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高橋輝次:編著◎タイトル読本       …………☆出版の最大難所……、ひとりでひらめき、2人で相談、3人以上で会議は踊る

2019.11.11タイトル読本




 あまり題のつけ方がへたくそなものだから、すっかり居直ってしまって、タイトルなんか、もうどうでもいいや、とやけくそになっていた6年ばかり前のころ、陳舜臣さんがある新聞に書いた文章が目にとまった。漢詩には元来、題なんかなかったはずだ、との趣旨で、そこには

「漢詩の題であまり奇抜なものはない。卓越した着想があれば、それは詩のなかで表現すべきである、という考え方であるらしい。

題がことごとしくては、かえってめざわりなのだ」


とあった。

 この文章を読んだときにはすっかりうれしくなってしまい、さすが詩の本場の人はいいことをいうと、手を打たんばかりに興奮したのを覚えている。

 考えてみれば、わが国の短歌や俳句にだっていちいち題なんかつけないのが普通である。それらより少々長いからといって、詩にタイトルを付す必要なんぞ、初めからないのかもしれない。せいぜい個々の作品をまとめて一冊の詩集にするときにだけ、全体をひとことで象徴するタイトルを考えればいいではないかと、いまのわたくしは思っている。

 ――「題をつける」北村太郎

◎タイトル読本/高橋輝次:編著/2019年9月/左右社/SBN:9784865282450/◎=おすすめ


 本というものは、中身を読まなくてもただ題名をながめているだけで楽しいから不思議だ。

 だからこそ本屋さんを見つけると、素通りできずについ立ち寄って、書棚の間をいつまでもさ迷ってしまう。そのうち、とある題名と視線が合い、一瞬星がきらめくように恋に落ち、中身をよく調べもしないままその一冊を抱えてレジに向かう事態となる。
 (「背表紙たちの秘密」小川洋子)

 その「一瞬星がきらめくように恋に落ち」る題名とは、いかなるものか。
 本書の惹句はこうだ。

 ――作品完成までの最大の難所「タイトル」をめぐる会議の内幕と、つける際のヒントを明かす51篇のアンソロジー。ひとりでひらめき、2人で相談、3人以上で会議は踊る……。

 いいタイトルは、こう定義する。

 いいタイトルとは、少し変っていて、その作品にしかつけられないタイトルで、だから誰かが真似をすればその作家の品性が問われるほどの独自性を持っているタイトル、ということになる。 (「表題」筒井康隆)

 飾りすぎてはいけない。素っ気無くてもいけない。意味がなくてはならず、意味深すぎてはならない。結末まで読んで「なるほど」と膝を打つ“考えオチ”タイトルはニクイ趣向。でも、最初から“ネタばれ”タイトルでは興ざめというもの。 (「タイトルの妙」宮部みゆき)

 このため、いや、売れるように、編集者が作家に注文を付ける。

「とにかく題名は大切です。短篇1つ書きあげる労力を10とすれば、題名のために3くらい使っても惜しくない。それくらい題名のよしあしは決定的です」 (「小説の題名」阿刀田高)
 
 極端にいえば、文学賞の作品選考においてもタイトルがうまいというだけで、かなりの評価を与えてもいい、逆にいうと、内容がまずまずだとしても、タイトルがよくなければ、その作家の資質に首を傾げたくなることがあります。 (「題名とネーミング」渡辺淳一)

 いま手元にある大島真寿美『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』は、俳句の三段切れのようなタイトルだが、渡辺淳一が選考委員だったらこの名作も直木賞受賞はなかったでしょうね。 

 難しいのはエッセイ集のタイトルだ。
 たとえば津村記久子は「没タイトル拾遺」のなかで、「わたしが持っているおもしろい話の半分は、ほとんどは電車か飲食店の盗み聞きで得たものだ。そのぐらい、公の場で他人が不意に始める話のいくつかは興味深い」としたうえで、エッセイ集のタイトル案を……。

「チャーハン定食の食べ方」
「帰りの電車で隣の客がしゃべり始める」
「わたし以外の人は皆仲がいい」


編者注があって、「以上のタイトルはすべて没になったようで、出版されたのは
「やりたいことは二度寝だけ」
になっている」。このタイトル、正解とは思えないが。

 繰り返すが、エッセイ集はふつう話題が多岐にわたっているのでタイトルをつけるのは難しい。本書から離れるが、いま手元にある東海林さだお『ざんねんな食べ物事典』。魅力的なタイトルで手にとったが、ざんねんながら“事典”ではない。『オール読物』連載の『男の分別学』を改題したもので、そのうちの1篇が「ざんねんな食べ物事典」である。このように一部分だけを取り出すやり方が多く、“名は体を表さない”。

