発掘本・再会本100選◆句集 水の家 (後)|中作清臣…………☆コラム・私鉄沿線のシンプルライフweb復刻版

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12コラム私鉄沿線の


 
◆句集 水の家 |中作清臣|2001年1月|ふらんす堂|ISBN:4894023814
13コラム

うはぐすり塗らぬ器のやうな夏
◆ 政治の季節

一九六〇年代前半は、政治の季節だった。五九年に市役所に入ったわたしは、毎日のように仕事が終わると中庭に集まり、旗を立てながら集会、雨の日も長靴をはいて(それが雨の日の通勤スタイルだった)デモに参加していたように思う。「アンポ、ハンタイ。キシヲ、タオセ」が終り、岸から池田に首相が替わった秋、研修でお茶の水女子大の講堂にいた。退屈な講義が終わり休憩に入ったとき、文部省の係官が「日比谷公会堂の演説会で浅沼稲次郎委員長が刺されました」と低い声で伝えた。瞬間、全身に悪寒をおぼえた。うそ寒い一〇月だった。
集会のない日は仕事が終わると、三宮から大阪、環状線に乗り換えて天王寺、近鉄南大阪線で矢田という駅まで、ある短大のデザイン科に通学していた。学校と職場の中間にあたる尼崎市大西元町というところに住んでいた。まわりに田畑が残る地に、退職した夫婦がいとなむ下宿屋だった。六畳をベニヤ板で仕切った三畳の部屋に、ベッド、洋服ダンス、机、本箱をおくと、もう立っているスペースはなかった。二食つきの下宿代と通勤・通学代とで給料はあらかたなくなった。日曜になると、ベニヤ板の向こうの男はラジオののど自慢をきいていた。その望郷の勤労青年という雰囲気が嫌いで、わたしは立花駅前まで昼食にでかけ、トイレの匂いのする映画館で三本立ての映画を見てすごした。あれは松竹映画だったと思うが、土砂降りの場面に鮮烈なイメージをもつ新人女優があらわれた。倍賞千恵子のデビューだった。
卒業すればグラフィックデザイナーに転職を考えていたが、一方でその才能もないと気づいていた。仕事で知り合った印刷会社の営業マンは、わたしと同年齢で、おれは親の仕事を継ぐので三重へ帰るが、あんた、うちの会社へデザイナーとして入らないか、と誘われていた。
卒業した翌年、あいかわらず「組合」をやっていた仲間から、憲法の勉強会への参加をうながされた。垂水に臨海莊という寮があり、一〇人ほどがそこに泊まりこんだ。先生は、同志社大学の講師で、三四、五歳の女性だった。短い髪、化粧気のない顔で、背がわたしより高かった。静かなたたずまいだが、凛としていた。
翌日、広間の床の間にあるテレビのチャンネルをひねった。アメリカとの衛星中継の試験放送の日だった。画面は、ケネディ大統領が暗殺された、と報じた。その日、一九六三年一一月二三日。わたしにとって政治の季節の終わりだった。
その若い憲法学者は、のちに代議士、野党第一党の党首となり、やがて女性初の衆議院議長となった。 (1998)

13コラム

水温む壁のかけらを手土産に
◆ 一九六三年の夢

それはなんと奇妙な発端の夢だったことだろう。色彩に満ちていた。火は赤いイメージだがそれは白かった。たとえば白い火のかたまり。あるいは火の星。白いそれが港の方から早いスピードで空を飛び、三宮駅山側に落ちた。流れ星のように瞬間のできごとだった。あれは何だろう。ぼくは市役所の前の三和銀行の玄関にいた。通りを歩いていた人々も足を止めて見た。 何もおこらない。人々はまた歩きだした。その瞬間(そのタイミングが鮮やかだった)、黒い煙がもくもくとわきだし、空を灰色に染めた。半円形の富士銀行が前にのめるように崩れ落ちた。キューンという金属音がいくつも重なりあって聞こえた。戦争を始めやがった。ぼくはやっとそれに気づいた。軍服姿のアメリカ人が花火を打ち上げるように兵器を操っているのを横目にぼくは市役所へ帰った。その女の子はいつも「二階です。四階です」といっているエレベーターガールだった。どういうわけか彼女は白いブラウスを着ていた。なぜ制服を着ていないのだろう。答えは問いを発するまえに分かっていた。真っ白い半袖のブラウスの女の子が崩れるようにすわりこむと、その背中に赤い波紋がじわじわと広がる。血だ。彼女もきっとそういう目にあう。そうなるために彼女は白いブラウスでなければならなかったのだ。市役所の人間は続々と、まったく限りなくエレベーターからはきだされ、どこか分からないが出かけていった。すでに彼らは敬礼し、軍隊口調でしゃべった。
どうしてぼくはこんな夢をみたのだろう。一日考え続けた。思いついた答えは簡単だ。フルシチョフが東ドイツの共産党大会にのりこんで演説すると知っていたからである。やつはまたとんでもないプレゼントを携えているにちがいない。たとえば人間衛星が月に着陸したとか、キューバが火を吹くとか。
その日、朝刊でフルシチョフの演説をたんねんに読んだのはいうまでもない。
(ベルリン一六日発AP共同)フルシチョフソ連首相は一六日の演説のなかで、ソ連が一〇〇メガトン級の水爆をもっているとのべたが、これは演説草稿にはない言明で、この水爆が米国にだけしか使えないことを示唆した。
「同志諸君、ここで私は秘密を一つ話したい。ソ連の科学者たちは、新しい一〇〇メガトン級の爆弾を開発した。この新爆弾は西ヨーロッパで使うことはできないだろう。なぜなら独、仏だけでなく(東独の)諸君をも破壊するだろうから。この新爆弾は潜在的な侵略者に対して、海を越えて使うことができるだけだろう」 (1963)

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卒業の子らミルク色ワイン色
◆喫茶百店

店先にあふれるコーヒーの香り。仕方なしの時間つぶし。友人とのさいげんもない会話。人それぞれ喫茶店から思い浮かべるイメージは違うだろうが、それにしてもおびただしい喫茶店の数である。題して、一九六七年、神戸喫茶店事情。
まず、市役所付近。いまや喫茶店で音楽がないのはひとつの魅力であって、その点からいえば、モンブラン。野田も静かである。ジョーカーはボーリングを見ながらコーヒーが飲める。アポロンは地下だけのときは神戸の中堅画家の絵がじゃまにならない装飾となって良かったが。キャノン、あしべ、三〇番、摩耶、レインボー、パウリスタ。どれも大した個性はもっていない。さんちかは、UCはコーヒー・ランチ(一三〇円)の元祖。たいていの店は四人、二人掛けだが、鷺苑は六人すわれる。某週刊誌で美人のいる喫茶店と紹介されたが、期待してはいけない。あ、サテスタの横にできた凮月堂は茶寮という。抹茶が売りもの。ほかに南からユニコン、季花、平野屋、ドンク、エーワン、カトレアがある。センター街は東から順に。樹苑のタイムサービスはコーヒー、トースト、たまごで一〇〇円。学生が多い。北海は静かなムード。女性専科は入ったことがない。カスカードはお子様ムード。東京はコーヒーがうまいという人もいるけど。ベルはベルのごとく騒がしい。センター街ではやはりG線がトップだろう。神戸のハイセンスのひとつの見本のように思われる。装飾、家具、容器、マッチにいたるまで洗練されている。これで女の子が洗練されていたらなあ。
国鉄三宮駅付近。グリコ、サボイ、新聞会館パーラー、ライター、ルビー。ロンブルは南国宮崎のムードの中で待ち合わせに最適。阪急のほうへいって、キャラバン、ゴールド、エリーゼ、ウィーン、鹿、カンヌ、白鹿、カンヌ、ホワイトローズ、上高地と並べてみると、エスカレーターのあるマンモス喫茶などがあるが、店の内部はそう変化はない。生田警察付近では、キャッスルは椅子がわるい。ボンはせまい。楽のタイムサービスはスープがつく。カームは昼間のコーヒーは五〇円。ボントンは昔のおもかげいずこ。いわゆるコーヒーのうまい店といわれているのは、にしむら(中山手一山側)、コンコード(三宮本通南)、エビアン(穴門筋)、パスカルがあり、これらは常連でにぎわっている。
花の名をもつ店。カトレア、コスモス、サフラン、さつき、さくらんぼ、ライラック、くわの実、オリーブ、アスナロ、スミレ、白百合、白菊、アカシア、スズランなど。ダイエー前のアイリスのコーヒーが好きだ。アルファベットでは、A、ABC、K、G、Rなど。 (1967)

