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発掘本・再会本100選★友情 ある半チョッパリとの四十五年 |西部 邁

2018.11.26友情


 ともかくカラオケは我らの気分を一向に盛り上げてくれず、暫しの沈黙がやってきたあと、彼は俯いた姿勢で静かにいった。

  君は、今、何を考えているんだい。

 私は即座に、ごくあっさりと答えた。〔…〕

  公にやることがなくなったら、そしてそれ以上生きていたら周りに迷惑をしかかけないということになったら、自分で死ぬしかないと考えている。

 彼のほうもすぐ、私と同じくあっさりと反応した。

  そういうことだよな。  


 互いに、普段から繰り返し考えていることをぽつんと口に出すといった調子の会話であった。


★友情 ある半チョッパリとの四十五年|西部 邁|2005年4月|新潮社|ISBN: 9784103675044|○

 上掲は、西部邁(にしべ すすむ、1939~ 2018)が、5年ぶりに出所してきた海野治夫と札幌薄野のバー・トリノで再会した場面である。ママの平山妙子、海野、西部は札幌の中学の同級生である。

 このとき西部は口に出そうか出すまいか、迷っていたことがあった。それは海野が刑務所を出てきたら「拳銃を手に入れたい」と申し出ようと考えていた。自死が必要になったときの備えにである。だが出てきたばかりだったので、結局は黙っていた。

 ――それからちょうど1週間後に、彼は(ある寺の境内で)焼身自殺した、もしくは(銭函の河口で)投身自殺した。 (本書)

 中学2年のとき、西部は海野と出会った。屋内の運動場で週に一、二度は顔を合わせ、バスケットボールを黙って蹴って、黙って蹴り返すだけ。その30分は級友たちが教室で弁当を食べている時間であった。

 西部は、強い吃音癖と空腹感からきた欲求不満の捌け口として、書店で参考書の万引きを繰り返す少年だった。海野は赤いカーディガン、女もののヒールを履いて、奇声を発する少年だった。

 だがふたりは、学業成績においてはつねに最高位にいた。担任の女教師が結婚退職するとき、同僚に「あの生徒は自分の思う通りに生きるしかない性格だ、自分の道を進めと励ましてやってほしい、何か問題が起こったら慰めてやってほしい」と頼んだという。そういう教師がいた時代である。

 ――海野にせよ私にせよ、いや海野は私の何倍もの感受性で、そうした励ましに敏感であった。 (本書)

 やがて海野は高校を中退し、土方になる。西部は一浪ののち東大に入学する。

 ――私が学生運動にかかわって留置所や拘置所に出入りしていたころには、彼の方は、札幌のある暴力団の先鋭を行動隊員として生死の境をくぐり、そして刑務所に向った。 (本書)

 海野にとって痛恨事がふたつある。交通事故を起こし、相手の車の助手席にいた若い男の子が死に、彼の車に同乗していた妻が重傷を負う。もう一つは、自分の子分が地上げのために恩人の店に放火し、自らも放火の汚名を被せられる。

 50代に入って、ふたりは札幌で再会する。このときの西部の要請に応じて、海野は400字詰400枚の“自分の父親にたいして誇りをもっていいのだ”という娘への遺言の手記を残す。朝鮮人の父、日本人の母をもつ“半チョッパリ”の少年時代が克明に記されていた。

 海野治夫がニセコの山の麓で“抗議の焼身”か、銭函の浜辺で“絶望の入水”かで自死する。その8年後に海野の妻と娘であるふたりのK にむけて本書が書かれ、21年後に多摩川で西部邁もまた自死する。

 



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