 倉橋由美子は「タイトルをめぐる迷想」のなかで、前回のエッセイ集は『最後から二番目の毒想』としたし、今回が10年ぶりのエッセイ集なので、一番気に入っている勝海舟の「コレデオンマイ」というせりふのまま『コレデオンマイ』としたかったが、不採用となった。それなら『転居のお知らせ』というのはどうだろうか。「転居」とはあの世への転居を指す。生前に死亡通知の挨拶状というつもり。という紆余曲折があって、タイトルは『夢幻の宴』に決まる。自分の死後も続いていくだろうこの世の中のことを夢幻の宴と見立てただけとのこと。

 倉橋は冒頭に山田風太郎『人間臨終図鑑』を座右の銘の書だと書いているが、その風太郎が『コレデオシマイ。』を出したのは1996年のこと。倉橋のこの『コレデオンマイ』としたかったと書いた「タイトルをめぐる迷想」がいつ執筆されたかは不明だが、このエッセイを収録した『最後の祝宴』は、倉橋の死後10年目の2015年に刊行された。

 作家たちはタイトルに悩む。

 ぼくの知っている作家で、題名を誰かが考えてくれるのだったら、金を出すという人がいる。何百枚かの苦しい原稿書きと、題名を考える苦しみは同じだとまで、極言している。 (「題名をめぐる苦しみ」小林信彦)

 タイトルはしばしば社会現象となり、流行語になる。

 有吉佐和子さんの『恍惚の人』が戦後第一のベストセラーになって、日本中に読者層がひろがって行く間に、作者が脳軟化症の老人の瞳の色を形容した恍惚という言葉がいつの間にか、形容詞から名詞に変化し、慣用語になってしまった。 (「小説の題名」円地文子)

 だが円地は、「コオコツ」は、恐らく、常用語として定着せず、いつの間にかほかの言葉に置き換えられるのではないかと思う、とも書いている。さすがに作家は鋭い。「恍惚の人」は「呆け老人」、「痴呆症」となりいまは「認知症」と呼ばれている。

 映画のタイトルが原題をそのままカタカナに置きかえるケースが圧倒的に多くなり、高齢の映画ファンを憂えさせている。

 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』という映画があったが、これが日本語の映画の題名だろうか。ポスターにタイトル文字を収めるのにも苦労するような長い題名で、むろん新聞の劇場案内の小さな欄には収まらない。 (「字幕と題名」戸田奈津子)

 たいていのカタカナ表記の題名には驚かなくなっていたわたくしも、これには開いた口がふさがらなかった。英語を習いたての中学生だって、このタイトルの英文をこんなふうに発音しはしない。「ワンス・アポンナ・タイム・イナメリカ」というように読むに決まっている。〔…〕
 「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」なんて言い方は、この世のどこにも存在しないお化けことばの表記なのだから。
 (「題をつける」北村太郎)

 この映画はセルジオ・レオーネ監督の作品だが、3部作のもうひとつ「Once Upon a Time in the West」は日本では『ウェスタン』と改題し、公開された。十数年を経て映画は原題をカタカナ化するようになったようだ。

 当方は、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』とか『L.A.コンフィデンシャル』とか『ゴッドファーザー』とかを、「昔々という意味か」などと辞書を調べながら見るのが好みだ。
 カタカナ置き換えが不評の代表作だったのに懲りず、同様の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が公開されているが、はやく見たい。

 さて上掲の「題をつける」北村太郎にもどるが、引用されている陳舜臣の言葉がすばらしい。「タイトル読本」などと騒ぐなとたしなめているようでもある。

 ただ「短歌や俳句にだっていちいち題なんかつけない」とあるが、清水哲男「詩の題」では、俳句の「季題」はタイトルではないかといった意味のことを書いている。
 また「タイトル」と「本文」は、「問題」と「解答」のようなもの、つまりタイトルは「問い」で本文は「答え」だと言っている。そして詩を書くときは、「解答」を書いたのち「問題」を設定せよと。

 本書で残念なのは、サブタイトルへの考察がないこと。小説ではまだ少ないが、エッセイ、ノンフィクションではサブタイトルが多用されている。サブタイトルは、作者や編集者の“自信のなさ”か、タイトルに“惹句”まで込めたものか。

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