関容子■勘三郎伝説
03/芸というもの - 2014年02月17日 (月)

「さっきアンサンブルのよさを指摘していただいてすごく嬉しいのは、
僕は自分より芝居が好きなんだ、ということなんですね。だから引くところを引いていられるんです。
でも芝居より自分が好きで、のべつ出っぱなしの役者もいますからね」
丸谷さんが大きくうなずいて、
「君の芝居が人気があるのは、これまで世間では愛嬌があるとか、芸があるとか、人の心をたぶらかすとか(笑)言ってるが、それだけじゃない。
君がアンサンブルを作る才能があって、その調和の取れた芝居を観るとお客は満ち足りた気分で帰れる。芝居は一人でやるもんじゃなくて、野球みたいにチームプレイでしょう。それが面白いわけですよ」
――第7章 「わたしの若い友人」と書く作家
■勘三郎伝説 │関容子│文藝春秋│ISBN:9784163767802│2013年11月│評価=○
〈キャッチコピー〉
「役者の仕事って水の上に指で字を書くようなもの。書いたそばから空しく消えてしまう」。芝居の世界に身を捧げ57歳で早世した十八代中村勘三郎。人を愛し、芝居を愛した稀代の名優の生涯を描く。長年、親交のあった著者だけが知るその素顔。
〈ノート〉
十八代目中村勘三郎(1955~2012)は、57歳の若さで亡くなった。その勘三郎について、歌舞伎に精通したエッセイストの関容子が、勘三郎の数々のエピソードを披露する。
勘三郎がまだ勘九郎の20歳の頃、ひと回り年上の太地喜和子に恋をし夢中になる。本書で詳しく触れられているが、ゴシップとしておもしろいのは、以下……。
――反対したのは母上だけではなかったと思う。先代勘三郎も息子の大恋愛中、いい感じの男に会いさえすれば「ねぇ、太地喜和子を誘惑しちゃってよ」と言うのが口癖だったということだ。(本書)
当方は、以前にも書いたが、勘三郎を見たのは、2010年11月の大阪城西の丸庭園特設芝居小屋、平成中村座の「法界坊」。バックステージが開き、本物の大阪城を背景に桜吹雪の中での大立ち回り。浅草隅田公園での背景は、本物の隅田川の満開の桜だったようだ。
これは他の本で読んだエピソードだが、ある店で、勘九郎、勝新太郎、ビートたけしの三人が飲んだときの話。
――その時にさ、座頭市撮ろうって話になった。そしたら(勝さんが)「たけしおまえやってくれ」ってわけよ。あれよ、座頭市の監督を。「そんで俺、座頭市やる」って言ったらたけしさん乗っちゃって、「そいじゃあ私が座頭三をやりますから、勘九郎さん座頭二をやりませんか?」だって。(勘九郎談)
著者のコーディネートで、その勝新太郎と勘三郎が対談する。以下は、勝の芸談。祖父六代目勘三郎の話。
――「たとえば『そんならすぐに、チョン、行きやしょう』、そのチョンのところが六代目はほんのちょっとの間なんだね、これがいいんだな。だってさ、芝居の筋なんか見てるやつなんか誰もいなくて、役者の『遊び』を見に行ってるんだから。一生懸命やられちゃったらつまらない。〔…〕舞台に立って、好きな芝居をやって、客の視線を集めて。もうこんな道楽をしたらやめられないよ。その道楽を客は金払って観に行く。だから一生懸命やってもらったって、困るんだよ」(本書)
〈読後の一言〉
――丸谷さんが「女は芸のこやしのほうも大事ですよ」と返すと、「そう言ってくださるから嬉しいな」と喜んだ。のちのち中村屋のいろんな噂が出るたびに、「あの発言はまずかったか」と丸谷さんが気にしていた。(本書)
〈キーワード〉
歌舞伎 丸谷才一 勝新太郎
〈リンク〉
山川静夫●大向うの人々―― 歌舞伎座三階人情ばなし
石山俊彦■歌舞伎座五代――木挽町風雲録
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