は60日前までにタルキートナのレンジャー・ステーションで単独登山の申請をし、入山直前に現在の天候・雪崩・氷河の状況と衛生上の注意事項などを含んだオリエンテーションを受ける。

 セスナでカヒルトナ氷河の上、ランディング・ポイントへ。標高2,140m、ここから頂上までは、距離にして28.5km、その標高差4,000m。頂上まで植村は7日、石川は11日かかっている。その間、猛吹雪、ホワイトアウト、白夜、快晴、猛風、……。氷点下23度。

 2人の単独行で、32年を隔てているのは、……。植村は途中誰にも会わない。石川は途中で前年にK2に一緒にのぼった仲間に出会ったのをはじめ、フランス人のパーティ、単独の日本人、モンゴル人、3人のアメリカ隊、イタリア隊、メキシコ隊と次々出会うことだ。登りと下りが交錯する“登山銀座”である。

 頂上では……、石川の場合。

 ――一つのこぶを越え、二つのこぶを越える。いくらなんでもこのあたりで頂上に着かないとおかしくないか。そう思ったとき、何メートルか先に杭が見えた。6月10日、15時58分、頂上に着いたのだ。二度目の頂だったが、横殴りの雪と灰色の空しか見えなかった。
 結局、イタリア隊とメキシコ隊は引き返し、アメリカ隊だけがほぼ同時刻に頂上に到着した。登頂した彼らの一人にカメラを渡し、杭の横で自分のことを撮影してもらう。〔…〕
 一人でこの頂に立てたことで、今までの遠征がそんなに無駄でなかったんだな、と思う。天気は相変わらずだったが、帰り道は不安が払拭されて少し気持ちに余裕がある。黙々と下った。
 (本書)

 頂上では……、植村の場合。

「オレはやったのだ」
 そう思うと、信念さえあればなんでもできると自信を強めた。そして、マッキンリーの頂に立つと、夢はさらにふくらんできた。〔…〕
 南は氷河の末端に無数の湖が散り、その先に緑が続いていた。北は白一色の氷の世界だった。私はまず三脚にカメラをセットして、セルフタイマーで自分の写真をとった。
 頂上には前の隊の残したポールが立ち、それにワタ菓子のように霧氷が巻きついていた。空はエベレストのときと同じく、雲ひとつない快晴、私はなんと幸運な男だろうと思わずにはいられなかった。
 (『青春を山に賭けて』) 

 植村は言う。
 ――しかし、山登りはたとえどんな山であろうと、自分で計画し、準備し、自分の足で登山する。その過程が苦しければ苦しいだけ、それを克服して登りきった喜びは大きい。 (同上)

 植村は、その後、43歳の誕生日にマッキンリー冬期単独登頂に成功するが、が翌日から消息を絶つ。

 石川は言う。
 ――一人でデナリに登れたこと、そして安全な場所に帰ってこられたこと、その安堵感が何よりも幸せだった。腹も減ったし、体の全部を使い果たしてもう動けないが、ぼくは満たされていた。わずか二週間の登攀が、ここまでの充足感を与えてくれる。だから登山はやめられないのだ。 (本書)

 本書は、デナリのほか、アラスカ、グリーンランド、カナダ、ノルウェーなど極北の旅が扱われている。とくにノルウェー最北部にある小さな町アルタの壁画(アルタミラ洞窟壁画ではない)が紹介されている。6,000年前、狩猟・漁撈民によって描かれた岩面刻画が5000点以上。これは見たい。

神長幹雄◆未完の巡礼――冒険者たちへのオマージュ




藻谷浩介◆世界まちかど地政学  …………☆北方領土返還を望む日本人は、「カリ一ニングラードとは何か」くらいは勉強しておかなければならない

20180702

2018.07.02世界まちかど地政学


 また仮に返還が行われても、今はスターリンやヒットラーの荒れ狂った時代ではなく、
現に島に住んでいるロシア人を追いだすことはできない。

 従って北方領土の返還とは、日本国籍を持たず居住権だけを持つロシア系住民を、日本国内に新たに多数抱えることだ。


 当然にそういう事態を想定しつつ、どうしていくのか具体的なイメージを持って返還を求めていかねばならないのだが、その認識、その覚悟は国民一般にあるのだろうか。


◆世界まちかど地政学――90カ国弾丸旅行記  |藻谷浩介|2018年2月|毎日新聞出版|ISBN:9784620324999|○

 世界の政治経済の変化の多くは日本国内では報道されておらず、現地に足を運ばなければ知ることが難しい。そこで「世界の実体経済についてのまちかど調査」と著者。

 ロシア共和国の飛び地として、EUの国々に囲まれて孤立しているバルト海の港町・カリーニングラード。そんな飛び地があることは知らなかった。ソ連が、第2次大戦時にドイツから奪い取った地。

 さっそく地図を開く。ドイツの東にポーランド、その北にロシアの飛び地カリ一ニングラード州がある。バルト海に接して、その北はリトアニア、ラトビア、エストニアのバルト三国、その東がロシアである。

 人口約100万人。「ドイツ人を完全に追放し、ロシア人を移民させ、建物の一つ一つまで根こそぎ“旧ソ連式”に造り替えられてしまった町」と本書にある。
 
 ――つくづく思うのだが、北方領土返還を望むすべての日本人は、少なくとも「カリ一ニングラードとは何か」くらいは勉強しておかなければならない。「東の果ての小さな島々を譲ることが、西の瑞の重要な軍港の帰趨を巡る議論を惹起しかねない」というロシアの立場を知らなければ、問題を進展させようはないはずだ。

 ――北方四島は、歴史的にどうみても日本の固有の領土なのだが、それを言うならカリーニングラードもドイツ、あるいはリトアニアやポーランドの固有の領土だったのである。少なくともロシアの領土であったことは第2次大戦以前には一度もなかった
。 (本書)

