★遺すことば――作家たちのがん闘病記 …………☆死ぬことは怖くないけれど、ただ訳もなく寂しい。(宇江佐真理)

20170816

2017.08.16遺すことば


 村上華岳の初期の作品に、「夜桜之図」と題する、とろりとして、男女のことごとく狐に化かされたか、それとも尻尾でもありそうな、妖しい感じの一枚がある。

 その感じだった。私は花に疲れ、花に憑かれて、正気をうしなった。以来、病気が確定した時も、入院と手術のときも、外来治療に移って3年になる今日ただいまも、狐に化かされつづけているのだと思うことがある。

 そして誰かが、肩に手を置いて、「君は無病だよ、息災だよ」と言ってくれる日を待つ気になる。

 それが、ほかならぬ、息の止む日だと、知っていながら。


 ――〔上田三四二『病院通い』の後半部分〕

 とても胸を打つ文章ではないだろうか。文章全体に漂っている諦観が、どうしてこれほど美しさを引き出すのだろうか。25年前に、すでに私は癌患者の心の声に少しは耳を傾けていたのだ。それも予感、もしくは予兆だったのだろうか。

 今の私の気持ちも上田さんと、ほぼ同じである。諦めて、覚悟していながら、心の底は寂しくてならないのだ。死ぬことは怖くないけれど、ただ訳もなく寂しい。この寂しさを埋める術を私は知らない。じっと耐えるしかないようだ。

――宇江佐真理「私の乳癌リポート」


★遺すことば――作家たちのがん闘病記 |文春ムック|文藝春秋|2017年6月|ISBN: 9784160086500|○

 がん体験記、闘病記を収録したアンソロジー。
 病を克服した青山文平・瀬戸内寂聴・井上荒野・村田喜代子・東海林さだお・保阪正康・柴門ふみ・徳岡孝夫。
命を落とした杉本章子・宇江佐真理・筑紫哲也・米原万里・藤原伊織・北重人・井上ひさし・河野裕子・山本兼一。

とりわけ気になったのは、上掲の髪結い伊佐次捕物余話」シリーズで人気の宇江佐真理。宇江佐は1949年生まれ。2013年に乳がんが見つかるが、骨、リンパ節に転移し、手術不可。

 小説家になる前、いい文章に出会うとノートに書き写していた。その一つが上掲の歌人上田三四二(1923年生まれ)の「病院通い」というエッセイ。やはり全文を引いた方がいいようなので、前後になるがその前半分。

 夜桜見物は覚悟の花見という気持ちがあった。夜桜の下で、ぼんぼりの光に浮いて、弁当を開く。いちど、そういうことがしてみたかった。妻と二人、にぎやかな車座と車座のあいだに小さく場所をとって、しずかに酒を呑んだ。
 桜の山は人の山がいい。あたりは騒々しければ騒々しいほどいい。そしてこころはしんしんと寂しかった。花が散り、隣りの連中が酔にまざれて枝を揺さぶると、満枝の花はたまらずふぶきと降りかかって、歓声が沸き、花は膝の上の折詰にも散った。
――〔上田三四二『病院通い』の後半部分〕


「群像」1989年1月号に発表されたものとあるが、調べてみると上田はその後すぐ1989年1月8日に亡くなっている。

 宇江佐真理は、こう続ける。

 ――残された時間は1年なのか、5年なのか、10年なのかはわからない。身体が動く内は、もちろん執筆を続けるつもりだし、家事もする。寛解はしないと告げられても、どこかで奇跡を待ち望んでいるところもある。〔…〕
 大丈夫、あなたはまだ生きている、すぐには死なない、と。
(本書)

 『文藝春秋』2015年2月号に発表されたものだが、同年11月66歳で死去。切なく胸を打つ一文。

*
 もう一人気になるのは、腎臓がんを克服したノンフィクション作家保阪正康(1939年生まれ)の「『昭和史の証言」を伝えずに死ねない」という一文。

 2006年1月に手術を受ける前に遺言を書く。それはある先輩に倣って、「私が亡くなってから、私自身のあいさつ文を書いておくのでそれを初七日にでも友人、知人あてに投函してほしい」というもの。だが、……。

 ――昭和という時代を生きた人たちの証言は百年、二百年といった時間からみれば、いつか重要な重みをもつと決意して、それこそ延べにすれば4千人近くの人たちに会ってきた。そういう人たちの口から語られた死者たち(何も日本人だけではなく) は、それこそ万に及ぶのではないか。
 私がこのような一文を死後に投函することは、彼らに対して非礼にならないか、いやそういうことさえできずに亡くなっていった戦場での死者たちに、私は傲慢すぎるのではないかと思い至ったのだ。
(本書)

 この一文を2011年に発表し、その5年後の77歳になった保阪正康は「機械が摩滅するように少しずつ機能不全に陥っていく」としながらも、その間、妻をくも膜下出血で突然喪った心境を「追記」し、こう締めくくる。

 ――私の胸中で何かが崩れる予感がしている。いつ人生を終えてもいいとの覚悟もできたのに、それでも医師のもとに通い、定期検診をくり返しているのは、私の中に生きている妻をまだ生かしておいてほしいとの思いがあるからだ。妻がそう望んでいると考えているからである。今は妻に生かされているとの思いである。(本書)

 2人に1人が罹患し、年間35万人が死亡するがん。当方の身近にも斃れた人、克服した人がいる。わたくしごとを綴るつもりだったが、ここは書かぬほうがいいようだ。


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Author:koberandom

1冊の本の中で「気になるフレーズ」を見つけることが“書評”である、と。



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