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駅裏のしぐるゝ珈琲濃く匂ふ
◆喫茶百店・続

元町では、パオン(阪神元町西口浜下ル)の階上が同伴喫茶。ただいま満席でございます、が多い。ほかに同伴喫茶ではエイト(ビッグ南東)の地階がある。エンゼル、クラウンは駅前にあるというだけ。高架下の何とかいう都市名の店はコーヒーとカレーで一三〇円。サントスは魅力あるウエートレスがいたが…。美人といえば三宮ビル地階のポートは合格点。お菓子屋の喫茶室というのは家族だんらん、お子様ばんざいでいやだが、長崎屋は和風で静か。不二家、平野屋、コロンバン、ユーハイム、ドンクと胃のわるくなったところで、寿で電子オルガンを聴くかな。
県庁付近は、シャポー、風琴、祇園、ヒュッテなど。シャポーは感じのいい店だが、閉店時間が早い。祇園は京風、装飾過多。山手散策のあとは、シャポーか風琴ですね。加納町三丁目は、ナック、三叉路、ゴールデンカップといった個性のある店が並んでいる。しかしここまでくればにしむらまで足をのばしたい。変わった店では、タンゴファンの集まるキャンドル、モダンジャズの巣バンビ。和風では、おむすび喫茶と称する店もある。
さて、わたしの選んだベスト五は、つぎのとおり。風琴(県庁山側)。新刊書、雑誌、ブリタニカまで並んでいる。つまり書店を兼ねている。店の広さにくらべ椅子の数が極端に少ない。落ち着いた、しかも豪華なムードがある。夕方から酒類もオーダーできる。
みかく(元町駅西口)。赤いカーペットの階段をあがると、熱帯魚、複製の名画、古い鐘、白いレースのカーテンなどが目につく。画廊喫茶と称している。木製のテーブルにはそれぞれ週刊誌の名が彫りこんであって、たとえば朝日ジャーナルのテーブルには朝日ジャーナルの最近号があるという具合。
モンレポー(三宮本通南下ル)。スタンドバーを改造したような感じで、カビの匂いがしそうな店である。しかしこういう店が物語の発端になるような気がする。見知らぬ小さな町の喫茶店に入ったつもりで、そこにツィギーのような女の子が現れて、ふたたび会うことのない一瞬の…、と空想の時間つぶしに適当な店である。
そして、G線、にしむら。ともに神戸らしい店という点で。
神戸っ子は無類のコーヒー好き。青い鳥で会って、スワンで別れ、ナイアガラで恋をし、アラスカで失恋。みどりで笑い、ホワイトで泣きと…。喫茶店には交遊の残滓が苦く甘く漂っている。 (1967)

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暴走の夏開かんとす罌粟の花
◆ハーレム・ノクターン

〇月〇日 子どものころなりたかった職業。探偵。理想的な地上の幸福とは。エスケープ。好きな小説の主人公。フィリップ・マーロウという感傷的な探偵。いちばん大切にしているもの。マッチです、たばこに火をつけるための。好きなもの。ねむ。白色。ハイライト。タイガース。ミステリ。ブリジット・バルドー。有馬頼義の小説。友人とのなくてもよかった会話。酔ったうえでの恋愛論。退屈な風景。仕事とは? 多忙なときほど快調です。女性? とても清潔で実用的という台所用品のコマーシャルみたいな女の子。当然、エプロンが似合う。ただしショートカットでなければならない。

〇月〇日 地図を開けば、そいつはすぐ見つかるのだろうか。ニューヨークのマンハッタン島の北部に、人口四〇万ばかりを擁する黒人の街がある。ハーレムがそれだ。
その街の、金歯のような自動車が走る通りを、人通りの少ない露地に折れれば、老いた犬がうずくまっているか。喧噪なドラムの中で、女たち男たちが烈しく踊っているか。あるいは、隅っこの止まり木にいる男のタンブラーに、馬のようにうるんだ眼がうつっているか。ぼくのなかに巣くっているその街の伝説はたちまち否定されてしまうだろうが、サム・テイラーの「ハーレム・ノクターン」をきいていて、そんな情景をよく思い浮かべる。あるいはまた、ニューヨークのスラム街ウエストサイドの若者たちを描いた例の「ウエストサイド物語」をありありと思いだすことができる。
しかし音楽や映画ではなく、現実の問題としてわたしたちの前に提出されたとしたら、どうか。ウエストサイドを校区にもつニューヨーク第四三中学校の校長であったD・シュライバー氏の教育実践の報告のあらましのなかでは、「けんか、放浪、怠学、そんなものは話にならぬ。わたしのところでは、麻薬患者、放火、殺人、なんでもある」にもかかわらず、それを打破するさまざまな実験的な教育計画が実行されている。
さきごろ起こった中学生の暴力問題にしても、たんに教育だけにその責を帰すべきではないことは言をまたない。しかし…。いやいやぼくはそんな大問題を論じようとしているのではない。「遊び場」の特集を担当して、たとえば臨港線で遊ぶこどもたちの場合、たんに「遊び場がない」だけで解決できる問題ではないとつけ加えたかっただけである。 (1962)

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天に月村のちひさく眠りたる
◆ラスコーの壁画

〇月〇日 冷たい風の吹く駅の雑踏のなかで、ふとそのまま旅に出たくなることがある。どこへ行きたいかと訊かれたら、モンタニャックと答えることにしている。それはフランスの山の中の田舎町である。そこにラスコーの洞窟があり、つい二〇年ばかり前に発見された、二万年前の壁画がある。
しかしほんとうに行きたいのは、たとえばこんな町だ。五〇メートル、いやもう少し長いかもしれない橋を渡ると、そこに古風な町がひろがっているんだ。
長い板をたてかけた材木屋。絵で見るイカダのかたちで木材の浮かんでいる運河。閉ざされたままの酒倉、白壁の土蔵。格子のある家。軒先のひくい駄菓子屋。それらが両側から狭い道をはさんでいる。
町は、しかしそこだけが古風で、工場の煙で空を汚し、工業都市などとよばれている。こんな町。松本清張ばりの推理小説が書けそうな町へ行ってみたい。ついそこにある。

〇月〇日 めずらしく夜九時、オフィスを出る。
ナマケモノとマントヒヒに人間は分けることができるんだそうだ。つまり文科的な人と理科的な人というわけだ。ぼくなど徹底したナマケモノで、たとえばシアトルの二一世紀博の特集グラフを見ていても、モノレールや宇宙旅行はまるっきり興味がなく、「プレーハウスの庭にある巨大な彫りもの。超モダンな感覚だ」としか解説されていない彫刻にひどく気をひかれたりするのだ。これはヘンリー・ムアの「横臥する裸婦」だ。
いつだったか、カラースライドで、アルタミラの洞窟の壁画を何十枚と見せてもらったことがある。もううんざりするほど感動して、人間の美術における能力は進歩しているのか退化しているのか分からなくなってしまったりする。そんなこと考えなければいい。考えなければいいんだが、そこがナマケモノ、月にロケットが飛ぶよりも人間のこころをいじったりする方がたのしいのだ。
バスをおりると、アジサイの花がそこだけ白くぼんやり浮かびあがっている。おんなが疲れた声で笑うのがきこえて、振り向くとむろん誰もいない。西宮球場のナイターの灯が妙にわびしい。阪急ブレーブスは今日も当然のように負けるだろう。
どんとあがった花火が、蜘蛛手にぱっと開けばいいのになあ。 (1962)

13コラム

峡暮れて囮の位置の定まりぬ
◆二二時二〇分発

〇月〇日 たばこをやめた。理由などない。初めてたばこに火をつけたときの理由のなさ。ぼくはいつだって理由のないのが好きなんだ。八月。アルジェリアの海辺でのムルソー太陽からはほど遠い夏だった。ぼくは町から一歩も出ず八月を過ごした。あれは高見順の詩だったか。
貝が舌を出すように
ふとんから脛を出して
寝た

〇月〇日 旅行は日常の時間を崩すことに意義があるなどとしゃべった。右手の中指にしみこんだたばこの匂いをかぎながら、E・クィーン『Yの悲劇』を五〇ページばかり読んだ。語ろうとするなにごとももたぬときでも聞いてくれる友人はなければならぬ、といったのは誰だったかと考えた。そして少しばかり眠った。大阪二二時二〇分発新潟行の列車の中である。
 つよい風が吹いて空が一面に曇っている
私はそんな日の海の色を知っている
『尾形亀之助詩集』にあるこんな書き出しの二行が、ぼくの能登に対してもっているイメージなのだが…。さいはて狼煙は、貧しい漁村だろうか。
退屈なのだ。聴覚を失った老優ドルリー・レーンの推理をふたたび追いかける。闇のなかで列車はときどき奇妙な声をあげて、しかしゆっくりと停車する。眠ろう。
三日たてば、ありふれた空。ありふれた町。ありふれたデスク。ありふれた会話。ありふれた食事にもどるのだ。そのためにぼくは愉快な旅行者でなければならない。

〇月〇日 五時五分前、庁舎四階の窓を開けた。最初に通るバスが問題だ。もし南に税関に向かっていたらイエス、北に三宮駅に向かっていたらノーで、あしたあの子を映画に誘ったらどう答えるかを賭ける。バスは北へ…。あっさりアウト。
快速に乗って、気がついたら大阪駅だった。コマ劇場の地下で見逃していた市川崑の『私は二歳』をみる。なにげない会話が実にいい。
夜、幸田文の『おとうと』を読む。碧郎はいうのだ。「平凡だよね、平和だよね。どこにも感激するような事件というものはない。でもね、そういう景色、うっすらと哀しくない? ええねえさん。おれ、そのうっすらと哀しいのがやりきれないんだ」(1963)

13コラム

大屋根に雪積むけはひ奇譚読む
◆エスケープ作戦

〇月〇日
深夜。「フラワー通りのバラード」という詩のメモ。トーテンポールを仰ぐ花時計。電柱に吊るされた花。グリーンベルト。新書判のように軽い街。税関の大時計。キングスアームスという料理店。「市会議事堂の横を港郵便局へ歩くミルクの匂いのアメリカ人の水兵」ずれる試行、ずるい思考。東遊園地。泥んこの少年たちのサッカーの歓声。発端という悔恨、訣別という媚態。「しかし、何という鮮やかな証しだろう。ぼくは、きみの顔が思いだせない」

