保坂和志□魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない

20130718

20130718サカナは海の中で


しかしわかりやすい文章ほど眉つば物の文章はないのだ。

たとえば司馬遼太郎の『街道をゆく』などとてもわかりやすいが、彼はどこに行っても事前に持ち合わせている自分の知識を確認しているだけで、

その土地の奥深くに迷い込んでゆくことはない。


まさに街道を行くだけで、彼は立ち止まらないし、街道から外れた道にまで行かない〔…〕

このあいだ久しぶりに一冊読みはじめたのだが、やっぱり退屈し、「あ、つまりこういうことだったんだ。」と気づいたのが右の、司馬遼太郎における認識の仕組み、だった。

それならそうと割り切って、ちょっとした知識や教養、あるいはウンチクでも集めるつもりで読めばいいのだが、私にはそういう静的な読書ができない。


□魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない │保坂和志│筑摩書房│ISBN:9784480815125│2012年03│評価=△

〈キャッチコピー〉
《こいつ、何言ってんだ?》と思われかねない、寝言や戯言のような言葉で、どこまでも考える。死と生の意味にまっすぐ逃げずに向き合った、小説魂あふれるエッセイ集!

〈ノート〉
雑誌「ちくま」に2010~11年に「寝言戯言」というタイトルで連載されたもの。長ったらしいタイトルに惹かれ、手に取った。屈折した文章が分かりにくい。

エッセイと小説の違いは何か。エッセイは、エッセイに先行する事実に反しないこと。小説は、事実に一致するかどうかを問わない。小説は、「私」と書いても、その私は今ここにこうしている私ではない。云々。すこし引いてみる。

――全体にエッセイは小説より親切にできていて、前半三分の一くらいを読めば後半の話の落ち着くところは見当がつき、読者の抱くその見当を補助するように、ということは文脈をわかりやすくするように、「しかし」「だから」「あるいは」などの接続語全般が使われる。

 なるほど。ブログを書くとき、接続語を使わぬようにしよう。
こういう一文も……。

――「この人は突然何を言い出すんだろう?」「いったい何が言いたいんだ?」「字面ではこう書いているがこの人が言いたいことは全然違うことなんじゃないか?」という風に、読みながらどんどん踏み迷っていくような文章じゃないと私はおもしろくない。

司馬遼太郎の文章は、整然とした論旨に身を任せて読んでゆけるので好まない、ということらしい。

当方、文学は文体である、比喩多用大歓迎、の立場だから、この作家の言い分は分からなくはない。だからといって屈折した文章がいいとは思わないし、小説の方法でエッセイを批判するのはどうかと思う。

「エッセイは芸術ではないわけだが、私はふつうにエッセイを書くのはどうしても退屈なので、可能なかぎり小説を書く呼吸に近づけて」本書を書いたという。だが本書の地震・津波・原発絡みの文章に「私は退屈した」という。読者にわかりやすい、「そこがいけない」という。おいおい。あとがきでその本を批判するなよ。

そんな時間があるなら、タイトルくらい自分で考えろよ。

〈読後の一言〉
「売れない奴ほど売れっ子作家を馬鹿にする。ベストセラーがあるから、出版社は売れない本でも出版できるんだ」という百田尚樹『夢を売る男』を思いだした。

〈キーワード〉
街道をゆく 小説とエッセイの違い 接続語

〈リンク〉
赤瀬川原平◆全面自供!



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