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青山文平★遠縁の女 …………☆“1ストーリー・1テーマ”ではない“破片”の残る作品群

20170911

2017.09.11遠縁の女


 武家が武家以外の身分と異なる処は、ただ一点しかない。死を呑んでいるということである。
死を当然と見なし、むしろ、死に焦がれる。

武家以外の者に、生きる力が備わっているように、
武家には死ぬ力が備わっている。


 そして、死ぬ力を解き放つ場を、常に求めている。その手がかりこそが、強さなのである。死は、強さを好む。太平の世の剣士だからこそ、どこにあるのか分からぬ死に場処を求めて、ひたすら強くなろうとする。

 百姓も、武家も、追うものは、同じ強さだ。しかし、求めるものはちがう。一方は、生、そして、一方は、死、だ。

――「遠縁の女」


★遠縁の女  |青山文平 |文藝春秋|2017年4月|ISBN:9784163906225 |△

 片倉隆明は、徒士頭を務める父から武者修行を命じられる。諸藩は、武断から文治に切り替え、能吏を育てようという時代である。武者修行にふさわしい器量ではないと断る隆明に、父は言う。

 ――なんらかの寄合で、それぞれに持ち寄った策が合わなかったとしよう。はっきりと優劣が見えているならともあれ、そうでなければ、最後には腕の立つ者の策が通る。それもまた、剣なのだ。いや、それこそが、剣と言ってもいい。物言わずとも技倆が伝わって、知らずに気圧される。(本書)

 隆明には菊池誠二郎という友人がいた。下士だが、藩校では首席で、「能ある鷹の爪を見せつける」男である。やがて右筆を務める市川政孝の娘伸江(この艶めいたひとが隆明の“遠縁の女”である)を娶り、藩政改革に挑む。

 隆明は修行に出、百姓が剣に励む“野の稽古場”で、若い修行者沢村松之助に出会う。

 ……といった風にストーリーは展開する。

 この作品は、最初、一種の教養小説、青年の自己形成物語かと思った。父に諭され、武者修行の旅に出、やがて戻って藩政改革に従事する、とか。しかし友人菊池誠二郎とともに改革に取り組むことない。百姓たちが剣に励む“野の稽古場”で沢村松之助という若い修行者に出会うも、剣を競いあうこともない。読者は肩透かしをくらう。なぜ松之助という人物が登場したかも疑問である。

 当方は青山ファンで、これまでの全作品を読んでいる。が、ひとつ違和感がある。それは長篇でも短篇でも前半、後半でテーマが変わってしまい、登場人物は同じでも二つの作品をつなぎ合わせたような作品が多いこと。“意外な展開”といわれればその通りだが、当方は浅い読みしかできないからそれは“破綻”におもえる。

 あるいは、上掲に部分の前に……。

  ――野の稽古場に集う百姓たちもまた、ほんとうに強い。あらかたの武家を圧倒するほどに強い。しかし、その強さは、武家の強さとは異なるものだ。彼らの強さは、生きるための強さなのである。
 彼らは、あわよくば収奪を図ろうとする藩から、国を、郡を、村を、家を護るために強くあろうとする。生き抜くために木刀を手に取り、強くなろうとする。そこには常に、生きる、という軸がある。

武家はそうではない。彼らは断じて、生きるために強くなろうとはしていない。逆、だ。彼らは死ぬために、強くなろうとしている。そこがどんな場処なのかは分からぬが、しかし、彼らは、躯の内を流れる血を通して、強くなるほどに、死に場処が近くなることを識っている。私はそれを、旅の途上で出会った幾多の、剣にのめり込む武家の修行者との交わりのなかで識った。
(本書)

  本筋を彩るための挿話であれば、もっとさらりと記述するはずが、“全力投球”なのである。とくに短篇は“1ストーリー・1テーマ”だと思うが、本書の「機織る武家」、「沼尻新田」にしても途中でテーマが変わるようにしかみえない。このため読者である当方に“破片”のようなものが残り、さわやかな読後感とはいえない。

 父の急逝で、武者修行を5年で切り上げて国元に帰るのだが、そこから先は紹介できないが、思いもしない展開になる。タイトルが「遠縁の女」じゃないかといわれれはそれまでである。表紙絵に寺松国太郎「櫛」を用いたことから、一筋縄ではいかないと覚悟していたが……。

■つまをめとらば|青山文平


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