 著者は、ベラルーシの首都ミンスクからベラヴイア航空でカリ一ニングラードへ。こんな町にも2軒のSUSHIの看板。観光地といえば、市の中心部プレゴリヤ川の中州に哲学者カントにちなんだカント島、そこにあるドイツの援助で再建されたケーニヒスベルク大聖堂。世界の9割を産出する琥珀の博物館など。

 旧ソ連とドイツの両軍・市民合わせ30万人近い犠牲の上に、ロシア領に組み込まれたカリーーングラード。ドイツ史の主要な舞台として繰り返し登場してくるこの地域がドイツに返還される見込みはないだろう。バルト海の面し、不凍港として、ロシアの現バルティック艦隊の基地になっている。

 このほか本書では、「スリランカとミャンマーを巻き込む、インド対中華の地政学」「台湾・韓国・中国の高速鉄道乗り比べ」など、興味深い旅が掲載されている。

 巻末に「21世紀の『ソフトパワーの地政学』とは」という自著解説があり、その一部……。

 ――日本の地政学的位置に言及しますと、良くも悪くも(多くの場合には圧倒的に良い意味で) 「他の世界から放置されやすい場所」です。戦略的要衝性のない世界の東の果ての島嶼群で、天然資源にも乏しい。そのくせ地形と気候の妙から農業生産力が高く、歴史を通じてむやみに人口が多かったために、ますます誰も侵略に来ない。 〔…〕

 中国や朝鮮に至っては、文字記録が残る時代になって以降、倭冠討伐に対馬に来たのを除いて一度も軍隊を送って来ていないのです。
(本書)

 だから中国にとって日本がさも重大な位置にあるように騒ぐのは、ナンセンスだと。

 トランプ・金正恩の電撃会談以前に書かれた北朝鮮の核の脅威の排除については、「何でもディール(取引)にする経済人大統領トランプは、意外とこの間題の処理に適任かもしれません」と。

内田洋子◆モンテレッジォ小さな村の旅する本屋の物語 …………☆かつて人口850人のうち71人が“職業は本売り”

20180628

2018.06.28モンテレツジオ小さな村の旅する


「売れる本というのは、ページに触れるときの指先の感触や文字組み、インクの色、表紙の装丁の趣味といった要素が安定しているものです。(あの出版社の本なら)と、ひと目でお客に品格をわかってもらうことが肝心ではないでしょうか」

いの一番に、紙と余白の大切さを挙げた。〔…〕

「残念ながら、すべての本を仕入れることはできません。

本屋は、売る本を選ばなければならない。選んでいると、しみじみ幸福な気持ちになります。

そして、選んだからには真剣に売ろう、と背筋が伸びます


50年前の聞き取り調査に行商人の一人が答えている。


◆モンテレッジォ小さな村の旅する本屋の物語 |内田洋子|2018年4月|方丈社|ISBN: 9784908925290|○

イタリア・トスカーナ州の山間の村、人口32人のモンテレッジォ。8月の本祭りには多くの人が里帰りしてくる。

 昔、北イタリアで冷害が起こり、麦と桑が全滅した。モンテレッジォでは、この“夏のない年”のため農業そのものが消滅した。行商で売る産物がなく、村人たちが籠に入れて担いだのは、聖人の祈祷入りの絵札と生活暦。

 次に古本を売りに歩いた。版元から売れ残りや訳ありといった本を丹念に集めて、各地の青空市場で食料品の売り場の横で台に本を積んで売ったという。

 ――村勢調査によれば、1858年時のモンテレッジォの人口850人のうち71人が、〈職業は本売り〉と記載されている。 (本書)

 本の行商人たちを、一般書店は敵視したが、出版社はに重宝した。行商人たちは読者の関心や意見を足で拾いあげてきたからである。

 そのうち行商人の一人が露店ではなく書店を営み、ついには村の仲間5人と1908年に会社を設立するに至る。

 ――本を一カ所にまとめ置いて、各地へ商いを流すための結節点を作ったのである。仕入れから配本、在庫管理の流れを作り、仲間うちだけではなくイタリア全土に現れ始めていた本の露店商たちにも卸すようになっていく。つまり、イタリアで最初の出版取次の誕生だ。〔…〕各々が独立して出版業や書店経営へと多角化へ移行した。 (本書)

 著者が村を訪問する労をとった元村人の青年はいう。

 ――貧しかったおかげで、先人たちは村を出て国境をも越えていった。命を懸けた行商が、勇気と本とイタリアの文化を広める結果へと繋がっていったのです。読み書きのできなかった貧しい村人が、本を運ぶ。説明が付きません。奇跡のような話です。この不思議な力は、山の木々から湧いてくるのだと思います。 (本書)

Buon Viaggio‼

五月の歌。
春の訪れを喜び、皆の安泰を祝う。
村の男たちが集い、歌いながら一軒ずつ訪ねて回る。
各家は、ワインと手料理で歓待する。
行商人たちは、山開きの歌に送られ本を担いで旅に出た。
(本書)

イタリア市井の暮らしを綴った内田本を『ジーノの家』(2011)以降読み続けてきたが、『カテリーナの旅支度』(2013)を頂点に、その後はちょっと食傷気味。だが本書は“人”より“村”、“今”より“昔”に焦点を当てた。

本書は、神田神保町にある新しい小さな出版社〈方丈社〉から出ている。多くの写真が掲載されており、美しく村のイメージを喚起してくれる。また上掲にあるように“売れる本”の条件を満たした品位ある造本である。

2018.06.28モンテレッジォ

若林正恭◆表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬 ……☆短い休暇をキューバへの一人旅で充電してきました