〇月〇日 いうまでもなくあなたは多忙である。だからあなたはそういっていいものなら、自由な心、人間性をゆがめるあらゆる重圧から逃げ出そうと、エスケープ作戦を練っている。 あなたはブラッドベリの『火星年代記』に学んだから、一九九九年一月から二〇二六年一〇月までの火星の歴史にはくわしいらしいが、宝くじの前後賞に当たったとしても、このエスケープ・トラベルはちと無理のようだ。
エスケープ・ガールハントはどうか。だがあなたはロッド・キャリアのように「こんなやわらかな接吻むきの唇をした娘が、どうして結婚だけをそんなアカデミックな問題として考えるのだろう」と悩むことはないだろう。なぜなら、あなたは給料手取り一万ナンボだし、ポケットには女の子との約束の日を記す手帳(未だに白紙である)、修理の必要なガスライター、銀紙(「ガムはこの紙に包んで捨ててください」)しか入っていないからだ。それでは『うまい犯罪しゃれた殺人』(ヒッチコック編)や『さあ気ちがいになりなさい』(ブラウン)を読んで、…ああ、あなたは殺人をやってみますか?
仕方なしにあなたはエスケープ・ドリンクを試みる。町へ出てもオーレリアンのように女の尻しか見ないし、三人に一人は美人を発見する(ふだんは六〇人に一人であるが)。しかし自分の計画は本に書いてあるようには運ぶまい、とあなたは知っている。誰かがいうように多忙とは怠惰の一形式なのだ。いうまでもなくあなたはナマケモノである。
酒をのむ金もなければどうするか。シェークスピアの二行の詩、マクベス第二の魔女を思いだし、ためらいがちにやってみることだ。
 あたしが拇指をおっ立てれば
邪悪がこちらへやってくる
ただし、あなたが退屈は恐怖以上につらい場合だけ、おすすめする。 (1963)

13コラム

巷にも夢の領域ねむの花
◆センチメンタル・ロード

 日曜日の深夜。もう、月曜日だったか。シシーよ。鏡の破片のようにさまざまな空を映しながら、思い出は残っても愛は残らないと断言しよう。今日生まれるものはないというように、ぼくらは歩いた、ブラッフと呼ばれている辺り。朽ちかけた異人館の散在する北野町で、フランスパンを死児のように抱えた黒装束の老人とすれ違い、外人倶楽部のコック氏のひげの生えたフランスパンに栄光あれと祈り、はだしで歩いた、アスファルトのぬくもりの消えかかった時刻。通りを別の通りへ、老いた犬が、泣きたい男を咥えて折れ曲がる。暗い壁低い塀が乾いた喉を拒絶する。シシー、きみの唇はすこし荒れ、ぼくのひげが伸びる夜。きみが明日帰る海の向こうの雨の多い気候を語ると、きみのまぶたは幼馴染みの地図が翼をひろげ、吐く息はしゃぼん玉のように漂いはじめる。ぼくに許されたのは、やってくる再会をとらえるために祖父の肖像のうしろのドアを開けることだ。ポケットに入ってしまう一年だから、ぼくらは一つずつ歳をとり、乾杯。ねむの木は夜に濡れて葉を閉じ、店は立っている街の影。ときたま二階の窓に、古代の楽器の黄色いあかりが点っている通り。ぼくらは、歩いた、南へ。シシーよ、きみはシシーなのか。吹き抜けたい唄、脱ぎたい帽子なのか。薬を欲しがりぼくらは歩いた。むらさき色のスナックのむこう。深海魚のあふれる卵のつややかな光は、ぼくらが置いてきた食事だ。きみの母胎に還った唇は、青ざめる花びら、遠くふるえる岬。わずかタバコ一本の距離にきみの国がある。一億二千五百万分の一の地図のうえ。三分間けむりを吐けば、たぶんきみに会えるはず。きみの朝はぼくの夜。けれどぼくの朝はきみの夜ではない、日付変更線の悪戯。気まぐれな孔雀たち。ここはぼくらの箱庭だから、星は動物のかたちをし、港はてのひらに似ている。シシーよ。折りたたまれた雲を広げて見よう。汚れたハンカチ、それとも日の丸。だが朝刊を弔旗のようにかかげ、眠りたいぼくら。高架下のはがされたビラの傷あとは、溶けたい男、噛みたい男の湿った手から逃げた風のくしゃみ。はみだした口紅のようなホテルの看板のむこう側で、ぼくらはキャンディーストアのシャッターにもたれかかり、星のある国旗の数え唄をうたった。一つの星はどこの国。一つの星は黒い星。あれはガーナ。二つの星はどこの国。二つの星はみどり星。あれはアラブ。少し酔っている居留地跡。ガス塔の下、ぼくはきみを抱き、きみは退屈な姿勢に泣きだし。ぼくらは歩いた。水の引いていく海辺明石町を通りぬけ、眠っている楽譜の港へ港へ。指をからませて、歩いていく心中。ぼくらは税関で体重を量り、シシーよ、きみに重さのあることを知って、ぼくはさよならを言わなかった。(1968)

13コラム

歳晩や物みな古りていく匂ひ
◆まぼろしの漫画家

三町半左と書いて「さんちょうはんざ」とルビをふる。やせ馬ロシナンテにまたがった騎士ドン・キホーテの従者サンチョ・パンサをもじった名とわかる。なつかしの少年漫画といった雑誌記事にも登場することのないまぼろしの漫画家である。「少年倶楽部」と「少年マガジン」のあいだの「少年クラブ」の時代、昭和三〇年前後に活躍し、突如消えてしまった。
昭和二六年、わたしが小学五年のとき、手塚治虫の「鉄腕アトム」の前身「アトム大使」がはじめて「少年」に載った。その一ページ目はカラー刷りで目を見張ったのを鮮明に憶えている。そのころ、仲間うちのヒーローは「冒険王」に連載された福井英一の「イガグリ君」だった。作者が急逝し、「赤胴鈴之助」も武内つなよしに引き継がれたが、シャープなペンさばきの福井英一が好きだった。柔道もの、剣道もの、野球もの、どれももうこれには勝てないという強豪がつぎつぎ現れ、毎号手に汗を握り、次号を待つというパターンだった。
三町半左は、時代漫画である。顔の造形が極端にデフォルメされていた。映画的な場面転換を得意とした。コマの中の空白の取り方が斬新だった。疾走するといった場面が多く、スピード感があった。たとえば、南総里見八犬伝。わたしはまず紙芝居で知り、次いで東映映画で楽しみ、そして三町半左の漫画でこの伝奇ロマンを満喫した(のちに山田風太郎の小説でも楽しんだが)。そして「天兵童子」「神州天馬侠」「秘剣小鳥丸」といった作品の数々。けれど同級の友人たちはだれも三町半左を知らないという。当時のわたしは漫画家志望だった。しかし三町半左という天才が現れたため、わたしはあきらめたのだった(という記憶を作ってしまっている)。昭和二〇年代の少年クラブ、少年、少年画報、冒険王、野球少年、おもしろブック、漫画少年、譚海といった雑誌をなつかしむのに、島田啓三、倉金章介、馬場のぼる、杉浦茂、山根一二三、そして樺島勝一、伊藤彦蔵、山川惣治、福島鉄次、永松健夫とみんな知っているのに、三町半左は知らないという。三町半左は、ある日現れて、数年ののちとつぜん消えた。天才は夭折したのか。いま改めて考えると、三町半左の作品は原作があるものが多い。当時は、漫画はオリジナルに決まっていて、作と画の分離は「月光仮面」あたりからではなかったか。戦前の作品を漫画化するという作業は、少年雑誌の週刊化とともに、もはや時代にあわなくなったのかもしれない。大宅壮一文庫の人名索引にも三町半左の名はなく、まぼろしの漫画家を求めてロシナンテにまたがったドン・キホーテのように、古本屋を巡礼するわたしの長い旅が始まったのである。 (1989)

13コラム

ほうたるのやうな尼僧を掬ひとる
◆バルドー

ブリジット・バルドーの「私生活」を見に行こうと誘われたとき、一と月も前に試写会で見ていたのにもかかわらず、新聞会館へでかけたのには訳がある。それは退屈な映画だった。いつの間にか眠ってしまい、しばらくして目が覚めたとき、画面はあいかわらずバルドーの例の厚いくちびる、そりぎみの歯を見せて、叫んだり、不意に黙りこくなったりしていた。次には本気で眠ってしまった。
一週間ほどして「現代詩」七月号で、清岡卓行氏の「別れ」という文章にぶつかった。かつて氏は、他人がバルドーについて何か書いているのをみると嫉妬を感じたというほど、熱をあげていたというのだ。
氏の評論集『廃墟で拾った鏡』のなかの「ボードレールの詩句による映画俳優論」に、
ぼくはきみにきみの美しさを描いてやりたいと思う。
そこでは子供っぽさは成熟と混り合うのだ。
というボードレールの『悪の華』のなかにある「美しい舟」の詩句を引用して、たくみなバルドー論を繰り広げていたのを思いだす。氏はそのバルドーに「理由は思いだせない」が、関心をなくしてしまったという。ところが「私生活」を見るはめになり、そこで妙なものを発見する。バルドーのあごの右下にホクロがあるということだ。その「なじめない不思議な異物」が氏にとりついて「その謎の意味を迫る」のである。そして不意に意味が解ける。「そのホクロは、黒い点は、まことに単純に、終止符(ピリオド)を象徴していた」のである。
しかしホクロはいかにも清岡氏らしいバルドーへの「別れ」を演出するための美しい小道具ではないか。私が一度見ていた「私生活」をまた見に行く気になったのは、そのホクロを確かめるためだった。映画は、つまらなくはなく、まして退屈なシロモノなどではなかった。ヌーベルバーグの旗頭ルイ・マルの力作である。そして三〇分ばかりして、やっとそれを軽い失望のため息とともに見つけたのだ。
いま、私は清岡氏がバルドーに興味をなくした理由を、氏の詩集『氷った焔』のなかの「ほぐれてくる昏睡」という詩の一節に見つけることができる。
 ヒロインが登場してからは しかし
  どうして いつも
   幼く単純な舞台に変ってしまうのか (1962)

