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2017. 06. 14  
2017.06.14プレイバック


 僕がレイモンド・チャンドラーの『プレイバック』を翻訳しているというと、大抵の人は同じ質問をした。「それであの部分はどう訳すんですか?」と。まるでそれ以外に、この小説に関する話題は存在しないかのように……。

「あの部分」というのは、もちろんあの決めの文句のことだ。
「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」〔…〕

 どなたの訳もそれぞれの思いがあるわけで、さあ、僕はどう訳せばいいんだろうと腕組みしてしまうことになる。なにしろ絵に描いたような仮定法の文章で、そのへんを英文和訳的にごく正確にストレートに翻訳すれば、

「冷徹な心なくしては生きてこられなかっただろう。(しかし時に応じて)優しくなれないようなら、生きるには値しない」

 となるわけだが、これではちょっと長すぎて、「決めの台詞」(アメリカ風に言えば「パンチライン」)、あるいはキャッチコピーにはなりにくい。
〔…〕

さて、僕がどう訳したか……これはどうか本文を読んでみてください。

――訳者あとがき


★プレイバック |レイモンド・チャンドラー/村上春樹訳|早川書房|2016年12月|ISBN:9784152096562|○

訳者村上春樹は、同じあとがきで、チャンドラーに関する英米の書籍を調べても、この台詞への言及は見当たらず、「どうやら日本人の読者がこの『優しくなければ……』に夢中になっているほどには、英米人の一般読者や研究者はこの一言にとくに注目しているわけではないようだ」と書いている。

 日本で最初に言及したのは丸谷才一だ。

 ――ここには、タフな行動人と瀟洒なサロンの社交人とを一身に兼ね備えた男がいる。事実、マーロウは、「あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなに優しくなれるの?」と女に訊ねられたとき、こう答えるのである。
「しっかりしていなかったら、生きていられない。優しくなれなかったら、生きている資格がない」
 この箴言には、ラ・ロシュフーコーのような苦さはないだろう。またニ―チェのような厳しさもないだろう。しかし、独特の、甘美で爽やかな味わいがある。
(「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン日本版」・「EQMM」1962年8月号)

 この「フィリップ・マーロウという男」という一文を収めた『深夜の散歩』(福永武彦・中村真一郎・丸谷才一、1963年8月、早川書房)は、当方にミステリの読み方と面白さを教示してくれた“バイブル本”で、いまも手元にある。

 さてその『プレイバック』、当方が最初に読んだのは、清水俊二訳のハヤカワ・ポケミス版(1959)である。村上春樹は、チャンドラーが昼間から酒を飲みながら書いたもので、酒を飲むシーンがやたら出てくる、と書いている。が、当方の印象は、たばこを吸う場面が頻出すること。チャンドラーの長編で唯一映画化されなかったようだが、映画になっていれば、たばこで画面が煙っていただろう。

 ここで『プレイバック』の名フレーズを比べてみよう。sは清水俊二の1959年訳、mは村上春樹の2016年訳である。
  

s=問題の人物はタキシードを着たカンガルーを探すようにすぐわかった。

m=目当ての女はディナー・ジャケットを着たカンガルーみたいに容易(たやす)く見つかった。


s=「銃では何も解決できない」と、私はいった。「くだらない第二幕を急いで幕にするぐらいのものだ」

m=「銃ではなにごとも解決しない」と私は言った。「銃というのは、出来の悪い第二幕を早く切り上げるためのカーテンのようなものだ」


s=「でも、自殺じゃないわ。あんな自惚れのつよい男が自殺するはずはないわ」
「人間はいちばん愛しているものを殺すことがある。あの男の場合には彼自身ではないだろうか」

m=「でも自殺であるわけはない。あのにやにや笑いの、自己満足の男に限ってはね」
「ときとして人は自分がもっとも愛するものを殺すものだ。そう言われている。それが自分自身であるということはないだろうか?」


s=彼女はエーゲ海からあらわれてきたばかりのアフロディトのように、一糸もまとわずベッドのそばに立っていた。
「おもしろくないね」と、私はいった。「ぼくが若いころには、女の子の服をゆっくり脱がせる楽しみがあった。

m=私が振り返ると、彼女はエーゲ海からあがってきたばかりのアフロディーテのように、素っ裸でベッドの横に立っていた。
「まったくもう」と私は言った。「私が若かった頃は、ゆっくりと女の子の服を脱がせることができたものだ。今じゃこちらが苦労して襟のボタンをはずそうとしているうちに、彼女はもうベッドの中に潜り込んでいる」


s=「どこかで、探偵はだれにも気がつかれないような地味な色のありふれた車を持つべきだと書いてあったのを読んだ。ロサンゼルスへ来たことのない人間が書いたんだ。ロサンゼルスで車をめだたないようにするには、ピンク色のメルセデス・ベンツの屋根にサン・ポーチをつくり、きれいな女の子を三人乗せて日光浴をさせとかなければならない」

m=私立探偵というのは誰の目にもつかない、暗い色の地味な車に乗っているという話をどこかで読んだことがある。でもそれを書いたのはロサンジェルスに来たことのないやつだね。ロサンジェルスで目立とうと思ったら、人肌みたいなピンク色のメルセデス・ベンツに乗らなくちゃならない。それも屋根にポーチがついていて、そこで三人の可愛い娘が日光浴しているようなやつにね」


s=はつかねずみがひげをいじっている音が聞こえるほどしずかだった。

m=あまりにも静かで、ハツカネズミが自分の髭に櫛を当てる音だって聞こえそうだった。


s=「あなたのようにしつかりした男がどうしてそんなにやさしくなれるの?」と、彼女は信じられないように訊ねた。
「しつかりしていなかつたら、生きていられない。やさしくなれなかつたら、生きている資格がない」

m=「これほど厳しい心を持った人が、どうしてこれほど優しくなれるのかしら?」、彼女は感心したように尋ねた。
「If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.」
(ここは伏せます。村上訳本の279~280ページに)

 当方の好みはだんぜん清水俊二である。半世紀以上も前だが、古くない。映画字幕翻訳家らしく、短く歯切れがよい。宮田昇の証言。

 ――彼の翻訳の仕方は、原文をパラグラフごとにしばらくの間、喰い入るように読み、それから原文を見ずに凄まじい勢いで原稿の升目を埋めていく。それを繰り返して進めていくことである。もちろん、その前に映画の字幕翻訳と同じく何回も原書を読んでいる。彼のチャンドラー名翻訳の秘密は、その原文を自家薬籠中のものにして、一気に訳すところにあったのではないか。(宮田昇『戦後「翻訳」風雲録』「達人清水俊二」2000)

 チャンドラーを読んで、比喩や箴言、警句の類だけでなく、村上春樹のいう“カラフルな脇役が次々に登場”してくるのも、楽しみの一つだ。本書では、ステッキを握り、耳の補聴器のボタン、そして読唇術を心得たヘンリー・クラレドン4世という老人が魅力的。
 それからパリのリッツから電話してくるリンダ・ローリング(未完に終わった次作の『プードル・スプリングス物語』ではマーロウと結婚)。彼女は言うのだ。

 ――「あなたは父のことを恐れてはいない。誰のことも恐れてはいない。あなたはただ結婚を恐れているだけよ」(本書)

2016年村上春樹訳から1959年清水俊二訳へ、文字通り“プレイバック”であった。


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