石山俊彦■歌舞伎座五代――木挽町風雲録
03/芸というもの - 2014年01月08日 (水)

こんぴら歌舞伎、七月の大阪・中座、正月の浅草公会堂、コクーン歌舞伎、平成中村座……。波が打ち寄せる海岸でも、高校の体育館でも、彼は求められればどんなところにも行って芝居をした。
それは誰も止めることができなかった。松竹の興行関係者は、勘九郎が言い出す突拍子もないアイデアに慌てふためき、頭を抱えながらも、必死になって付いて行った。むろん、さまざまな批判や雑音もあった。興行的に採算が取れないものも多かった。
しかし、勘九郎は、自分が最も客を呼べる役者だという強烈な自負を持ち、熱い芝居で歌舞伎の観客層を若返らせ、裾野を広げた。
それまで歌舞伎にはなかったカーテンコールやスタンデイングオベーションが沸き起こったのは、
勘九郎の芝居からである。
その当否はともかくとして、観客は勘九郎の芝居の持つ熱気を、劇場というライブ空間において肌で感じ、自然にそう反応したのである。
■歌舞伎座五代――木挽町風雲録 │石山俊彦│岩波書店│ISBN:9784000259248│2013年10月│評価=○
〈キャッチコピー〉
歌舞伎座125年の歩みを、キーパーソンである興行師に焦点を当てて、歌舞伎取材歴20年余の著者が丹念に綴る。個性的でしたたかな興行師と役者が織りなす人間模様――明治・大正・昭和の世相を背景に、芝居に賭けた男たちの生きざまを、鮮やかに描き出す。
〈ノート〉
歌舞伎座が木挽町にできたのが、1889(明治22)年。大日本帝国憲法が公布され、東京市が誕生、新橋神戸間の東海道線が全通した年である。その創設にかかわった福地源一郎をはじめ興行関係者に焦点を当て、歌舞伎座120年余の歴史を綴ったもの。
桜痴は、荒唐無稽、卑猥な従来の演劇を「改良」を目的に歌舞伎座をつくったが、自らの新作でこけら落としを飾ることが叶わなかった。「木挽町風雲録」と副題にあるが、そう呼ぶには物語の深みに欠けるが、2013年4月に開場した第5期までを、足早に駆け抜ける手際はみごと。
当方、初めて歌舞伎を観たのは大阪松竹座が実演を始めた1997年。贔屓の役者や演目に興味があったわけではなく、ただ伝統的な様式美の空間に身を置くという経験をしてみたかった。最後に見たのは、2010年11月。大阪城西の丸庭園特設芝居小屋、平成中村座。
上掲勘九郎のちの18代勘三郎の「法界坊」。天衣無縫の勘三郎、いなせで涼しげな橋之助、息子の勘太郎(現・勘九郎)、七之助、それに扇雀、笹野高史など。バックステージが開き、本物の大阪城を背景に桜吹雪の中での大立ち回りが圧巻だった。「来年もきます」と舞台挨拶があったが、実現しなかった。
――新劇場竣工まで半年を切った[平成]24年12月には、勘三郎が57歳の若さで、そして開場を2カ月後に控えた25年2月には団十郎が66歳で亡くなるという、思ってもみなかった悲劇に見舞われた。新しい歌舞伎座で最も活躍が期待されていた二人の死は、あまりにも大きなダメージであった。〔…〕大きな喪失感が晴れないまま、25年4月、第5期の歌舞伎座が竣工、その偉容を現した。(本書)
〈読後の一言〉
歌舞伎役者は、どの役でも演じられるよう、幼いころから稽古を積み重ねている。だから急病がなっても誰かが代役を勤めることができる。このことが月25日昼夜2部制興行という無理なスケジュールを生み、役者の健康を損ねる遠因になっているようだ。
〈キーワード〉
勘九郎 勘三郎 スタンデイングオベーション
〈リンク〉
山川静夫●大向うの人々―― 歌舞伎座三階人情ばなし
宮崎三枝子■ 白く染まれ――ホワイトという場所と人々
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