20180528

2018.05.28表参道のセレブ犬


 もちろん、カストロもゲバラも魅力的だ。男として心酔したくなる部分も多い。しかし、革命博物館でぼくの心をとらえたのは彼らの政治的なイデオロギーではなく彼らの“目”だった。パティスタ政権を打倒しようとする若者のような目をあまり見たことがなかった。

 「明日死ぬとしたら、生き方が変わるのですか? あなたの今の生き方はどれくらい生きるつもりの生き方なんですか?」というゲバラの名言がある。

 ぼくは革命博物館で涙を流さなかったし、今の生き方も考え方も変えるつもりはなかった。だけど、ぼくはきっと命を「延ばしている」人間の目をしていて、彼らは命を「使っている」目をしていた。

 
 ゲバラやカストロの「命の使い方」を想像した。
 日本で生きるぼくの命のイメージは「平均寿命まで、平均よりなるべく楽しく生きる」ことなのではないかと、そんなことを初めて考えた。


◆表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬 |若林正恭|2017年7月|KADOKAWA|ISBN: 9784040693163|△

 著者若林正恭(1978~)は、お笑いコンビ“オードリー”の春日俊彰の相方である。当方の知っているオードリーは、春日が肉体を鍛え体育会系として活躍し、若林はBS JAPANで放映された『文筆系トークバラエティ ご本、出しときますね?』で、鼎談の司会進行を務めていたということだけ。

 若手人気小説家、長嶋有(1972~)西加奈子(1977~)村田沙耶香(1979~)羽田圭介(1985~)朝井リョウ(1989~)などを相手に、“タメ口”をたたいたり、上から目線で話すので、“お笑い”ってそんなに威張る存在なのか、年上のせいか、テレビでは“先輩”だからなのか、それとも著書を宣伝してやるからなのか、と疑念をもっていた(当方の感覚では「小説家>芸人」)。で、ちょっと興味を持って本書を手にした。

 『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』というたいそうなタイトルだが、以下に由来する。

 ――カバーニャ要塞内ではよく野良犬を見かけた。野良犬たちは、通りすがりの観光客に媚びてエサを貰っていた。
 東京で見る、しっかりとリードにつながれた、毛がホワホワの、サングラスとファーで自分をごまかしているようなブスの飼い主に、甘えて尻尾を振っているような犬よりよっぽどかわいく見えた。
 なぜだろう。

 あの犬は手厚い庇護を受けていない。観光客に取り入って餌を貰っている。そして、少し汚れている。だけれども、自由だ。
 誰かに飼いならされるより自由と貧しさを選んでいた。ぼくの幻想だろうか? それとも、キューバだろうか? 
(本書)

 書き忘れたが、本書は旅行記である。2016年、マネージャーから「夏休みが5日取れそうです」と聞き、ハバナへ一人で出かける。日本やアメリカのような“システム社会”でない国、社会主義国キューバへ。

  とはいってもフツーの観光旅行である。日本語のできるガイドやキューバ在住の日本女性に案内してもらい、革命博物館でカストロの展示を見たり、ゲバラの邸宅へ行ったり、ランゴスタ(ロブスター)を食べたり、モヒートを飲んだり、葉巻をくわえたり、最終の4日目には単独行動でバスに乗ってビーチへ出かけるが、……。わずかの休暇を一人で見知らぬ国へ出かける“充電”の旅である。しかし社会主義という固定した考えをなかなか解き放つには至らない。しかし、……。

「やりがいのある仕事をして、手に入れたお金で人生を楽しみましょう!」というニューヨークで発信された価値観、それでいいのか。と、自ら問いつつ。

 ――半ば、確信犯的にキューバの社会主義に癒やされるつもりでやってきた。だが、その目論みは外れそうだ。日本の自由競争は機会の平等であり、結果の不平等だろう。キューバの社会主義は結果が平等になることを目指していて、機会は不平等といえるのかもしれない。(本書)

 しかし本書で当方が興味を持ったのは、キューバの旅ではなく、売れっ子になった著者が「家庭教師」を雇っているという記述である。東大の院生にカフェでレクチャーを受けているという。

 格差社会、ブラック企業、人にスペックという言葉、などの疑問を投げかける著者に、家庭教師は「若林さん、世界史の教科書の産業革命以降を読んできてください。あと、経済学入門と日本史の教科書の戦後以降も。授業はそれからです」と言われ、ほとんど初めて世界史と日本史の教科書を真面目に読んだ、と書いている。

 なるほど、オードリーの二人は、得意分野は違うものの常にインプットを心がけキャリアアップしていると分かり、それが飽きられず人気を維持している秘訣だとわかる一書であった。

佐藤優◆十五の夏 上・下   …………☆高校生諸君、マサル15歳といっしょに1975年の中欧・ソ連へ旅立とう

20180524

2018.05.24十五の夏 上下


「僕たちの家族にとってマサルは親戚のようなものだ」

「しかし、資本主義国の人間と親しくしているとトラブルに巻き込まれるんじゃないかと心配にならないのだろうか」

「その辺は、何が許されることで、何が許されないことなのか、両親はよくわかっている。両親はマサルを通じて僕に世界は広いということを伝えようと考えている。
〔…〕」

「僕の両親もそうだ。〔…〕両親たちが若い頃は外国に行く機会がなかったから、僕には若いうちに日本と文化や社会体制の違う国を見せて、僕の視野を広げようとしている」

「それじゃ僕たちの両親は似たようなことを考えているわけだ」とフィフィは言った。


◆十五の夏(上・下)|佐藤優 |2018年3月|幻冬舎|ISBN: 9784344032705/ISBN: 9784344032712|◎おすすめ

記憶の天才、息を吐くように著述を重ねる佐藤優(1960~)のおびただしい作品群のなかで、当方は自伝もの、とりわけ1986~87年のイギリス語学留学時代の『紳士協定』(2012)、『プラハの憂鬱』(2015)が好きである。本書はさらにさかのぼって、1975年、高校1年時の中欧・ソ連への一人旅を描いたもの。ひと夏だけで上下合わせ800ページを超える大冊である。

