中島義道◆七〇歳の絶望 …………☆著者にとって夫人は、ボケ防止の最良の薬である“残酷な仲間”なのか、絶対的孤独を避けるための“わずかでも心の通じ合える人”なのか?

20180308

2018.03.08七〇歳の絶望


権力や快楽を追い求める人生や、虚飾に満ちた人生や、エゴイズムを貫き通す人生が「死を前にすると」厳しく絶望的であるというお話ばかり耳にしますが、

じつのところ、いかに趣味豊かな人生でも、いかに虚飾から遠い人生でも、いかに人の役に立った人生でも、いかに周囲の人を幸せにした人生でも、

いかにみんなから愛された人生でも、いかに清貧に徹した人生でも、いかに悟った人生でも、

やはり「死を前にすると」虚しいのです。



◆七〇歳の絶望 |中島義道 |2017年11月|KADOKAWA|新書|ISBN:9784040820033|△

 久しぶりにこの哲学者の本を手にしたが、69冊目の著書だそうである。10年程前には、そのタイトルに魅かれてずいぶん読んだ。『醜い日本の私』『差別感情の哲学』『人生に生きる価値はない』『私の嫌いな10の人びと』『女の好きな10の言葉』『人生、しょせん気晴らし』……。本書は「老境にさしかかった最近の心境を日記風に」書いたもので、担当編集者の提案によって魅力的な『七〇歳の絶望』というタイトルにしたという。

 当方がもっとも愛読したのは、排他的なウィーンでの人々との確執を描いた30代の留学記『ウィーン愛憎――ヨーロッパ精神との格闘』(1990)、その10年後の古きウィーンの消滅や家族との確執を綴った『続ウィーン愛憎――ヨーロッパ、家族、そして私』(2004)。その27年前の『ウィーン愛憎』が10年ぶりに増刷されたと本書に書かれている。

 ところで著者がいまも行き来している“愛憎”ウィーン時代をかつて小説化している。妻、息子との確執を描いた『ウィーン家族』(2009)がそれである。こんな記述がある。

 ――もうすぐ50歳だ。あと、20年しか生きられない。
 いや、もっと短いかもしれない。そのあとは、どうなるのだろう? 
 まったくの無なのか、それとも何かあるのか? 7歳のころから考えてきた。人生において、このことだけが重要な問題だと確信してきた。この確信は、この歳に至るまでただの一度も揺らいだことはない。

 その後、まったくの無だとすると、なんで俺は生まれてきたのか? この地上に数十年だけ生きていたことは、何の意味があるのか? 
 何の意味もないことはわかっていた。だが、この問いを放棄することはできない。その後の人生で、康司はこの問いにしがみついて生きてきた。
(『ウィーン家族』)

 ところで本書『七〇歳の絶望』には、……。

 ――考えてみれば、どんなに豊かな人生でも「死ぬ限り」絶望的であることは7歳のときから知っていた。だから、70歳になったからといって、とくに絶望的であるわけではないことも腹の底から知っている。 (本書)

 たしかに70歳を越えても、ずっと「この問いにしがみついて生きてきた」ようだ。本書のあとがきにも、こう書いている。

 ――あとは死ぬだけなのに、こうして自分の興味を引くこと(のみ)に全力で取り組んでいる「充実」して見える老後も、無限に虚しく、絶望的なのです。

 そして“定番”の駅の騒音、照明への苦情に加えて、新たに電車内で化粧をしている女性を目の前で怒鳴るという「気晴らし」も始まっている。相変わらず夫人との対立もある。

 ――基本的には妻は私が「哲学塾」を開いていることや、人生論(?)を書いていることが気にくわない。こうした手段によって、私はソクラテスのように、若者を堕落させていると確信している。弱い不幸な人々を「餌」にして自分の欲望を満たしているところがあると言う。そう言われれば否定はできない。何にせよ、哲学によって「メシを食っている」のだから、不純なことがあって当然である。 (本書)

 別の著書で、「ボケ防止の最良の薬は『残酷な仲間』をもつことです」とか「わずかでも心の通じ合える人がいれば絶対的孤独は避けられる」とか書いていたが、さて著者にとって夫人はどちらの存在だろうか。

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