fc2ブログ
l>
トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

宮田毬栄★忘れられた詩人の伝記――父・大木惇夫の軌跡

2015.09.07忘れられた詩人の伝記

 父は細いきれいな指をしていた。幼い日、私は父の長い指が万年筆を握り原稿用紙の上をスルスル滑って行くのを見るのが楽しかった。白く光る華脅なその指は、たえず万年筆を握っているか、煙草をはさんでいた。

 詩人の父はおそらく一生の間、万年筆か煙草か盃より重たいものを持ちたくはなかったのではないだろうか。

 晩年になっても、長い指の手だけは別の生きもののように老いなかった。
〔…〕

重厚な本棚にかこまれた部屋の真ん中に仕事机があった。辞書、ペン皿、インク壷、吸取紙、文鎮、原稿用紙が置かれた机に父は肘をついて座っていた。


★忘れられた詩人の伝記――父・大木惇夫の軌跡|宮田毬栄|中央公論新社|ISBN:9784120047046|2015年04月発売|評価=◎おすすめ|抒情詩人の生涯を娘が全力投球で描く。

 大木惇夫(あつお)といえば、当方は直立不動で東海林太郎が歌う「国境の町」を思いだす。
 橇(そり)の鈴さえ 寂しく響く
 雪の荒野よ 町の灯よ
 一つ山越しや 他国の星が
 凍りつくよな 国境(くにざかい)

 本書は抒情詩人大木惇夫(1895~1997)の生涯を、詩歴と家族を中心に元中央公論社編集者の娘が綴った評伝である。

 大木惇夫は、”戦争詩”が批判され戦後は「忘れられた詩人」になってしまった、との説がある。当方角川文庫版『現代詩人全集』(全10巻)を愛読していた。大木の作品は第3巻近代詩3に、佐藤春夫(1892生)、堀口大学(1892生)、西条八十(1892生)と並べて収録されていた。第5巻現代1の金子光春(1895生)、草野心平(1903生)などとは違い、戦後の現代詩の流れの中で、大木の定型文語体のような抒情詩が受入れられなくれなり、過去の人扱いにされたのだと思う。

 大木は北原白秋から破格の扱いを受けた最初の詩集『風・光・木の葉』以降多くの詩集、翻訳書を出版しているが、簡単な略歴しか残されていない。それは”火宅の人”であったため、年譜を公表できなかったことによる。最初の妻、二度目の妻(著者の母)、第3の女について冷徹な目で描かれている。

 大木は虚弱体質で46歳にもなってジャワに徴用されるが、その経緯や、
 いざ征かむ、すめらぎの国興る日に
 ゆきて弾散る野に立たむ、
 アジヤの民を解き放つ
 さきがけの血をそそぎてぞ(「いざ征かむ」『雲と椰子』)
 といった”戦争詩”について詳細に記述し、娘としてすべてを受容する。

 自伝的小説『緑地ありや』について、著者はこう書く。
「読むほどに、メランコリー、悲痛、悲嘆、失意、絶望といった感情なしに父の生涯は考えられないと納得する。わずかな歓喜の時でさえ、父の心はつぎに来るだろう悲運の予兆に戦いている」

 さて、本書を逃したら活字化されないという思いからか、たとえば親交のあった作家、詩人の書簡まで収録したり、じつに500ページ近い2段組みの大冊である。
「父は」を主語とする”身びいき”評伝の限界かもしれない。しかし著者にすれば、汲めども尽きず溢れ出る父の詩をもっともっと掲載したかっただろう。

 なお、大木惇夫といえば、今は混声合唱カンカ―タ『土の歌』の作詞で知られている。著者のあとがきに、……。

 「後半生を狂わされることになる戦争について、「戦争の狂気よ、知性を蝕んだ熱病よ」と書くのみで、その後は沈黙のまま長い年月を寂しく生きた。戦争の悲惨、愚劣を身をもって経験した父は、いかなる戦争をも受け容れようとしなかった。『土の歌』は父の苦悩と悔悟が育てた大いなる愛の歌である」

宮田毬栄■ 追憶の作家たち





関連記事
スポンサーサイト



トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

検索フォーム

最新記事

カテゴリ

リンク

平成引用句辞典2013.02~

RSSリンクの表示

QRコード

QR