初めての海外に中欧・ソ連を選んだのは、学習塾の教師に影響され社会主義に関心を持ったことと、ハンガリーの首都ブダペシュトに住む文通相手のフィフィに会うためである。

 エジプト航空で隣り合わせた六本木の社長に「これから、あなたが経験することは、あなたの一生に大きな影響を与えることになると思う。きっと商社員や、外交官など、海外で生活する仕事を選ぶようになりますよ」と言われたのをはじめ、高校生の一人旅の意義について、旅先で出会った人たちからさまざまな賛同の発言がある。すなわち読者を高校生に定めた本書のねらいの一つである。

 1975年7月21日・羽田(エジプト航空)→カイロ経由→スイス・チューリヒ(スイス国鉄)→シャフハウゼン(ドイツ鉄道)→シュツットガルト(同)→ミュンヘン(チェコスロバキア国鉄)→チェコ・プラハ→ポーランド・ワルシャワ(ポーランド航空) →ハンガリー・ブダペシュト(ルーマニア航空)→ ルーマニア・ブカレスト(ルーマニア鉄道)→〔ウクライ〕キエフ(ウクライナ国鉄)→ 〔ソ連・ロシア〕モスクワ(アエロフロート国内線)→〔ウズベキスタン〕サマルカンド(同)→ブハラ→(同)タシケント→(同)〔ロシア〕ハバロフスク(シベリア鉄道)→ナホトカ(バイカル号)→横浜・8月31日

 本書のハイライトは、ペンフレンドのフィフィを訪ねたハンガリー・ブダペシュトでの日々。これはいかにも“十五の夏”のできごとである。

 タクシーでフィフィの家を訪ねたが、家族でユーゴスラビアへ旅行中で不在。ドナウ川の中州マルギット島のホテルに宿泊し、知り合った17歳の美少女マルガリータの家を訪ねるも、不在。レストランで東ドイツから来た14歳の知的な少女ハイケの一家と知り合う。そしてフィフィ家に宿泊し、交遊の日々。二人の会話は英語。

 次は日本語を話す書店員に会いに行ったときの一場面。

――書店員は、僕のアタッシェケースを見つめている。
「佐藤さんは、どうしてキリル文字で氏名を書いているんですか」
 確かに僕は、黒いアタッシェケースの片面に白マジックでMASARU.SATO,JAPAN、反対面
に(マサル・サトウ、日本)とキリル文字(ロシア文字)で書いている。
「これからソ連に行きます。だから書いておきました」

「ロシア人もラテン文字を読むことができます。
ハンガリーだけでなく、チェコスロバキア、ポーランド、ルーマニアでもキリル文字は占領のシンボルなので、皆嫌っています。
 楽しい旅行をするためにもアタッシェケースのキリル文字は消しておいた方がいいと思います」
「わかりました。帰ってから消します」〔…〕
 もっともソ連では、このキリル文字が気に入られたので、もう一度、白マジックでなぞることになった。
(本書)

バラトン湖へキャンプ。野外ディスコ。お互いの家族の話。ハンガリー動乱の話。みやげ購入、ソ連製腕時計、社会主義国国旗セット。日ソ合作映画『モスクワわが愛』を観る。著者がフィフィの家族に御馳走するために炒飯(フライドライス)を作る。徴兵で軍隊へ行くフィフィの話、……。

 下巻は、ソ連の旅だが、「日ソ友の会」会長、都立高校教師などが登場し、講義めいた話が長々続くので、これはスルーした。

 ただし、モスクワは、本書の1975年より3年後の78年に、当方がシェレメーチエヴォ空港が最初に踏んだ海外の地であり、2泊してモスクワ観光をしたので、なつかしく読んだ。

 石畳の赤の広場、聖ワシリイ大聖堂、地下50mの急なエスカレーターとミュージアムのような地下鉄の駅、モスクワ川散策、丘のモスクワ大学、そのリンゴの街路樹、ホテルウクライナのジェジュールナヤ=鍵番(当方もバスルームの湯船に栓がないと訴えた)、インツーリストの若い通訳のあまりに巧みな日本語、中年以上の女性はみな太っている、など本書のとおりだった。

 騒がしい演奏のレストラン(ただしグルメの著者と違って何を食べたかまったく記憶にない)。そうだ、著者の得意分野にして本書の最大の特色。日々の食事の内容が詳細に記述されていることだ。満載、といっていい。たとえば、フィフィ宅での家庭料理……。

 ――前菜には、ハム、サラミ、チーズ、パテ、ピクルスがたくさん出てきた。どれもおいしい。ザワークラウトと肉団子の入ったスープも出てきた。メインは、ヒレ肉とマッシュルームをパプリカで煮込んだ料理だった。マルギット島のレストランで食べたパプリカの料理と味が似ていた。デザートには木イチゴのタルト、それに桃のコンポートが出てきた。コンポートは生温かったので、不思議な感じがした。 (本書)

 さらに旅行プラン作成にノウハウを駆使してアドバイスし、旅の心得をレクチャーするYSトラベルの知的で魅力的な舟津さん。胸につけていた「INTOURIST」のバッジをお金で買えないみやげですとくれたドモジェードボ空港でのインツーリストの責任者ターニャさん(おそらく下巻の表紙写真の人)。旅先での一期一会がすばらしい。

 著者が旅先で経験したホテルの確保や移動の手続きを具体的に書き込み、「英語で表現をしようと思っても、言いたいことの10分の1も言えない」けれど大丈夫、と読者である高校生に海外への旅を誘う。