13コラム

春の雨肴は甘き人事評
◆かっこわるいか

ある市に「すぐやる課」と称するものができ、その評判のいいのを耳にして、妙にしられた気分になったのを覚えている。なぜかと聞かれても困るが。
その市の関係者が来庁したとき、「寿久弥留菓」と名付けたモナカだったかをもらったが、テレビドラマの舞台にならなかっても、新しい名物はできるんですねえ。
そこで、東の「すぐやる課」に対抗して、西の「一件落着課」というのはどうでしょう。市民の苦情は、面談のうえ即決。「これにて一件落着」とにっこり笑ってハンコをポンと押す。そして桜のかたちをした「一件落着飴」っていうのは、うーん、まあ売れないだろうな。
ところで、稲垣吉彦『気になることば』によれば、当初すぐやる課というネーミングには、全員反対だったという。代案は、機動処理課、応急処理課、至急課、スピードサービス課。なぜなら、すぐやる課ではカッコわるいからだ。
稲垣氏はいう。「あたりさわりのない言葉の氾濫に、だれもかれもうんざりしているからこそ、すぐやる課という『実践の論理』が光る」
さて、すぐやる課はカッコわるいという公務員はカッコわるくないか?
私の友人がいう。レッツゴー三匹をまねて。「ヤクショとヒャクショウでは、どっちがどっこいしょですか?」
昇進のための義務や野心と、誰でも心の底に感じる人に好かれたい願いとの間で悩む不幸な公務員が、時によると非常に怒りっぽくなるも理解できます。(ダリオー『男と女の事典』)
(役所とは)個々の人びとが責任を伴わないで、それぞれ自己の利益をあげうるよう巧みに工夫されている仕かけ。(ビアス『悪魔の辞典』)
いや、会社の定義です。似ているので、つい。
公務員の腐敗堕落ぶりを報じた新聞を読んだフジ三太郎が、ふらりと税務署にでかけて、「どうしても払う気がしないんだが」とかけあうと、窓口のおっさんが裏口に案内して、ドブ板をあげ、「ドブに捨てるつもりで気がる気がるにハイッ、一、二、三」と号令をかけてしゃがみこむ。(江国滋『人間山脈』)
まさに、いいたいこといってらァであり、ガマンだよヤマちゃーんある。罵詈雑言をあびせられたら、あなたならどうする? 前向き(そのまましゃがみこむ)姿勢で検討いたしたい。それともショージ君みたいに、グヤジイけれどナットクとうつむく? (1972)

13コラム

凛々しさの半ばなりけり寒稽古
◆かっこわるいか・続

さて、役所嫌いのSF作家の大行進である。
税金なるものは、日の丸親方のひきいる国の家一家のシマを借りている私たちのとられるショバ代かもしれません。なにしろ、その乾分衆をやしなうのはたいへんです。別にたのんだわけではないのに「保護してやるから金を出せ」とくるし、いろんな事業に手を出すし、少し稼ぎがいいと「だれのおかげでもうけたんだ」と…。(小松左京『未来図の世界』)
書類受付のカウンターにいた男は、いかにも小役人然としたとしたタイプの男だった。「あっ。出生届に母子手帳がいるんですか」「なけりや、書類が作れないじゃないか」「は、はいっ。すみません」
おれはとびあがり、区役所をとび出した。(筒井康隆『欠陥大百科』)
官吏への不満をあげればきりがない。不親切である、能率がわるい、責任のがれ、心から謝罪しない、など。いつだったか、あまりのことに腹をたて、コッパ公務員という新語を作り、友人たちに披露した。(星新一『気まぐれ博物誌』)
私は、この本で、「まだ報告を受けていない。事実とすれば大変だ。まことに遺憾に存じます。さっそく調べて善処する」という調子のいい歌があることを知った。
さて、私の思いは、「男は黙って…」である。「違いのわかる男」なのである。「やめられないとまらない」ではないのである。洗剤のCMふうにいえば、「今でも仕事好きじゃないけど、市民のためならせっせとやるわ-」である。
「お役所」というイメージを塗り替えるには、「説明」ではなく「行動」なんですねえ。
そのためには、再び『気になることば』から引用すれば-。頭の中で整理した概念としてのことば(名詞のかたち)ではなく、行動をそのまま表現する内容と形式をもったことば(動詞のかたち)を使って、論理を組みなおそうということ。とりあえず市民への呼びかけの文章は、名詞のかたちに縮めていわないで、動詞的表現でのべる。ここにいたって、すぐやる課とは、じつは「発想の転換」じゃない、「ヘンシーンする」のだと気づくわけです。「しらけるぅ」という役所のイメージは、「なんだかヘンだな」にかわり、「おぬしやるな」となる。まあ「さーすがっ、越えてるゥ」とまではいかないにしても。もっとも、私の友人が言ったね。「おれはねえ、もう、だんぜん、開き直ってやるんだ。何を申すか。われわれをなんと心得ているのか。おかみであるぞ」 これもまたかっこいいのであります。 (1972)

13コラム

熱風裂き夜の軽三輪(サムロ)の夢心地
◆深夜の独演会

(日記- 某日。深夜、三宮からタクシー)
「娘がネ、三年生なんスが、宿題で港のことを調べる言いましてねえ、市役所へ行ったらしい。そしたらいろいろ教えてくれて、袋にいっぱいパンフレットつめてもらって帰ってきたって女房が言うんですヨ。どういうの、これ。開かれた市役所つうの。私、それまで嫌いでネ。何年か前に陳情に行ったのヨ。も、も、問題が問題だけにこの問題はあの問題と一緒に、も、も、問題にしなければならない問題です、なんちゃって。あ、お客さん、市役所のシト?私らの商売でも辛いことありますヨ。息子がネ、四歳ですが、絵をかくのが好きでして、そのオ、くるまの絵ばっかし。いや私の商売とは関係ないと思いますがねえ。そのくるまに全部シッポがついているわけ。これ排気ガスやで-、排気ガス言いよったもんネ。私、個人でやっているからやめられないスが、辛いヨ。で、マイカーをもたない。ん、これも男のおしゃれだヨ。コーガイ反対、カンキョー守れいう人でもマイカーもってたら、私、信用しないわけ。私ら、市役所、関係ないスよ。こっち向いててくれたらいいんでね。だから、あのオ、住民言うの、あれはオンナ・コドモのことじゃないかなあ。オトコは昼間いないからネ。うちの団地でもオンナが集まって、陳情や署名や言ってますが、ん、あれだな、一方で正論、他方で情緒的権利主張、だろうと私は推察いたすンですがねえ。市役所いうのはオンナ・コドモ相手の仕事だなア。デパートだけかと思っていたよ、ふん。私も勤めの経験があるからネ、係のシトの辛い立場が分かるわけヨ。オンナは違うよ、ケンポーダイナンジョーイハン言いよるもんネ、アハハ。そうそう、昔よくあったじゃないスか。新聞に、ネ。そのオ、「住民は怒りをぶちまけていた」とかサ、「住民は涙ながらに訴えていた」とか。もう決まっていたもの、結びの文句は。で、どうですか、それがもう今や市役所は、そのオ、国に対して「怒りをぶちまけて」ばかりいるもン。ははアー、そこンとこがコッチ向いてる証拠ですか。ふーん。なるほどねえ。まあしかし、そのへんのところを、もー少し、住民に対して「涙ながらに訴えて」ほしいわけヨ。私はネ、もう走って走って、走り続けるだけ。乗車拒否なんてしない。やせがまんこそオトコのおしゃれ。あの信号のとこですね。はい。あっ、お客さん、お釣り。いや悪いヨ。そういやア、新聞にでてましたネ、給料上がるって。もらっとこうかなナ、ん、いいよネ、どうも」
(日記つづき- 運転手、饒舌なり。悪酔いす) (1974)


