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篠田博之◎皇室タブー――昭和~平成~令和と皇室タブーの変容を探る!       …………☆タブーの呪縛から逃れられないメディア騒動の数々

2019.12.06皇室タブー



 元一水会の鈴木邦男さんとはもう長いおつきあいだが、鈴木さんは『創』が皇室タブーの特集を組む時には、よく登場して「皇室タブーなんてどこに存在するのだ」という論を張ってきた。

つまり、
 今では皇室タブーと言われるものはほとんどが出版社の自己規制によるもので、

 言論に対する覚悟を失った編集者や記者がそう言っているだけだ、
というわけだ。

 それもまた当たっていると言わざるをえない。ただそうは言っても、皇室タブーと言うべきものが少なくとも昭和の時代までは重たい現実として日本社会を覆っていた、あるいは変容しながら今も覆っていると言ってよい現実もある。

◎皇室タブー――昭和~平成~令和と皇室タブーの変容を探る!/篠田博之/2019年7月/創出版/ISBN:9784904795583/〇


 篠田博之(1951~)は、『生涯編集者』(2012)の著書をもち、約40年、『創』の編集発行人を務めるジャーナリスト。

 「菊のタブー」は、昭和、平成、令和という時代にどのように変容してきたのか。1980年代以降の皇室タブーにかかわる事件を、『創』掲載記事から振り返ったもの。以下、本書の扱った事件を掲げる。

1983年:“天皇暗殺”小説「パルチザン伝説」出版中止事件
1984年:“天皇不敬イラスト”掲載の『新雑誌X』襲撃事件
1985年:浩宮殿下の“恋人”直撃インタビュー記事掲載の講談社『ペントハウス』回収事件
1986年:富山県の美術展での天皇コラージュ作品事件

1988年:天皇Xデーのテレビ局マニュアルを掲載した『創』編集部やテレビ朝日へ街宣騒動

 著者の『創』も、「天皇Xデー・昭和最後の日」という昭和天皇の死去を想定したXデー記事で、8台の街宣車と40人以上の右翼の攻撃を受ける。新聞は予定稿を、テレビはVTRを準備するが、特集記事の末尾に、テレビ朝日の「昭和史特別番組放送内容」など具体的な番組表など“極秘資料”を掲載した。
 これに対し、『創』編集部、広告スポンサー、テレビ朝日へ抗議が行われた事件である。

1993年:皇太子浩宮殿下と雅子妃のご成婚時に“パロディ・イラスト”掲載の『週刊実話』回収と小林よしのり「ゴーマニズム宣言」掲載の『SPA!』差し替え
1993年:『週刊文春』『宝島30』美智子皇后バッシング騒動と皇后「失声」から両社への銃撃事件へ
1996年:『経営塾』子宝に恵まれない皇太子妃“架空身の上相談”記事への抗議


2000年:雅子妃呼び捨て記事の『噂の眞相』編集部への暴行流血事件

 『噂の真相』の各ページの欄外に「1行情報」という欄があり、そこに「雅子が再び5月に『懐妊の兆し』で情報漏れ警戒した宮内庁が箝口令の説」と書かれていた。
雅子妃が敬称なしの呼び捨てで書かれていたことに右翼団体が抗議に訪れ、岡留安則編集長は灰皿で殴られ6針縫うけが、川端幹人副編集長はろっ骨を折るけがをした。

『噂の真相一行情報大全集』(2004)に、当時の編集スタッフの話がでている。

神林広恵――あのとき、編集部に設置してる防犯用カメラが襲撃シーンを記録していて、その映像をウェブで流したんだけど、あれも岡留さんのアイデアだよね。
西岡研介――そうや。四谷署で事情聴取中に思いついたみたいで、トイレから編集部に電話してきて「すぐにウェブで流せ!警察には内緒。証拠として押収されるまえに早く流せ!」って(笑)。自分たちが襲撃されてる動画流すって、転んでもただでは起きん人や、と感心したわ。

 岡留安則(1947~2019)は、そういう編集発行人であった。

2006年:『週刊金曜日』主催の集会での“皇室パロディ寸劇”への抗議
2008年:映画「天皇伝説」渡辺文樹監督逮捕と上映阻止事件
2007年:ベン・ヒルズ著『プリンセス・マサコ』、講談社翻訳出版中止事件
2016年:「皇太子さまに諫言申し上げます」記事の『WiLL』編集部へ侵入破損事件
2018年:昭和天皇ピンク映画『ハレンチ君主』公開中止事件

2018年:秋篠宮家長女結婚延期騒動

 2019年5月、平成から令和に代わり、皇太子徳仁(なるひと)親王は第126代天皇に即位した。この前後から皇后となった雅子妃へのメディアのバッシングが止まり、逆に絶賛の嵐となった。
 そして秋篠宮家へのバッシングが強烈になった。

 小室圭さんとの結婚延期問題の長女眞子さま、ダンスに夢中で就職もしていない次女佳子さま、学校では友達ができない悠仁(ひさひと)さまなど、秋篠宮家の“教育方針”へのバッシングが現在も続いている。

 むかし読んだ小沢昭一『あたく史外伝』 (2002)に、こんなエピソードが語られている。

  彼等はすぐ帰りかけましたが、そのリーダーらしき生徒が、靴をはきながらうつむいたまま小声で、
「僕、アヤノミヤです」
 とつぶやきました。
 エエッ!? アヤノミヤ!! あっそうか!! 今日は学習院高等科の総見だったのか!!
 さらに続けて、
「母がファンです」
 なんて、小声で仰っしゃる(急に敬語になりましたが……)。
 その時、男は、内心、しまったと狼狽えたものの、しかしここで急に言葉使い、物腰を変えるよりも、ええい、この際もう、それまでの態度、口調で通しちゃえ、と、
「そうかい、じゃ、オッカサンによろしくね」
 (同書)

 “帝王学”で育ったストイックな兄浩宮とは違い、自由な気風で育った秋篠宮文仁親王の礼宮(あやのみや)時代である。

 ところで当方、1996年に赤坂御用地の秋篠宮邸、その横のプレハブのような宮内庁宮務課の小さな事務所に、ある用件で伺ったことがある。宮邸はまだ現在の旧秩父宮邸ではなく、どこにでもあるありふれた2階屋で、“邸宅”と呼ぶに程遠く、質素というより粗末といっていい“民家”だった。眞子さま4歳、佳子さま1歳のころ。狭い庭に小さなブランコと軒に数十センチの鯉のぼりがあった。

 ――一連の眞子さん結婚延期騒動において、週刊誌はほとんど一色となってキャンペーンを張ってきた。その異様さもさることながら、気になるのは、そのスタンスが一貫して宮内庁ないし皇室の保守派に寄り添っていることだ。
それは、かつての美智子皇后バッシング、雅子妃バッシングと同じく、常に週刊誌のキャンペーンが一定のスタンスに立ってきたことと軌を一にしている。〔…〕
マスメディアはいまだに「皇室タブー」の呪縛から逃れられていないように思えるのだ。
 (本書)

 当方はただ、天地の差のある“No.2”で居続けることの秋篠宮家の“憂鬱”を思う。




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