常盤新平■いつもの旅先
07/老人たちの賛歌 - 2014年05月28日 (水)

定年退職した友人は十日に一度、図書館を訪れて、三冊ばかり借りてくる。伝記類が多いのだが、小説もある。
図書館に行くのか友人の楽しみである。学生のころを懐かしく思い出すという。サラリーマンになってからは、図書館から足が遠のいた。
今は本を借りだす前に、図書室で二時間ほど本を読む。「夏なんか涼しいから、わが家より読書に向いているよ」と彼は笑って言った。
友人はもともと本好きだが、年をとって図書館がいっそう好きになった。「もう新しい本は必要ないようだ」と言う。
「わたしには図書館があれば十分だよ」
友人は図書館の帰りが夕方であれば、駅前のビヤホールか居酒屋に立ちよって、かるく飲みながら、図書館から借りてきた本を風呂敷包みからとりたして、ちょっと目を通す。「こんな些細なことがこのごろは楽しいんだ」と彼は笑った。
――「友人の図書館」
■いつもの旅先 │常盤新平│幻戯書房│ISBN:9784864880411│2014年01月│評価=○
〈キャッチコピー〉
おっとりとした地方都市、北国の素朴な温泉宿、シチリアの小さなレストラン……旅の思い出を中心に、めぐりゆく季節への感懐を綴る。没後1年、未刊行エッセイ集第3弾。
〈ノート〉
常盤新平、1931~2013。81歳で没。以前にも書いたが、大原寿人名義の『狂乱の1920年代 ――禁酒法とジャズ・エイジ』(1964)を当時ハヤカワ・ライブラリという新書版で読んで、1920年代にハマったのだった。
ときどき上質のエッセイ集を読みたくなる。そんなときかつて辺見じゅんが社主だった幻戯書房の本を手にする。本書もその一つ。そうだ常盤新平は、亡くなっていたんだ。
上掲は、宮城県図書館の図書館だより「ことばのうみ」に掲載されたもの。全文である。小・中・高を仙台で過ごしたので、その縁によって執筆したものだろう。書かれている「定年退職した友人」(本人のことか)の言動に、当方にも思い当たる節がある。
たしかに当方が訪れる図書館でも、円型にぐるりとまわる窓際の椅子は高齢男性で占められている。つくづく男の居場所の無さを感ずる。
「愛読書」というエッセイで、69歳で亡くなった結城昌治『死もまた愉し』が愛読書の1冊だと書いている。
――結城さんの辞世の句は「書き遺すことなどなくて涼しさよ」になるはずだったが、持ちなおして、二句をよんだ。その一句。
まだ生きてゐるかと蚊にも刺されけり
なんだかおかしくて、くすりと笑いたくなる。じつに上品なユーモアかある。結城さんにとって本当に「死もまた愉し」かったのである。(本書)
「ちょっと明石まで」という短いエッセイは、
――広島に用事ができたので、また明石の港の〈丸善食堂〉で朝めしを食いたいと言うと、Hさんは、じゃあ行きましょうといともあっさりと承知した。その夜、私はまたも浦安を訪れたのである。
という書き出しで、浦安、新横浜、京都、神戸、明石、岡山、広島という地名が登場するが、前後の経緯がすっと頭に入ってこない。明石の「港の〈丸善食堂〉でタコぶつや茄子の煮つけ、おでんなどで朝からビールを飲んだ」という記述があるが、なぜわざわざそこなのかが分からない。
ちなみに〈丸善食堂〉とは、明石港播淡汽船乗り場(今はない)のそばにある。本書には書かれていないが、地元の漁師が朝5時から行く“一膳飯屋”である。蛸入り出し巻がうまいそうだ。しかしわざわざ新横浜から新幹線で出かけるところではない。
いやこういう記述がある。
―一度だけでもうたくさんという街も食べ物屋も料理もあるが、一度気に入ったら、私はなんべんでもためしてみる。そうでなければ、街も食べ物屋も料理も知ったことにならないだろう。(本書)
〈読後の一言〉
『日本大歳時記』を座右においている作家らしく、エッセイに引用している俳句の“選球眼”がすばらしい。
〈キーワード〉
図書館 俳句 結城昌治 明石
〈リンク〉
常盤新平□明日の友を数えれば
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