角幡唯介◆極夜行 …………☆ ストイックな冒険、ストイックなノンフィクションから、衛星電話、ビデオカメラを使い、私小説ふう作品へ向きを変えた

20180430

2018.04.30極夜行


 実際、旅が進むほど私は犬に依存していた。予想以上に依存していた。犬に暗闇の目となってもらい白熊が来たときに吠えてくれることを期待していただけでなく、橇引きの力としても依存していた。

 だがそうした実務的な役割よりもはるかに、極夜の闇のなかでの孤絶感を癒してくれる精神的なパートナーとして私はこの犬に依存していた。正直言って、この長い間の世界の旅を犬なしで完全に一人でできるかと訊かれれば、それは不可能だと答えるよりはかない。犬はいるだけで私の心に平静を与えた。〔…〕

 そして、最終的には犬が死んだときにその肉を食えば自分は生き残れると考えることで死の不安から逃れることができていたぐらい、

私は犬に依存していた。


 犬の死肉を食うことで生き延びられるという依存形態は、現代人の常識的感覚からすればあきらかに歪んだものだ。しかし、私がこの犬と一対一で旅することで見出したかった人間と犬との原始融合状態とは、もしかしたらこういうものだったのかもしれない、とも思う。


◆極夜行 |角幡唯介 |2018年2月|文藝春秋|ISBN:9784163907987|○

80日間の極夜(きょくや)探検である。北極南極において一日中太陽が出ている日「白夜」に対し、一日中太陽が出てこない日が「極夜」で、長ければ数か月続くこともある。
 極夜という漆黒の闇を経て、初めての太陽を見る。そのとき何を感じるか。それが冒険の目的。と、著者は書く。したがって78日目に出会う太陽は、本書のクライマックスなので、その場面は引用することはできない。本書を読んでのお楽しみである。

当方が興味を持ったのは上掲の犬である。“同行二人”とも言うべき愛犬ウヤミリック(首輪の意)は、白い長い毛をもつ3歳、もののけ姫の狼みたいな40キロの巨体だが、人懐っこい。
 数々のアクシデントの末、角幡は犬の死肉を食うことになるのか。

 『アグルーカの行方』(2012)の北極探検で、麝香(じゃこう)牛の母親を銃殺し、その肉を食う場面があった。その仔牛の母牛を恋う悲痛な啼き声が、読者である当方の耳を離れなかった。その群れから取り残された仔牛まで撃ち殺したという残酷さ以上の場面が、本書に現れるのか。

 さてこの冒険は、グリーンランド最北のイヌイット約50人の猟師村シオラバルクを2016年12月6日に、角幡は愛犬と150キロの荷物を載せた橇を引いて出発する。だがたちまち標高差1000メートルのメーハン氷河で嵐に遭遇し、天測用六分儀を失ってしまう。

 自分で地図やコンパスで位置を確かめることは大きな創造的な喜びのひとつだとする角幡は、GPSという機械に判断を委ねれば冒険する意義を失うと、従来からストイックな立場を堅持してきた。

 だが“管理されたスポーツ競技場”と変わらないと言いつつ、“現実的に余計なものが存在”しているのでと今回は衛星電話を持参した。この衛星電話の携行によって命を救われることになる。

 さらにビデオカメラも持参し、月光や地平線の下にある太陽の明かり、ヘッドランプによってかすかに見える荒涼とした風景を撮る(『極夜――記憶の彼方へ~角幡唯介の旅』として放映)。

 冒険は、雪と氷の沙漠ともいうべき内陸氷床、起伏の乏しいツンドラの荒野、これを突っ切るとグリーンランドとカナダ・エルズミア島間にひろがる海に到着する。海岸線のアウンナットには地元民が白熊狩りにつかう無人小屋がある。ここまで約120キロ。さらに約50キロ先のイヌアフィシュアクにも小屋がある。

 この二つの無人小屋に、今回の極夜探検をおこなうために十分な量のデポ(事前に配置した食料や燃料) を運んでいる。ところが出発前にアウンナットの小屋が白熊に襲撃され、食料品が食い荒らされたという通報が入る。以下経過は略するが、マイナス30~40度、暴風と地吹雪に見舞われる。

 満月の下、荒涼とした地にで宇宙を歩いているような感覚となり、犬の餌が底をつき、獲物も獲れず、旅は崩壊寸前、夢遊病状態で角幡は帰還を決意する。2017年1月17日、43日目である。その1週間後に“奇跡”が起こる。

 ――「うおおおおおおおおっ! うおっ! うおおおおおっ!」
 私はベスビオス火山のように喜びを爆発させて、両拳を握りしめてヘラクレスのごとき雄叫びを三発はなった。
 雄叫びが全宇宙にこだました。
 (本書)

 村に帰還するのは2月23日。80日目である。

 ――自分が選んだ生き方の最高到達点を模索した作品といえるかもしれない。私は極夜を旅することで人生で最高の探検を表現しようと努力した。 (本書)

 この「作品」は「冒険」を指すのだろうが、「作品」が本書のことなら、読者として多くの不満がある。

 本書は、文章が練れていない。粗っぽい表現、大仰な表現が多い(上掲の“うおおおおおっ!”ように)。そしてなによりも重複部分が多い。
 
 これまで愛読してきた角幡の作品、『空白の五マイル』2010、『雪男は向こうからやって来た』2011、『アグルーカの行方』2012、『漂流』2016は、いずれも先人の冒険記録を追体験し、新たな解釈で記録を塗り替える作業を行った。