13コラム

双六の一回休み休みたし
◆春を待つ

書棚を整理していたら、こんなものがでてきた。手書きのメモB5十数枚をコピーしホチキスでとめた冊子が四冊。腹々時計、第四コーナー、天秤ばかり、春待ち祭り、とそれぞれユニークなタイトルがついている。いずれも受験生のノウハウを記録したものである。
市役所では三〇歳ころになると、係長試験がある。これをクリアし係長にならなければ、つぎのの課長というポストへの道は閉ざされる。年末年始になると妻子を実家に帰し単身赴任のごとき様相を呈するとか、グループでマンションの一室を借り仕事帰りにそこに集結して講師を招いて勉強するとかのうわさもあり、受験前の一年は顔つきが変わるのである。
この冊子は、グループには加わらずひとりで勉強してきた人たちが、後輩へ申し送りする実用的な体験談である。どんな参考書を使ったか。どういうスケジュールを組んだか。出題分野別勉強法。予想問題とその解答。答案の作り方。文房具の工夫。当日持参したもの…。といった技術の公開と、いかに悩んだかの告白である。
たとえば天秤氏は「私のありのままの煩悶ぶりを読み、きみの失いそうな自信を回復せよ」と綴っている。すなわち、元気のでるメッセージである。
祭り氏は「朝刊で、冬至あけの春待ち祭りという言葉を見つけた。クリスマスのことだが、なんと快い響きだろう。遠い春、しかしかならずやってくる春を…」と書いたものの十日後には「いまほとんど耐えきれない状態にある」と。
天秤氏は、マラソンの君原健二氏の言葉を引いている。「何度やめようと思ったかしれません。あの街角まで、あの電柱まで、あと五百メートルだけでやめようと。一年は無理だが、一日なら、一時間だけならしんぼうしようと走ってきた」
時計氏もいう。「その年の秋の交通安全標語を、こころのなかで呪文のように唱え続けた。それは『あせっている今があなたの赤信号』というのだった」
時計氏というのは実は私だが、私も深夜まで自室で鉢巻きをし、隣家の二軒の二階のあかりが消えるまでと、机のまえにぼんやりとすわっている日々があった。隣家はそれぞれ高校、大学の受験生がいたのである。
孤独な闘いと思っていたものが、終わってあたりを見回してみると、実は家族や同僚に支えられていたと気づくのだが…。不運にしていまひとたびの挑戦を余儀なくされたきみの健闘を祈るや切。 (1983)

13コラム

再会の菱茹づ酒を温むる
大きくも小さくもない

もう卒業してから三〇年近くなる高校の同級生の「近況報告集」が送られてきた。みんな四五歳。かつてのつめえり服、セーラー服の少年少女たちはどうしているのか。一人二〇〇字、二二〇人のメッセージにしばし過去への感傷旅行をたのしんだ。
男たちは、まず急激な円高をなげき(まあこれは挨拶がわりか)、体力の低下をぼやき、仕事のPRを忘れない。
同じクラブだった男は『四〇歳から英語がどんどんしゃべれる』といった類いの本を、ペンネームを使い分け書きついに著書五〇冊を越え、駅前にビルを建てたという。
なかに「お父さんは商売が下手やからこうして細々とやっていくしかないんやろなあ、と妻はもうあきらめている。しかしときどきその嘆息が気になって、皿を拭いたりゴミ袋をだしたり、男の自立ににそなえて家事手伝いをしています」というのもあって、これは卒業文集で「一生一度の恋がしたい。紫の恋が…」と書いた男である。
しかしおおむね、男たちは社会の中堅として、仕事に家庭にゆるぎない自信をのぞかせている。
女たちは、夫が単身赴任であるとか、仕事に夢中であると語り、成人前後の子どもに悩み(じつは自慢であるが)、そしてこれからの余裕をなにに振り向けるべきかとまどっているようにみえる。
「階段は『よいしょ』と昇るし、電車に乗れば『どっこいしょ』と腰をかけるし、なんともオバチャンの真っ最中やっています」という陽気な未亡人もいる。 賀状が宛先不明で返ってきてから十年近くたつ、同じクラブでかつて友情を分かち合っていた二人の男の消息が気になったが、名前はない(一人は不明のままだが、あとの一人はふたごの幼い娘を残しがんで亡くなったとのちに知った)。
私は、多忙を理由に近況報告をしなかったが、かつて『北村太郎詩集』の「センチメンタル・ジャーニー」という詩が好きだったのを思いだした。
四五歳。いまだにそういうところにいる。
秋の一人旅、行き着くところは、どこでもいいさ。
仕事があって、夢があって、
それに、大きくもない小さくもない幻滅のあるところだ。 (1986)

13コラム

さういへば赤電話消ゆ神の留守
                    ◆ロンドン日本料理店

酒場で飲みながら、仲間の話題に加わらず、他のことを考えていることが多い。そのときも福岡で下宿している息子からのやっかいな相談ごとが頭にあった。カウンターの内側にいるアルバイトで働いている女性が、ロンドンといったとき、その言葉で我にかえった。ロック・バンドの「追っかけ」をやっていて、ロンドンまで行き、そのまま半年住みついていた、としゃべっている。とっさにロンドンのある日本料理店を思いだした。
城崎温泉の老舗旅館の三代目が経営している店で、グリーンパークの北、ピカデリーから入りこんだホワイトホース通りにあり、東京でいえば赤坂、六本木にあたるロケーション。古い空きビルの一、二階を改造し、いわゆる日本情緒を排し、木製のテーブルいすを並べたシンプルな造りの店だった。古い建物には地下道があって、グリーンパークからバッキンガ宮殿に通じている。となりの将校クラブの内部は、小型の博物館という印象だが、女王陛下がときどきおしのびで食事に来られますとのこと。もちろん地下道を通ってではないが。
その日一一時に、私たちはウエストミンスター環境保健部のリーウスさん、キングコットさんと、サシミ、テンプラ、日本酒というメニューで昼食をともにした。じつは二日前、私たちは空港から地下鉄、タクシーを乗り継ぎ、マリーボーン通りにある彼らの役所を訪ねたのだが、到着したのは午後四時、約束より二時間遅れていた。コペンハーゲンからのフライトの遅れのせいだった。リーウスさんはジョンブルにはほど遠く、管内のある五七〇のパブを監視するより、パブのマスターの方がふさわしいのではという印象があって、日を改めて、今日の昼食を約束していたのだった。ロンドンではサルモネラ菌、日本では腸炎ビブリオ菌が食中毒の主流といったことがもっぱらの話題だった。彼らと別れ、エラファント・キャッスルにある保健社会保障省を訪問、ふたたびこの日本料理店に戻ったのは、午後五時過ぎだった。夜の開店までの時間。そこで働く若い日本女性数人がテーブルを囲み、英国人調理師から英語を習っているのにぶつかった。彼女たちは紬の着物を着ており、いかにもシンプルな民族衣装という感じはするが、なぜか痛ましい。英国留学が主客転倒し、料理店のウエートレスが本業、土日を除く毎日の休憩時間が「英語実習講義」となった事情は知らない。
福岡にいる息子の相談ごとは、卒業しても就職せず、目的もないまま外国へ出たいというものだった。酒場のカウンターで酔いがきたなと思いながら、紬の彼女たちの風景のなかで、息子への返事を考えていた。 (1988)


13コラム

「六甲颪」自縄自縛早ヤ晩夏
◆ギャラリー

シンガポールに、タイガーというビールがある。そこで「はるかなるライオンシティでタイガービールを飲みながらタイガースの優勝を祈願するツアー」なるものを計画した。といっても、じつは参加者は友人とふたりだけ。おたがいに金と英会話に不自由な中年である。
したがってサマセット・モームの短編を話題に、ラッフルズホテルで豪華な晩餐というわけにはいかない。エリザベス・ウォークの屋台でサティ、ニュートン・サーカスの屋台で福建めんという夕食である。
その頃は、高層ビル建築のコンペ会場みたいなシンガポールではなく、オーチャード通りにも英国風の三階建の建物が多く残っており、ラッフルズ提督時代の面影があった。
ビールだけじゃなく水割りも飲みたいね、とすぐ旅の趣旨に反して、マーーライオン像近くのシアターレストランへでかけた。 受付嬢に言った。ワレワレハ、ショクジヲシナイ。まあ、レストランへ行っていきなりこういう台詞をいう人はいない。ワタシ、ショーダケミル。ミズワリ、クダサイ。
たったこれだれが通じない。首をかしげている。ロビーのいすにすわったまま、ワタシ、ウタヲホッシテイル、とかなんとか、奮闘五分。水割りだけ出てきたものの、いっこうにホールへ案内しょうとしない。仕方がないので、ミズワリ、モウイッパイクダサイ、とお替わりばかりしている。いいかげん酔っぱらったところで帰ろうとしたら、彼女がにっこりと「ギャラリー?」
そう、そうなのだ。オー、イエス、ギャラリー。という訳で、二階の観覧席に案内されて、飲み直しをしましたが。
のちに辞書を引くと、ギャラリーには俗衆という意味もあり、じつにわがツアーにふさわしい思い出の言葉となったのである。そしてタイガースが優勝したら、再びタイガービールを飲む会を計画しなければならない、と誓った。
後日談がある。
一〇年後、そのシアターレストランへでかけたのである。前回の経緯はこんどの仲間に話してある。この店はわたしが英語で取り仕切ります、と宣言して。受付嬢たちは、わがグループを見て、流暢な日本語で話しかけてきたのだった。
この年もタイガースは低迷した。 (1989)

13コラム

夜の蘭あやふい夢の続きなく
◆仮の宿

ラン[蘭]ラン科植物の総称。独特の花形に加え、美しい色彩や芳香をもつものが多く、鑑賞用として栽培される。オオトリランやイトウランという品種は、華やか。「赤と白が混じって、考えられないようなピンク色でいい匂いがする。おまえと会うといつもあのカンボジアの戦場の蘭を思い出すんだ」(村上龍)

