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堀川惠子★原爆供養塔――忘れられた遺骨の70年

2015.08.06原爆供養塔

 哀しみも喜びもみな自分が作るの、人が作るんじゃない。

 自分のものの思い方で、喜びも怒りも哀しみも生まれるし、争いも生まれる。じゃからこの年になってもね、自分との戦いなんよ。

強くならんといけないね、強ければ相手に優しくできるでしょ。

 ひとりひとりの心が強くなれば、戦争だって起きんのよ。

大切なのは力じゃなくて、心じゃからね。



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 2015年8月6日の今日は、広島に原子爆弾が落とされて70年目にあたる。広島平和記念公園には、「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませんから」の碑文のある原爆死没者慰霊碑はよく知られている。しかし当方恥ずかしながら原爆供養塔があるのを知らなかった。

 その供養塔には7万の遺骨がまつられている。佐伯敏子さんは、引き取り手なき遺骨をまもる孤独な活動を永年にわたり行ってきた。上掲はその佐伯さんの言葉。

 供養塔の骨箱には、名前だけでなく、本籍地の町名、あるいは学校名、亡くなるとき身につけていた遺品が添えられているケースがある。佐伯敏子さんは、一つ一つをノートに転記し、それを手掛かりに手紙を書き、訪ね歩き、遺骨を遺族の元へ届ける。

 佐伯敏子さんは、96歳。現在老人保健施設に入所している。著者は、1973年に出会い、その活動に影響を受けるとともに、佐伯さんの生涯を追う。

 広島原爆投下からその年の年末までの死者は14万人。広島市の公の14万人(±1万人)は、遺族申請による平和公園の原爆死没者名簿に約7万人。そして行方不明者として原爆供養塔に納められた遺骨の数7万人。死者の推定値は、本書によれば「軍隊の死者を入れるかどうかの違いはあるようだが、どの数字もバラバラでまったく整合性がない」。

・昭和20年8月25日・・・63,613(広島県衛生部調・行方不明者を含む。
・同年11月30日・・・92,133(県警本部調)
・昭和21年8月・・・122,338(広島市調査課調)
・昭和24年・・・210,000~240,000(浜井広島市長発言)
・昭和26年・・・64,000(来広したアメリカ合同調査団発表)
・昭和28年・・・200,000(広島市調査課調)

 著者は「死者の数字をめぐる動きを追えば追うほど、彼らの存在が戦後、いかにないがしろにされてきたかが分かる」と書く。そして原爆供養塔に安置され氏名が判明している遺骨が816人もあることは奇跡に近い。そのうちいくつかを佐伯敏子さんの志をついで著者が遺族を探す旅に出る。「私自身、かつて原爆供養塔の前で佐伯敏子さんと出会い、心のどこかに種を撒いてもらっていた。そこから佐伯敏子さんと再会し、広島の遺骨に向き合うまで、15年もの年月が必要だった」。

 おそらく本書を書いた著者の意図は、以下にあるのだろう。

――だからこそ戦後の日本は、たとえ戦いに踏み出しそうになっても身動きのとれぬよう、二度と戦争ができぬよう、自らに対して、どこの国よりも重い手かせ足かせを課してきた。それは、同じ過ちは繰り返さないという覚悟の上に築いた、平和を維持するための「装置」でもあった。その「装置」を、もっともらしい理由を並べて強引に取り外そうとする動きが、今の日本にはある。(本書)

 著者が訪ね歩いた遺族たちへの視線のなんと暖かいことだろう。著者のノンフィクションは、いつも当方の胸を激しく打つ。

★原爆供養塔――忘れられた遺骨の70年│堀川惠子│文藝春秋│ISBN:9784163902692│2015年05月│評価=◎おすすめ│これまで語られることのなかったヒロシマ、死者たちの物語。


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