 しかし今回の『極夜行』2018では、追体験すべき先人の記録がない。命の危険、死と直面したのはツアンポー峡谷以来である。

 そこで作品は、冒険の実際を忠実に記録するのではなく、「東京医科歯科大学附属病院分娩室」という異質のプロローグから始まったり(これにより極夜の後の太陽という予定調和的な結末が分かってしまう)、「犬の死」という600字を超える掌編小説のようなものを挿入したり、そして冒険途中の“奇跡”を「単独行で第三者の目で事実検証できないから結局都合のいいところでフィクション書いているんじゃないの、などとアマゾンのレビューで書かれても仕方のないこの展開は」云々と読者を意識しすぎる書き方をしたり、など、……。

 ストイックな冒険、ストイックなノンフィクションから、衛星電話、ビデオカメラを使い、私小説ふう作品へ向きを変えたといえるだろう。もう後戻りできない。






いとうせいこう◆「国境なき医師団」を見に行く…………☆「俺が飢え苦しみ、俺が戦いに巻き込まれ、俺が犯されていたのだった」

20180322

2018.03.22国境なき医師団


「移動の間に、あらゆる暴力があります。レイプがあります。強奪があります。病気や怪我にさいなまれます。それでも彼らは安住の地を求めて動き続けるしかありません」

 彼らの地獄のような歩行、航海を想像しながら、俺は黙ってメモをとったものだ。

「しかし彼らは自分たちが非合法だと思っているから、誰を非難することもない。訴えることも出来ない。ただただ耐え忍んでいます。そしてひたすら、自分たちを通してくれと言うだけです。しかし、人道に非合法か合法かなどという区別はありません」

 そうでしょう? とマリエッタさんは無言で俺たちに問うた。もちろん俺たちはうなずいた。 〔…〕

「生きるために紛争を逃れてきた身に、非合法なんてことはあり得ません」 〔…〕

「彼ら難民の方々には、他の誰とも同じように尊厳があります」

 この言葉は日本ではいかにも浮いて聞こえるようになってしまった。だが、少なくともMSFギリシャ事務局長マリエッタ・プロヴォポロウが言う「尊厳」は本来的な重みを持つ言葉だった。


◆「国境なき医師団」を見に行く|いとうせいこう|2017年11月|講談社|ISBN: 9784062208413|◎=おすすめ

 国境なき医師団(Medecins Sans Frontieres=MSF)とは、紛争国や大災害地域で活動する若い使命感に燃えた医師たちの非営利団体だと思っていた。だが本書で、難民、貧困、性暴力頻発地域など多岐にわたり、医師だけでなく多様なスタッフで活躍していることを知った。

 MSFは世界各地に29事務局を設置。2016年は3万9000人以上の海外派遣スタッフ・現地スタッフが、約70の国と地域で活動。うちMSF日本からは107人を派遣し、34の国と地域で活動。経費はほぼすべて民間からの寄付。……とのこと。

「私たちは好んで危険な場所へ行くわけではないんです。きちんと安全を確保出来ると判断しなければ人員を送りません。貴重な人材の身を守ってこその弊団です」
 と語る広報の谷口博子さんともに、MSFの現場を見て、PRをしたいと著者は、ハイチ、ギリシャ、フィリッピン、ウガンダへ。

多くの現地スタッフが紹介されている。うち二人……。スタッフはあらゆる傷に絆創膏を貼る。絆創膏を貼るとは、事態の根本的な解決はその国にまかせ、緊急援助のみに集中する意味でつかわれている。

 フィリピン、マニラのスラム地区で活動する菊池寿加さん。

 ――自分で決める裁量も大きいし、プレッシャーを越えた達成感もあるし、わたしは迷いなく活動を続けると思います。ただし、MSFを聖人君子の集まりみたいに見ないで欲しいんです。こんな風にいつもビール飲んで、文句たらたら言って、悪態ついて、それでも働いてるんです。

 ギリシャで医療スタッフとして活動するシェリー(68歳)さん。

「家族もみんな独立して、ようやく私の番が来たから。ここに来る前はスワジランドに13カ月いたのよ。そして5ヵ月休んで孫の世話をたっぷりした。でもそろそろリタイヤしようと思ってます。
MSFだけが人生じゃないから。もうほどほどにして、他の生き方も楽しんでみなくちゃ」
 
 けれど、と著者は書く。
 ――彼女はやめられないのではないか、と俺は思った。世界に困難がある以上、彼女は力を尽くさずにいられないだろう、と。

 MSFには、文化的仲介者(カルチュアル・メディエーター)というスタッフがいる。

 ギリシャの地へシリア、イラク、エジプト、アフガニスタンから逃げてくる人々は英語を話せない。言葉を通訳し、それぞれの慣習を医師に説明する。さらに宗教的な都合を持っている。ケアを受ける側がまた抑圧だと感じてしまってはいけない。難民支援には文化的仲介者が不可欠なのだ。

 ウガンダについては、以下、状況を大胆に要約してみる。

 ウガンダは人口4,000万人、ここに隣国南スーダンなどから1年の間に100万人の難民が流入した(日本に250万人の難民が来たと思えばいい)。

  南スーダンといえば、日本の自衛隊が初めて武器携行をして出動をし、突然去ることになった国である。政府軍と反政府軍の紛争だ。稲田明美防衛大臣は「法的な意味における戦闘行為ではなく、衝突だ」と言った。防衛大臣はわずか7時間の滞在のあと「状況は落ち着いている」と語った。まさにその間、南スーダンの100万の人々は先祖伝来の畑と別れ、家族を亡くし、命からがら国境を越えていた。

 国境なき医師団(MSF)はウガンダ北部のビデイビデイほか4か所の難民居住区において、コレラ対策、基礎医療、妊産婦ケア、小児医療、外来診療、入院治療、救急医療、移動診療(アウトリーチ)、清潔な水の供給、衛生管理などなどを行っている。