サマーセットというバーで、ジャズを聴きながら、とりあえずシンガポール・スリングで乾杯。地上七一階のコンパス・ローズというラウンジで、マラッカ海峡を眺めながら、ドライ・マティーニ。ネプチューンというシアターレストランで、バーボンの水割り。あげくにはホテルの朝食に、アンカーというビールを持ち込んで…。中年の旅は、酒びたりであった。
熱帯モンスーン地帯にあり、年中気温が変わらない街である。だから六十年前に書かれたモームの『手紙』もそうだし、最近の森瑤子の『カフェ・オリエンタル』もそうだが、この街を舞台にした小説は、ものうい。どちらも、愛人、密会、殺人という話。けだるい大気のなかで、ここを仮の宿とする人々にとって、退屈は恐怖以上につらいのかもしれない。
『カフェ・オリエンタル』のこんな会話。
まだ飲み足りないの?
まだ足りないね。よく言うだろう、頭の中でカチッと音がするまで飲むって。
カチッと音がするとどうなるの?
俺の記憶の中から、夜の部分が消える。闇がぬぐいさられる。
倦怠感ただよう街には、蘭の花が似合う。発つ前、テレビの深夜映画で、ジャンヌ・モローの「エヴァの匂い」をみた。原作者のハドリー・チェィスには、「ミス・ブランディシュの蘭」とか「蘭の肉体」という作品がある。それとも村上龍『ラッフルズ・ホテル』の白昼夢のような女優萠子のせいか。シンガポール・スリングを飲んだ夜、夢をみた。
悪女イヴが言う。「あなたの腕のなかで雨宿りしたかっただけなのよ」
蘭は、人工的な街の人工的な装飾である。そんな花があっても、ま、いいか。
帰ってから、神戸ハンター坂で、スリングを飲んだが、あやしい夢の続きはみなかった。
(1989)

13コラム

薔薔薇の下をとこの矜持消し去りて
◆誘う

バラ[薔薇]バラ科の落葉灌木の総称。形・色・花弁の数など多数。鑑賞・香料用。ローマ人は天井に一輪のバラを吊るし、その下での話は秘密にする約束があり、したがって「バラの下で」は「秘密に」の意。夜の酒場で花開く。妻の誕生日に限って、家庭で咲くことも。

一つ。上司たるわたしは、部下を誘うのにいつも躊躇する。ふたまわりも年が離れると好みも異なるので、またあの店かと嫌がられたりする。で、二、三人で、初めてのスナックにぶらりと入る。話の糸口が見つからないので、ママに「最近の三宮の景気はどうですか」と話しかけたりする。一時間ほどいて帰ろうとすると、ママからお土産。「これがいま三宮でいちばん評判の○○のケーキです」
二つ。仲人を引き受けた二人を連れていった店へ、ちがう後輩と行ったとき。ママ、この二人、今日婚約したんや。それはおめでとう。ちよっと待ってね、とママ外へ。しばらくして、大きなバラの花束。後輩の二人には、それぞれ妻、夫がいる。店をでてから、花の始末に三人は困ってしまった。
三つ。モーニング姿で東門かいわいを歩いたことがある。仲人のわたしに司会役の後輩が「披露宴で飲めなかった」と言い出したからだ。いきつけの店は日曜日なのでどこもお休み。初めての店だったが、服装を見て、「ボトル代だけでけっこうです」 四つの赤いバラのバーボンである。おもわぬ効用だった。
四つ。おれの部下にねえ、と友人が言う。仕事はてきぱきと処理するし、後輩の面倒もよくみる。そのうえ上司に対する気配りも抜群。社長の秘書に推薦したい、という女性がいるのだが。ただ、どこの酒場へ行ってもカウンターの内側に入る癖があってね。止まり木が空いていても、彼女はカウンターの内側に入って、当然のようにチイママしてしまう。
五つ。ある日、後輩を誘った。「嫁はんとずっと冷戦状態でして」とさんざん愚痴をきかされた。それからあわてて近所の花屋に走り、バラの花束とともに、むりやりタクシーに押し込んだことがある。かれは「電子手帳を買いましてん」とポケットからそれを取り出し、「ここを押しますと、今日のスケジュールがポンとでます」と言ったのである。画面には、「結婚記念日」とあった。上司から酒を誘われるのは嫌だという人が多いが、上司も部下を誘うとき悩むのである。 (1989)

13コラム

閉づるべきものもう何もない寒さ
◆閉ざす

ねむのき[合歓木]夜間に小葉を閉じ、眠るようだとしてこの名がある。六、七月頃、日没前に薄紅色の花を開く。鯉川筋、トアロード。街のなかのねむのきは、長いコールの後の電話の声に似て、夢の続きのように危うい。

むかし読んだ心を閉ざした男と女の物語が忘れられない。
男は、マーシャと出会って半年たった夏に結婚した。彼女はちょっとした微笑ひとつで、まわりのひとびとをくつろいだ気持ちにさせるかわわいい女だった。それからしばらくしてクリスマスにあと一と月という日、男は殺人罪に問われて刑務所に入る。男はマーシャの面会を拒絶し、離婚を迫った。屈辱と誇りと、妻への愛のために。マーシャは惨めな日々のなかで、やさしくて若い大酒のみの男と一と月つきあうという悔恨の出来事を残すことになる。
その五年後から物語は始まる。
フェルト帽を目深に引き下げた肩幅の広い男が帰ってくる。マーシャはナイトクラブでピアノを弾いていた。あどけない面影はなく、歳月が清楚な美しさを刻みつけていた。この女も今では二八になる、と男は思う。マーシャは言う、「お話したいのよ。長くもないし、おもしろい話でもないけれど」
しかし男の心は開かない。男は思っている。前科者としてきみのもとへは帰れない。きみはがらにもなく手に入れた、なにかボーナスのようなものだった。
ニューヨーク港を舞台に、真犯人追及へのいきどおりと、夫婦の駆け引きとよぶには幼い葛藤のプロセスである。
W・P・マッギヴァーンの『最悪のとき』は、ふんわりと夢のような花を咲かせながら、かたくなに葉を閉ざすねむのきのような女を思わせる。男が泣きたくなるような感傷的なハードボイルドである。(1989)

13コラム

アナベルといふ名のあぢさゐ少女A
◆ 知性という性

あじさい[紫陽花]「出島の屋敷は雨ばかり、むらさき 夕凪 夢すだれ」(さだまさし)「姉は九つ、妹は五つ、庭の紫陽花濡れてて六つ」(与田準一)

スキャンダルに悩まされたある女優がこう語ったと、青木雨彦(だったと思う)がどこかに書いていた。
「男性があり、女性があり、そのほかにもうひとつ知性という性があって、それが中年よ」
名言ですねえ。自信をもたせてくれます。
中年むき小説だという赤瀬川隼の『恋人たちの午後』を読んだ。本屋のレジで差し出すのも気恥ずかしいタイトルだが、人生を一日にたとえると、夫婦は恋人たちの午後、という意。
バーくららに集まる営業マン、銀行員などの飲み友達の交遊と、かれらの職場や家庭がオムニバス風に語られていく。
たとえばこんな設定もある。出張が一日早くかたづく。会社や家族に内緒にすれば、二四時間のフリータイムとなる。さて、この時間のぜいたくをどうする?
飲み友達のなかに女性も登場する。雨のなか、あでやかに、しっとりと咲いているあじさいのような女である。
さて(ここで小説を離れるんですが)、わが中年集団キタノ・スランプ・クラブは、だれかがストレスがたまりSOSを発すれば、みんなが集まり飲みながら騒ぐという会である。ここに年齢、職業、結婚歴とも不詳という女性がいるんですねえ。夜の集まりでしか会わないが、飲めばハイミス、オバタリアン、ママドル、フツーの主婦ふうと、にぎやかに七変化。すなわち、あじさいの人である。
ある朝、その人を偶然見かけた。まっすぐの姿がきりっと涼しげでもあり、かろやかな足取りはやがてふんわりと舞いそうでもあった。うーむ。(知的中年であるはずの)わたしはなんだか「風さわぐ」となってしまったのだった。
朝帰り、それとも通勤途上? とっさに、出張が一日早くかたづいた日であると判断して、尾行しよう、とはならなかった。中年は、やっぱり知性という性なんですねえ。いや単に、臆病という病気の中年であるにすぎない。
最近、酒を飲みに行かなくなった。週末の店は若い女性であふれているし、酒といえば水割りしかでてこない。ミステリを読まなくなった。これぞ男の独占物のはずが、女探偵が増えアイアン・レディがやたら登場する。男の矜持もミステリから消えてしまった。
深夜、あかりを消し、手元にウイスキーとタバコをおき、ビデオで古い映画を見ている。われながらなさけない週末である。
『ハノーバー・ストリート』は、一九四三年、戦時下のロンドン。一日だけの休暇のアメリカ兵と出会う人妻をレスリー・アン・ダウンが演じている。コーヒーでもどう? コーヒーは飲まないわ、いつも紅茶よ。良心の咎めと抑えられないきもちでゆれうごくレスリーは、こじわまでセクシーに見える。
『カクタス・フラワー』は、ニューヨーク五番街が舞台のコメディ。当時五四歳のイングリッド・バーグマンが、てきぱきと仕事を処理し、デートの誘いにのぼせ、サボテンに似てきたとからかわれる三五歳のハイミス役。サボテンも花咲くのである。
『昼下がりの情事』は、パリのホテル・リッツで、クーパーの中年プレイボーイとヘプバーンの女子学生による、これもコメディ。「愛して、逃げる」が身上の男が、Aというイニシャルの入ったバッグをもつ少女に魅かれる。
「きみの名前は、アンナ、アグネス、アマンダ、アガサ、アンジェラ? もう種切れだ。何の略?」
「少女A」
といったような会話があった。
彼女の名前は、アナベルだったか、それともアリアーヌだったか。『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』の中国系の女優と同じ名前だった気がする。山裾にいろんなあじさいが津波のようにあふれている奈良の矢田寺には、アナベルという名の小さい花弁のあじさいが、清楚な少女のようなたたずまいをみせて咲いている。
(1989)