 著者は書く。

 ――彼らが俺だと考えることであった。ずっとそう書いてきたのになぜ気づかなかったのだろうか。俺が出来る最善の行為がそれだった。

 彼らは水を待ち、食料を待ち、心理ケアを待ち、愛する者に会える日を待っている。
そして何より、「共感」を待っているのだった。自らの人生の状況に、解決よりまず先に「共感」して欲しいのだ。
〔…〕

 俺が飢え苦しみ、俺が戦いに巻き込まれ、俺が犯されていたのだった。俺がスラムに住み、神に祈り、沈んだ船から冷たい海に放り出され、屈辱を与えられ、未来への想像を奪われていたのだ。 (本書)

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吉田修一◆泣きたくなるような青空 …………☆観光で来日している外国人で日本語ができる人はほとんどいない。なのに彼らは日本観光を楽しんでいる。だから、……。

20180201

2018.02.01泣きたくなるような青空


 それでも海外旅行への興味はあり、あちらこちらに計画を立てるたびに付け焼き刃で勉強し、なんとか飛行機篇、ホテル篇、買い物篇くらいの英語は話せるようになっていた。ここで本腰を入れればよかっだのだろうが、

「よし、本気で英語をやろう」と思うのは、海外旅行から戻った直後だけで、

一週間もすればその熱意も冷めている。


 継続は力なりというが、「そろそろやろう」と思う気持ちだけは三十年も続いているのだから、そこをなんとか継続としてカウントしてもらえないだろうかと常々思う。

――「苦節三十年」


◆泣きたくなるような青空 |吉田修一 |2017年10月|木楽舎|ISBN: 9784863241190|○

 書棚を整理していたら古いパスポートが5冊出てきた。もっとも最近のものでも昨年末に切れている。とたんに朔太郎の「旅上」が浮かんだ。有名な「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し」の一節。せめての気ままな旅は、こう続く。

   汽車が山道をゆくとき
  みづいろの窓によりかかりて
  われひとりうれしきことをおもはむ
   五月の朝のしののめ
   うら若草のもえいづる心まかせに

  当方の旅は国内にシフトし、東北ひとり旅やミュージアム88か所めぐりをしている。朔太郎の詩は、新緑の頃の盛岡、酒田、象潟を思いださせる。

 海外へは30代後半から十数回でかけているが、心残りはオランダである。チューリップ畑を見て何が楽しいねんとノーマークだったが、じつはレンブラント、フェルメール、ゴッホの国である。アムステルダムの国立美術館、ゴッホ美術館、オッテルローのクレラー・ミュラー美術館、デン・ハーグのマウリッツハウス王立美術館を訪れたい。ついでにレンタ・サイクルで(ペダルの足が届かないかも)、運河にかかる橋の数々を渡りたい。

2018.02.01英語が喋れないチャリおじさんの旅

 オランダを自転車でという本を探したら、四方順次『英語が喋れないチヤリおっちゃんの旅――70日間にわたる抱腹絶倒ヨーロッパ8カ国4,000km』(2013)が見つかった。まさに当方が望んでいる旅である。

 著者は当時64歳。そのGPSを頼りの自転車旅、……。
 まずオランダ・スキポール空港着。アムステルダム中央駅まで電車で行こうと、自動券売機の前に立つが使い方が分からない。後ろの人に早くせよと肩をポンポン。窓口で買おうとすると、整理券で順番待ち。プラットホームで電車の乗るが、30分待っても動かない。その後いろいろ騒動があり、というのが初日。

 その後、ベルギー、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、フィンランドと70日の旅。自転車を盗まれたり、パスポートや財布を盗まれたりするが、ご本人は「楽しい自転車一人旅だった」と。

 何より魅かれたのは、以下の記述である。当方はもちろん英語ができない。

 ――言葉が全くできないことは、よくよく考えると日本に観光で来日している外国人で日本語ができる人はほとんどいない。また外国人から英語で話しかけられたら、しっかり答えることが出来る日本人は、そんなに多くはない。なのに彼らは日本観光を楽しんでいる。
 私が海外に旅したら、旅人の私と日本に旅している外国人は結局、同じではないかと。
(同書)

 ちなみにしばしば海外旅行をする吉田修一は、「なんとか飛行機篇、ホテル篇、買い物篇くらいの英語は話せるようになっていた」が、あるフライトでまったく英語が理解できない体験を綴ったのが上掲の「苦節三十年」。最近はもっぱら中国語の勉強だそうだ。

 というわけで、最近読んでいる旅のエッセイ本は、JAL機内誌『SKYWARD』に連載の浅田次郎「つばさよつばさ」シリーズ。もう一つは上掲のANN『翼の王国』に連載の吉田修一「空の冒険」シリーズである。

 吉田修一『泣きたくなるような青空』は、『最後に手にしたいもの』と2冊同時、しかも 紙書籍、電子書籍、audible(本を耳で楽しむオーディオブック)の3媒体同時発売である。

 旅慣れている吉田は……。スイス・ベルンの旧市街地を囲むように蛇行して流れているアーレ川で、人が溺れているのに驚き、しかしよくよく見ると、人やゴールデンレトリバーが気持ちよさそうに流れているのだ。そこで吉田修一も、靴と靴下を脱ぎ、Tシャツを脱ぎ、自らも川に流れるのである。
 
 当方もベルンに行ったことがあるが、アーレ川付近を散歩し、大聖堂尖塔のらせん階段を上り美しい瓦屋根の旧市街を眺めただけである。それはさておき、「空の冒険」シリーズの楽しみは、旅だけでなく、さりげないフレーズが散りばめられているところにある。例えば……。

 ――人とのつながりというのは、50年のうちでどれくらい会ったかではなく、どれくらい会いたいと思ったか、なのだと。 (本書)

発掘本・再会本100選★京都の平熱――哲学者の都市案内 |鷲田清一 …………☆“京都生活者”による市バス206番にそった京都ガイドという最強の京都論

20171225

2017.12.25京都の平熱


京都人がかつて「着倒れ」と呼ばれたのは、ひとつには、リミットが明確だったからである。

  一方に飾りの極みともいうべき舞妓さんの衣裳があり、他方にあらゆる飾りを削ぎ落とした貧相の極みともいうべき修行僧の出で立ちがある。〔…〕

  この両極は、それを裏返してゆく過程で深まる。「貧相」はアートとしての「わび」へと変成し、「豪奢」は余所のひとが顔をしかめる京都人の「うわべのつくろい」と紙一重である。


  が、いずれにしても中途半端ではない。そしてそれが京都人のファッションの感受性の振幅を極大にしてきた。

  京都という街は、服にかぎらず、人間も学問も建築も、「極端」がいろんなところに設置されてきたので、そのぶん、心おきなく顰蹙もののやんちゃや冒険ができた。


★京都の平熱――哲学者の都市案内 |鷲田清一 |講談社 | 2007年3月|ISBN: 9784062138123 /講談社学術文庫版:2013年4月|ISBN:9784062921671|◎=おすすめ

  著者鷲田清一氏(1949~)には、1990年代前半、毎月一度神戸までおいでいただいて、仕事でたいへんお世話になった。当時関西大学におられ、そして大阪大学へ移られたころである。その後あっという間に阪大総長になられた。先年、東北一人旅で仙台へ行った際立ち寄った「せんだいメディアテーク(図書館など)」の館長に鷲田氏の名があり驚いた。その人柄、その知性から、地元京都だけでなく全国でひっぱりだこのようだ。

  氏は、生まれ育った家から200メートルの距離に西本願寺があり、その前の大通りで野球をして遊んだという“京都生活者”である。その氏が、京都市バス206番にそって京都をガイドするというとびっきりの発想による他の追随を許さない最強の京都論である。手元の「京歩きマップ」に路線を赤鉛筆で書き込み、本書を再読した。

  この206番というバス路線は、両本願寺、八坂神社、北野天満宮など〈聖〉、宮川町、祇園、五番町、島原など〈性〉、京大はじめ約10の大学など学問所の〈学〉、歌舞練場、南座、映画館など〈遊〉が「入れ子になって、都市の記憶をたっぷり溜めこんでいる路線」なのだ。京都育ちであるゆえに、洋食屋、ラーメン屋、映画館、書店など固有名詞がたっぷりと。そのディテールが貴重。

  以下、いくつかの京都を紹介。

  ひっそりとした町家のあいだに、ぽつりぽつりと仕出し屋と和菓子屋があるが、これには特別な理由があるという。時の支配者はいつ変わるか分からないので、自治の文化をつくった日本最初の近代都市であると、氏はいう。

 ――(町衆たちは)大事なことはきちんと相談して決める。〔…〕寄り合いには場所が要る。身をすこしは開いて語りあうには酒や食事も要る。相談に訪ねるには手みやげも要る。だから、である。町内には最低一軒、仕出し屋が、そして菓子屋が必要になる。  (本書)

 京都は工業都市である。
 京都を代表する企業は、京セラ、オムロン、村田製作所、堀場製作所、島津製作所、任天堂、ワコール。三つの共通点があるという。
 第1にヴェンチャー企業であること。第2に伝統工業の技術を転移するかたちで、だれも予測しなかったような製品を編みだしたこと。第3にどれも精密工業であるということ。

 そういえば氏にお世話になっていた当時、当方の職場のメンバーは、出生地、現住地が京都・大阪・神戸がほぼ1/3ずつだった。このうち京都者は、デザインよりも技術に関心があり、進取の気風に富んでいるという共通点があった。

 その“三都物語”にしても、互いに「いけず」をいうのではなく、氏には温かな視線がある。
 
 京都人の立場から、大阪の安くて旨い食事、いいコンサート、神戸のエキゾチックな料理や洋服、空気もおだやかな海、山がすぐそばにある地形を褒める。そして、……。

  ――京都人と大阪人とは、「お上」に媚びを売らず、じぶんたち民衆の自治能力を信じている点で、隠れた共感をいたきあう。そのカと共感を怖れてか、明治政府は廃藩置県のときに、東は高槻(摂津富田)から西は芦屋の西(摂津本山) にまで広がり、堂島という「天下の台所」と船場という商いのまちを抱えた摂津の国を、大阪府と兵庫県に分割し、摂津の力を殺いだのであった。(本書)

  2000年、京都市は「京都市基本構想」を発表したが、氏がそのとりまとめ役。
  京都市民による京都市民への呼びかけであるこの提言では、京都人がこれまで「得意わざ」とひそかに自負してきたものを列挙し、これらをあらためてきちんと身につけることで、京都にやってくるひとたちをびびらせようというのである、と氏は書く。なるほど、これが京都人かと納得させられる。その6つとは、……。

〈めきき〉――本物を見抜く批評眼
〈たくみ〉――ものづくりの精緻な技巧
〈きわめ〉――何ごとも極限にまで研ぎ澄ますこと
〈こころみ〉――冒険的な進取の精神
〈もてなし〉――来訪者を温かく迎える心
〈しまつ〉――節度と倹約を旨とするくらしの態度


  さて、「一見さんお断り」について、氏はこう書く。
  ――けれども仲間の紹介があれば、一見さんでも深く受け容れる風習である。友だちが一人いれば細部まで入ってゆける街、それが京都だ。(本書)

  じつは当方の孫娘が、京都で一人暮らしをし大学に通っている。このため最近京都の本を読んだりしているのだが、卒業までに京都の何を“体感”してくるのか。まず京都人の友人をつくってほしい。「一見さんお断り」にならないために。



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