13コラム



その朝の白き芙蓉の赤く落つ
◆酔って散る

ふよう[芙蓉]アオイ科の落葉潅木。夏に大形の淡紅・鮮紅・白色の五弁花をつける。スイフヨウ(酔芙蓉)という品種は朝に白色、日中は紅色、夕方に桃赤色となって萎む。ウノフヨウ(宇野不要)のあとのカイフヨウ(海部用)は花に水玉模様がある。

バーの止まり木で話題が尽きたとき、「白地図ごっこ」をすることがある。紙ナプキンに日本地図を描き、そこに府県名を書きこんでいく、という遊びである。
これがなかなか四七全部は揃わない。その夜の相棒は、最後まで富山県がでてこなかった。「さっきの店で相客が石川さゆりの歌をうたっていたやろ。あれや」
「わたし、あなたの腕の中。はねて、はじけて、鮎になる。(と、うたって)これか?」
「そう八尾おわらのまつり」
この歌の原作にあたる高橋治の『風の盆恋歌』は、酔芙蓉という花が重要なモチーフとなっている。朝のうちは白いが、昼下がりから酔い始めたように色づいて、夕暮れにはすっかり赤くなるという花。
「おまえ、こんな台詞覚えているか。で、酔った揚句どうなります。散りますな。酔って散るんですか。そう、一日きりの命の花です」
「こんどは『不倫小説ベストテンごっこ』をやろうやないか」
「山田太一の『丘の上の向日葵』はどう? 風変わりな設定で、展開がスリリングやし」
「藤沢周平の『海鳴り』がええな。危険な逢瀬、しかし闇はさらに深い」
酔いのなかで、医師の言葉が浮かぶ。
(脳は薄くて透明な膜で包まれているんです。脳と膜の間は澄んだ水がたたえられていて、その髄液中に出血が起こり、脳が血で取り囲まれて…)
義姉、四十代なかば。突然の死であった。
真夜中、病院から自宅へ連れて帰る途中、その姉がやっていたニットの店に迂回した。店先の闇のなかで、酔芙蓉の花は深紅のまま萎んで、木の根元に散っていた。一週間前の朝、姉はそこで倒れたのだったが、その時刻には酔芙蓉は白く澄んでいただろう。
「いやいや、夏目漱石の『それから』を忘れたらあかんで」
こうして男の夜は更けていくのである。 (1989)

13コラム

冬鵙のごとき亭主と去年今年
聖ジョゼフ

コスモス[秋桜]秋に畑のすみ、垣根、道端、川原、池の岸などどこにでも咲く。「薄紅色の秋桜が秋の日の何気ない陽溜りに揺れている。此頃涙脆くなった母が庭先でひとつ咳をする」(さだまさし)。「つきはなす貨車コスモスのあたりまで」(正一郎)。

わが家には、庭がない。いまだに庭予定地のままだ。ある夏の夕暮れ、妻、娘と食卓を囲んでのはなし。欅の大木を一本どうやろ。花のほうがええわ。手入れをしなくてすむ花が。お母さんには、何の花が似合うやろな。自分ではコスモスやと思うわ。
むかしむかしのはなしである。メキシコの小さな町で、アメリカ人夫婦のこんな会話。
この国の人たち、さびしいと思ったことはないのかしら。
馴れているんだよ。
こわくないのでしょうか。
そのために、宗教をもっている。
わたしだって、宗教くらいもっていたわ。
その聖者が、きみの祈りにこたえてくれたのか。
すこしのあいだわね。でも、その後はだめなの。ぜんぜん願いをきいてもらえない期間が何年も続いているけど、でもお祈りはずっと続けているわ。
その聖者はだれなんだ。
聖ジョゼフよ。
聖ジョゼフ? ぼくの名前じゃないか。

レイ・ブラッドベリの『十月はたそがれの国』のなかの一編である。その頃、毎晩遅くまで働き、仕事のない夜は酒と麻雀。休日は眠っていた。この小説に動かされ、ある土曜日の午後、妻と待ち合わせた。ネッカチーフを首に巻き、スーツ姿の妻がかけてくるのをみた。痩せている。明るい色彩の町とひとびとのざわめきのなかで、その服装は貧しく、妻だけが取り残されたセピア色に見えた。せいいっぱい笑顔のつもりで咲いているが、色も形も質素な一輪のコスモスのようだった。
あれから十年。結婚指輪をという妻の願いにも、まだ応えていない。 (1989)
13コラム

熱帯夜駅員去りし駅舎かな
駅の記憶

ウイークデーは子どもの寝顔を見るだけの日々になり、なんとなくうしろめたい気持ちもあって、ある日曜日の朝、五歳になる息子と姫路まででかけた。「近くへ行こう、山陽電車」というキャッチフレーズがあったころである。
山陽電車は、神戸姫路間というみじかい距離を瀬戸内海沿いに走る私鉄である。私はこの沿線に生まれ、住んでいる。ついでに書けば、ここの入社試験を受けたことがある。
運転席のうしろからレールのまえにひろがる風景を見るのを、子どもは運転士になったように喜ぶ。姫路に近づくにつれて、レールの両横にあらわれる小さな駅のホームが気になりだした。その駅も、次の駅も、みんな知っているのである。十年ほど姫路には行っていない。だから途中の駅を知っている訳がない。
しかし…。この駅の近くに神社があって、大きな銀杏の木がある。この駅のすぐ南の浜国道に面して農協の倉庫がある。この駅の出札口をでると電話ボックスがある。この駅の北側にはコーラの自販機があり、そのまま細い道を行くと小高い山に入ってしまう。まるでSFの世界のように想像した風景が現れるのである。
この駅にはメガネをかけた長身の駅員がいた。そこではっと予感めいたものがあった。その駅員とけんかしたぞ。
酔っ払って、終電車に乗り、眠ってしまい、乗り過ごし、あわてて降りた、駅の数々、である。電話ボックスは「タクシーを回してくれ。パトカーとはいわないから」と一一〇番したところである。また、農協の倉庫のまえで、やっと乗ったタクシーに「有り金の二千円分、東へ走ってくれ」と頼んだこともあった。別の日、コーラを飲みながら電話かタクシーを探すため国道に出ようとして、不意に気づくと山道に迷いこんでいたのだった。
電車のなかで、子どもと窓の外に輝いた朝の風景を見ながら、そんな記憶がいっぺんに飛びだし、汗が吹きでてきた。
それ以降、乗り過ごしたことはない。と断言しながら、じつは自信がない。いや、タクシーではある。
音が微妙に変化したので、目が覚めた。橋のうえを走っていた。夜の闇のなか、川のさざ波が光って見える。川の名をいえばまさかと驚く人がいるので、書かない。 (1987)

13コラム

夢を問ひ病告げざる青嵐
◆おとうと

駅をおりて自宅へ帰る途中、今はもう看板がとりはずされてシャッターも閉じられたままの店舗の前を通ります。そこはわが家のとなりに住むおとうと(四四歳)の店でした。オイルショックで経済が低迷していたころ、こういう時代だからこそあえてと独立し、電気・水道工事と家電販売の自営を始め、まずは順調な日々でした。
そのおとうとが昨年七月身体の不調を訴えドック入りのつもりで入院。思いもしない診断がありました。本人には知らせず、かれの妻と母と兄弟だけが胸のなかに熱い祈りをこめて短い夏をすごしました。九月のおわり病院を訪れた妻と子にいつものように復帰後の仕事の夢をかたり、またあした、と笑顔で別れた直後、病状が急変。突然の死でした。幼なじみ十数人が集まり、かれの初恋のはなしなどもでて、おとうとにふさわしいにぎやかな通夜となりました。葬儀が終わってしばらくして英会話のカセットテープが届きました。退院をしたら迷惑をかけた家族と海外旅行に行くからベッドのなかで勉強しようとかれが注文していた品でした。兄の口から言うのもなんですが、好漢でした。
日記をつける習慣をもたないが、ある年の七月の初めから九月の終わりまでを記録した黒い表紙の手帳がある。最初の日は、おとうとが七五歳になる母に「あしたドックのつもりで入院する」と言った、とある。
おとうとは姉一人に続いて男五人という兄弟の三男だった。おとうとは、父の勤める某重工業に父に「むりやり入れさされた」のだが、父への反発もあって結局その会社をやめ小さな家電会社に転職し、さらに自営に転ずる。近所に住む兄と私とそのおとうとの夫婦六人で何度か飲みにでかけた。父は陽気で率直なこのおとうとをいちばん評価していたが、そのことをおとうとに言うと、小学生のころ酔っ払った父が母をいじめていた記憶が去らないと、繰り返し言った。その酔っての繰り返しが父に似てきた、とからかうと本気で怒ったこともあった。
医師にどう切り出していいかわからず、社会復帰できるでしょうか、ときいた。医師は首を横にふり、あと三カ月と。わたしはそのことをかれの妻にどう話せばいいのか悩み続け、そのあげく母に告げてしまったのだった。その日から母は無言の日が続いた。 病状を心配する中学二年になるおとうとの娘は、夜になると、庭先でテニスボールを塀に打ちつけていた。ぽつん、ぽつん、というその寂しい音はいまでも耳の底に残っている。
あの年の夏は、鬱々としたほんとうに暑い夏だった。 (1987)

13コラム

いちめんの菜の花母の生家かな
◆音無村三代

いま、サラリーマンの必須科目は、ゴルフとカラオケではないか。私はどちらもできないから、ゴルフに話題がおよぶと外国語の中にいるように居心地がわるいし、カラオケとなるとたちまち青ざめる始末である。私は音の大小はわかるが、高低はわからないのだ。
小学五年のとき、若くて美しい音楽教師が田舎の学校にやってきた。悪童どもはその先生をイジメの標的にし、先生は奮戦はするものの授業の終わりにはハンカチで目を押さえながら職員室に駆けこむのだった。私はイジメに加担した覚えはないが、期末になって通知簿をみると「音楽2」であった。思えばそのころから、歌との屈辱的な闘いが始まっていたのだ。
勤めはじめると、歓送迎会や忘年会などで、新人は歌を強要されるのである。最初は、「播州の音無という歌舞音曲のない村で育ちまして」と言い訳をしていた(もちろんそんな町名はない)。やがて理由に困り、「みずから作詞作曲した歌しかうたいません」と宣言した。それを覚えていた上司がいて、親睦会の旅先で「作曲もできただろう」とご指名があった。進退きわまってうたいましたヨ。「くらい歌だねえ」と上司のひとこと。のちに歌唱力にコメントしなかった心くばりに気づいたものである。それからは幹事をあらかじめドーカツすることをおぼえた。
私は父や母の歌をきいたことがなかった。母は謙虚を唯一の美徳とする人である。父が亡くなった翌年、その母が村の盆踊りの幕間のカラオケ大会で「冥土のみやげに一曲うたわせてください」ととつぜん名乗りでたのである。近所の人も母の歌は初めてだという。
母はうたった。しかしそれは歌といえただろうか。観客の爆笑と失笑のなかで母はしんけんにマイクをにぎっていた。私は涙をこらえながら、それを見た。そして妻とふたりで、母に激しい拍手をおくった。いま七〇歳をこえる母に当時の動機をきく勇気はないが、あれは父からの解放感だったのか、思慕であったのか、謎のままある。
さて、子どもが生まれたとき、テレビのコマーシャルソングばかりで育てるのはどうかと、ステレオを買った。四歳になると、ピアノも買った。日曜日の朝、娘のピアノで目覚めるのもわるくない。数年続いたが、やがてその音もきかれなくなった。
そしてついに恐怖の日がやってきたのである。深夜帰宅し、茶の間のこたつの上にぽつんとおかれているものを見た。小学五年の通知簿であった。なにげなく開いてみた。「音楽2」とあった。 (1987)

13コラム

内臓を西日にそごう神戸店
わが街・三宮

国鉄三ノ宮駅を南に降りると、すぐ左に新聞会館、真正面にそごう神戸店、市電税関線に沿って国際会館、さらに下って市庁舎、たったそれだけが大きなビルで、青空が大きく広がっていた。新聞会館の南には連合軍のイーストキャンプの跡地、鉄条網に囲まれかまぼこ型の兵舎が残り、そごう西のセンター街入口周辺はジャン市と呼ばれ闇市の雰囲気が色濃く漂っていた。しかし、新聞会館、国際会館、市庁舎という三つの真新しいビルが神戸の新都心としての三宮のシンボルであり、やがてくる高度経済成長を予感させた。
八階建ての母艦を思わせる市庁舎の屋上にはオリエンタルホテルの経営する円形のレストランがあり、庁舎北側には花時計が大きな秒針をまわしていた。いずれも当時の市長の欧米視察によるアイデアだった。その市庁舎前が六二年と六四年の二度熱気につつまれた。阪神タイガースの優勝パレードである。
六二年。ベテラン藤本定義監督が率い、投手はエースに小山、ザトペック村山、野手に名手吉田、職人三宅秀、鎌田、四番一塁左右の遠井、藤本、外野の並木。オープンカーで手を振る彼らに、私は新聞紙を切り刻んだ紙ふぶきを市庁舎四階の窓から投げ続けた。二度の優勝の後、じつに二十五年後に三宮は沸き立つことになるが。
新聞会館と国際会館には舞台があった。六〇年に劇団民芸の「どん底」を観ているが、どちらのホールだったか。ルカ役は滝沢修だった。宇野重吉、細川ちか子など劇団結成十周年のオールスターキャストだった。
労演、労音の例会が唯一の文化とのふれあいの機会だった。そういえば労音の機関誌「しらべ」の表紙の斬新なデザインは、横尾忠則だった。その名前は知っていた。神戸新聞に読者のページという投書欄があって、そのカット(イラストという言葉はまだなかった)をはがきに描いて投稿していた中学生の私は、毎週と言っていいほど掲載される西脇の高校生がいて、その人が横尾忠則だった。
九五年の大震災により、新聞会館、国際会館は崩壊し、取り壊され、市庁舎は八階建ての五階部分が壊滅し、建築物としての瀟洒なイメージを消した。三八年の阪神大水害、四五年の神戸大空襲にも耐え抜いてきたそごう神戸店は、無残にも内臓をさらけ出したまま、しばらく放置された。
 三宮はたくましくよみがえりつつある。だが私には、もはや見知らぬ街である。(1999)

07タイトルあとがき

 オフィスの昼休みに古書店へ足を向けたとき、偶然「季寄せ」を見つけた。一九九〇年のことである。その頃、岩波文庫でわらべうた、唱歌、童謡など読んでおり、「死語」に興味をもっていたせいである。歳時記もまた「死語累々」であった。忘れられた故郷があるような気がした。同じ頃、仕事でかかわりのあったある人がスピーチに立たれるとき、自作の句を引用し巧みに締めくくられるのが常で、傍目にかっこよく、挨拶下手の私はすぐさま真似ようと思った。
  そういう動機で俳句を始めたが、身近に句友、連衆がいるわけでもなく、持続させるために賀状に毎年一〇句刷り込むことを課した。そのうちパソコン通信での句会があると知り仲間に入れていただいた。未だにお会いしたことのない人たちのネット句会をいくつか経て、九九年に千句に到達した。本書は、そのうち三〇〇句を、便宜的に五章に分け収録した。
「風さわぐ」は働く地、「幻都」は遊ぶ地、「印南野」は住む地を、主として舞台にしたもの。また「游日」は海外吟を、「神戸・一九九五」は大震災の一年を私なりの備忘録としてまとめた。
 大震災は年を経るごとに心に鬆(す)が立つように残り、「かろやかな感覚」の神戸っ子のライフスタイルを変えてしまったような気がする。もともと新書判のような軽い街。句も軽くかるくありたい。それにしては老境めいた句が多いのは、死語を意識していたせいか、句作の一〇年がわが五〇代と重なっているためか。俳句は、対象への挨拶であり、季語のリニューアルであり、様式の詩である。一七音、季語、切れ字という制約は、なんとも厄介。しかしそれは「様式のありて練り合ふ言葉かな」といえる心地よいものであった。
 震災で失った神戸、その心象をとどめたいと、古い記録を整理していたら友人と墓碑銘ごっこをやっていたメモが見つかった。わが碑は、書き写すのも恥ずかしいが、「生涯に三冊の本をつくりたいと思った。妻になるであろう少女に一冊の詩集を。やがて生まれる子どもたちに一冊の絵本を。そして友人たちに一冊のミステリを。しかし実際は、妻が詩であり、子どもたちが絵本なのであった。そして友人たちにとって私自身がミステリアスな存在であった」というもの。この二冊目の本は、詩集から実に三〇年を経ている。コラム「私鉄沿線のシンプルライフ」は、その三〇年の補遺であり、私の感傷がこれを収録させた。わがなつかしき二〇代にまでタイムスリップできたのは思わぬ収穫であった。
二〇〇一年一月

10タイトルちょっといい話

生活と人生の句読点・俳句ちょっといい話(41)
●死語にこだわる


森 英介 (コラムニスト・元毎日新聞出版局次長)

 前神戸市立中央図書館館長の中作清臣(俳号・繭々)さんが俳句を始めたのは、四十代最後の年だった。唱歌、童謡などで死語に興味を持っていたところへ死語累々の「季寄せ」を見つけた。同じころ、スピーチに立った知人が自作の句を引用しながら巧みに話を締めくくるのを聞いて、よし自分も、と思った。

 脱ぎ捨てて風の生まるる五月かな

 人事異動の歓送迎会で贈った句。過去を捨てて心機一転、新しい職場に馴染めばきっと新しい君が生まれるよ、という挨拶句である。
 身近に句友もいなかったため、パソコン通信の句会に参加して腕を磨いた。年齢も職業も知らず、もちろん会ったこともない若い人たちとの自在な交流。その最中に阪神・淡路大震災が起きた。

 俯せの町仰向けの町霙る
 生ごみも洗濯物もない寒さ
 ぺしゃんこになってしもたわ日向ぼこ


 未曾有の大災害の悲惨な風景の中で人々の触れ合いや微笑の点景を温かくすくいあげた。

 パンの香や新樹の坂を図書館へ
 こほろぎのやうな電話を鞄に飼ふ

 
 神戸は坂道とパン屋の多い町。須磨区副区長などの行政職を経て初めての図書館勤務。インターネットでの蔵書検索を実現するなど市民サービスの向上で心の震災復興に取り組んだ。

 印南野に初日百あり百の池
 母病めば母をめがけて散るさくら


 生まれは神戸の西隣の播州。定年を機にまとめた句集『水の家』(ふらんす堂)を出版してからは、故郷に目が向き、最近は「方言俳句」に挑む。絶滅寸前の方言」という死語を何とか句の中に残したい。十七音の中に季語とともに盛り込むのは難しいが、自分にとっては当然の帰着と言う。

 おとどいで夜さり微熱の野分立つ
(おとどい=兄弟姉妹、夜きりり夜間)

――『俳句あるふぁ』2002年2-3月号・毎日新聞社発行



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